泉の畔に腰を下ろし水面に映る姿を眺める。
先日まで青白かった頬は僅かに赤味が差し、かさついていた唇は紅を塗ったように艶やかだ。
見違えるように生気に満ちた姿に違和感を抱かなくなったのはいつからだろうか。
飢餓感も倦怠感も何もない身体は軽く、その気になれば鬱蒼と茂る木々の上すら一跳びで超えることが出来るのような気がする。
それもこれも全てユダのお陰だ。シンの飢えを満たし、心の空虚を埋め、生きる歓びを教えてくれたのはユダの献身の外ならない。
魔物となった身を恥じ、このまま消えてしまいと願っていた日々は既に昔のこととなり、今ではユダに会える時間が一秒でも長く続けば良いのにと願ってしまう程だ。
ユダから生気を分けてもらっているということはかなり早い段階でルカとレイには伝えてある。
そもそも万年枯渇状態のシンが血色の良い顔色で帰宅した時点で隠すことなど不可能なのだ。
ルカは勿論レイもシンの体調に関しては過保護なまでに気にしていたのだから。
だからなのだろう、ここ最近は2人からユダを眷属にするようにとひっきりなしに言われる。
確かにユダとは心を通わせた。愛していると言ってくれるし自身もユダに特別な想いを抱いてるが、眷属となれば話は別だ。
永遠の命と言えば聞こえは良いだろう。
ある一定の年齢を過ぎれば老いることすらなく、余程のことがない限り命を落とすこともなく、若く美しいまま生き続ける。
既に青年を迎えているユダは眷属になったと同時に成長を止めるだろう。
人によっては喉から手が出る程欲しいそれは、しかしシンにとっては苦痛でしかなかった。
命を絶とうと思っても許されず、全てにおいて人間と違う存在にシンは少しも羨ましいとは思えない。
そんな存在にユダを堕としてしまって良いのだろうかと考えればどうしてもルカやレイの言葉に頷けなかった。
ユダはシンにとって光のような人だ。まるで神の祝福を一身に浴びて生きてきたようなユダ。
そんな彼を闇の世界に引きずり込むことだけはどうしても躊躇われた。
彼は神職に就いているが教会が許せば妻帯もできる。
ユダのことを思うなら人の世界で人間として生きていくのが一番だ。妻と子に囲まれ限りある命を有意義に過ごすことがユダにとって幸せなのだとわかっている。
人間でもなく子供を産むこともできず、ユダに何かを与えることもできずにただ彼の命に寄生するだけの存在。
このまま逢わずにいればユダはシンを忘れるだろう。そうでなくても今のシンならユダの記憶を弄ることもできる。2人で過ごした記憶だけを消しユダの中からシンという存在そのものを消すことすら難しいことではない。獲物や目撃者の記憶操作は吸血鬼にとって初歩中の初歩なのだから。
だが、それはできなかった。
彼と離れている少しの時間だけでも苦しいのに、永遠に離れることになったらどうなってしまうのか。
おそらく今までの飢餓など比較にならない程に苦しい日々が待っているのだろう。
生気だけの問題ではない。彼の顔を見ることも声を聞くことも、永遠にその気配すら感じられない日々を過ごすことは、もうシンには出来そうになかった。
ユダに触れ、優しくも力強い腕に抱かれ、その身にユダの生気を与えられるその至福を知ってしまったシンは、今まで知らなかった『欲』というものを知ってしまった。
愛していると囁かれ、お前だけだと熱く抱きしめられ、息も奪う程の口づけに酔わされた身体はシンでも止められない程にユダという熱を求めてしまう。頭では逢わない方が彼のためなのだとわかっていても、日が昇ればこうして待ち合わせの場所に足を運んでしまう。会いたい、触れたい、触れてもらいたい。今よりももっと近く、誰も知らない奥深くまで。その欲は募る一方だ。
「ユダ……」
彼の唇の感触は今も己のそこに残っている。忘れようとしても無理だろう。生気の提供というには濃すぎる口づけにシンはすっかり慣らされてしまった。
甘く吸われ腔内を蹂躙する彼の口づけはシンの脳髄を蕩けさせるほどに情熱的で、欲の何たるかを知らないシンはあっさりと籠絡された。時折戯れに触れる腰や太腿、更には首筋などへの愛撫もシンを悩ませた。
性を知らない無垢な身体だったシンはゆっくりと、だが確実にユダによって染められてしまった。臆病なシンに合わせるように少しずつ。ユダはシンが怯えない速度でシンに愛を教えている。
気づいた時にはもうユダのいない日々など考えられない程に溺れてしまっていた。戻ることは最早難しい。
吸血鬼は本来我欲が強い。人間は餌に過ぎず、種の本能のままに他者の命を奪うことすら躊躇しない傲慢な存在だ。
ユダによってその欲が呼び醒まされつつある今のシンは、心の中でどう思おうとも結局本能でユダを手放さない。況してや相手が望んでいるのだからシンの中に罪悪感が生まれることもない。
理性がどれほどユダのためにならないとわかっていても、本能が、身体がユダを求めているのだから。
今はかろうじてシンが人間だった時の感情が残っているから離れようと思うのだとシンは気づいていない。
そしてその人間として残っていた感情は長い年月を経た今酷く脆いものとなっており、ほんの些細な衝撃で脆く崩れ去るものだということをシンは数時間後に身を持って知ることになる。
◇◆◇ ◇◆◇
それはちょっとした気持ちの変化だった。いつもなら待ち合わせ場所から動かないシンだったが、今日は少しでも早くユダに会いたいと思い森の入口まで足を運んだのだ。
いつもの場所で待っていれば約束の時間にはユダは現れる。だが、たとえそれがほんの少しの時間でも構わないから早く彼に会いたかった。
森の入口まで迎えに行けば彼はどんな顔をするだろうか。おそらく少しだけ驚いたように目を瞠って、それからシンに笑いかけてくれるはずだ。「こんな場所まで一人で来たのか。迷わなかったか?」と。泉から入口までは一本道なのだが気づかうような優しい声をかけてくれるに違いない。自惚れかもしれないがそうしてもらえるだけの関係は築いていると信じたい。
(――――?)
