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もう一度キスしたかった 01


「別れていただけませんか」



突然の言葉にユダは目を瞬かせた。
週に一度の逢瀬。
お互いの熱を分け合ったばかりの言葉とはとても思えない。
シャワーを浴びて出てきたばかりのユダは、既に身支度を整えてベッドサイドに腰を下ろしている人物の真意がわからずに視線を向けた。
かっちりとしたスーツに身を包んだ姿は、つい先程熱に浮かされていたとは思えないほど清廉な雰囲気を纏っている。

「シン…?」
「あぁ、でも、こういう言い方は妥当ではありませんね」



私たちは付き合っているわけではないのですから。



苦笑とも嘲笑ともとれるような笑みを浮かべて告げられた言葉に、ユダは何と返して良いのかわからなかった。
確かにシンが言う通り、ユダとシンは恋人同士という関係ではない。
何となく縁があって何となく逢瀬を重ねてきただけ。
つまり、身体だけの関係というやつだ。
社会人となって数年、幸いなことに会社からの評価が高かったユダは、昨年異例の若さで営業部の部長職を任命された。
そのため一日のほとんどの時間を仕事に費やすことが多く、その頃付き合っていた恋人からは時間が取れないと不満が続き、結局別れることになった。



「仕事と私とどっちが大事なの?」
「あなたは私が何をしていても気にならないんでしょう」



そんな言葉が煩わしくて、ここ数か月は恋人を作る気すら起きなかった。
特定の恋人を作らなくてもその場限りの逢瀬を楽しむ相手には事欠かなかったし、実際シンもそうして声をかけた相手の一人だ。
尤もシンとそういう仲になってからは他の相手に声をかけることはなかったのだけれど。
それでもユダにとってシンは恋人と呼ぶほどの仲ではない。
だから確かに別れるという言葉は語弊があるかもしれないが。

「理由を、聞いてもいいだろうか」

恋人同士ではないけれど、現時点でシンほど気に入った相手がいなかったのは事実。
他の相手に食指が動かない程にはシンを気に入っていたのだから、別れてほしいとの一言で縁が切れてしまうのは少々勿体ない。
だが、ユダの言葉にシンは真摯な瞳を向けてきた。

「他に好きな人ができました」
「…」
「…彼を、裏切りたくありません」
「…そうか」

この不確かな関係を打ち切るのに、これ程相応しい言葉はないだろう。
シンに本命ができた。
だから二度と逢わない。
シンの言い分は正しい。
それほど長い付き合いでなくても身体を重ねていればシンがどういう人物かはわかる。
誠実で控えめで、むしろユダとの曖昧な関係を続けていたことの方が不思議なほど、シンは真面目なのだ。
付き合わせていたのは自分。
ユダの都合でシンをこんな関係に留まらせていた。

「それなら仕方ないな」

ユダの言葉に、シンの瞳が僅かに揺れる。
この不安そうに揺れる黄金の瞳が好きだった。
熱で潤んだ瞳に自分の姿が映るのが、そしてそんな自分に向けてふわりと浮かべられる笑顔が、ユダは気に入っていた。
だが、それももう己のものではない。

「では、失礼します。…お元気で」

小さな呟きと共に、シンがユダの脇をすり抜ける。
ユダと同じシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。
背中を超える長い髪。
絹糸のような触り心地は格別だった。
思わず手が伸び――だがそれは触れることなくシンはユダの手からすり抜けていく。
振り返りもせずに閉められた扉。
そこには明確な拒絶があった。

ユダは重い息を吐いた。
たかがセフレが一人いなくなっただけだ。
それなのに予想以上にショックを受けている自分が不思議だった。
元々長続きをするつもりのなかった関係だ。
シンとは長く続いていたが、それこそ一度きりの逢瀬の相手など掃いて捨てるほどいた。
中には関係を続けたいと思っていた相手もいただろう。――今のユダのように。
それを無視してきたのは自分。ならば彼らと同じ立場になってしまったのは、己の都合で相手を振り回していたユダへの罰なのだろうか。

「シン…」

不思議と安らぎを与えてくれる相手だった。
勿論身体の相性も良かったが、それ以上に顔を見るだけで蓄積された疲労がほどけていくような安心感は、身体以上に心を満たしてくれる稀有な存在だ。
傍にいるだけで癒されるし、その細い身体を抱きしめて眠ればこのうえなく愛しさがこみあげてきた。
シンもそうだと思っていた。
向けられる視線はユダへの親愛を常に湛えていたのだから。
だが、このままの関係が続いていけば良いと思っていたのは、どうやらユダだけだったようだ。
シンはユダ以外の相手を選び、それを止める権限はユダにはなかった。
己の手をすり抜けて去っていく人物を惜しいと思ったのは初めてだ。
触れる指、重なる吐息、そのどれもが愛しいと思っていた。
言葉にしなかったのはユダだ。
シンはいつでもユダを待っていた。
心を、身体を、そのすべてをユダに委ねていたのに、それに気付かなかったのは間違いなくユダが悪い。

「シン」

もう一度呟く。
ようやく気づいた己の気持ちは、伝える相手がいなければ虚しいものでしかなかった。


  • 11.03.09