もうすぐ森の入口という距離になって人の声が聞こえてきた。視線の先に見えるのは数人の男女。突出して高い身長の男性はユダだ。どうやらこれから森に入るところらしい。
だが他の男女が何やら話し掛けている。ここからは距離が離れているからおそらく彼らにシンの姿は見えないだろう。悪いと思いつつもその会話に聞き耳を立てたが、すぐに聞こえてきたのは耳障りな怒号だった。
「何度言ったらわかるんだ。この森には入るのは危ないと言ってるだろう!」
「そうだ。禁忌の森に入って何かあったらどうするんだ」
「ここには化け物がいるんだぞ。村長からも近寄るなと言われてるじゃないか」
「そうよ。ねぇ、お願いユダ。こんな危険なところには二度と来ないで」
「こんな辛気臭い森のどこがいいのよ。それより、ねぇ、私たちと一緒に遊びましょうよ」
一方的な怒号と媚を売るような女の甘い声。それを聞いた途端シンの胸の奥に暗い渦が生じた。
何故あの女たちは馴れ馴れしくユダに触れているのか。甘えるように腕に縋りつき、柔らかな胸をユダの身体に押し付けて女をアピールしてくる。ユダが腕を振り払っているのに何度も、何度も。
(ユダの腕に……)
ギリッと唇を噛みしめる。
初めて感じるそれが嫉妬だということには気づかないままシンは彼らのやりとりを遠くから眺めている。
ユダの表情が迷惑そうだから抑えているが、これでユダが笑顔を浮かべていたらシンは己の感情を制御できなかっただろう。
彼らの前に現れその腕を叩き落としてやりたい。ユダに触れるなとみっともなく喚いていたかもしれない。それどころかその喉笛に――。
無自覚なまま吸血鬼としての本性を目覚めさせつつあるシンは、己の瞳がルカと同じく赤味がかっていることに気付いていない。その思考に残虐性が秘められていることも。
やがてシンはユダに声をかけることなく踵を返し森の中に姿を消した。
(――シン?)
視界の端に見慣れた青銀を見かけたような気がして視線を巡らせてみたが、鬱蒼とした森の中に該当する人物の姿はなかった。
日は既に高く昇ってしまった。一刻も早くシンの待つ泉へ行きたいというのに、彼らは戻る気配がない。
「ねえ、ユダ。いいでしょう」
「化け物退治は司祭の仕事じゃないでしょう。そんなの賞金稼ぎにでもやらせておけばいいのよ」
「そんなことより村に戻りましょう。今日は感謝祭の日ですもの。うんと着飾って楽しみましょうよ」
何度も断っているのに彼らは一向に諦める気配がない。否、諦めないのは『彼女』たちか。
男共は既に飽きたのか帰ろうとしているがユダにまとわりついて離れない女性を置いて帰れないと言ったところだろう。村からこの森の入口まではそこそこ距離がある。
そもそも何で彼らはユダの後を追ってきたのか。ユダと彼らは友人でも何でもない。強いて言うなら同じ村人というだけだ。年齢の近い男女。ただそれだけ。ユダの行動を束縛する権利などない。
だというのに彼女たちはユダの腕に絡みついたまま離れるどころか己の胸を押し付けてくる始末。いっそのこと手を振り払ってしまいたいが、流石にそこまでは躊躇われた。フェミニストというわけではなく、単にその後の反応が面倒だったからなのだが。
少し離れた場所にいる村人に連れ帰るようにと目線で訴えたがあっさりと首を振られた。
ユダが頻繁に森に出かけているのを知っているのはこの青年だけなのだから、彼女達を連れてきた責任を取れと言いたかったのだが。おそらく既に何度か言った後だったのだろう。申し訳なさそうな顔をするくらいなら最初から連れてこないで欲しかった。
「何度も言うが、これは教会からの指示があってのことだ。職務の邪魔をしないでくれないか」
「嫌よ。だってユダがそんな危険な任務を受ける必要なんてないでしょう。今日は村で最も大きなお祭りの日なのにユダがいないとつまらないじゃない」
「そうよ。たとえ職務だろうと今日はみんなお休みの日だもの。一緒に村に帰りましょう」
「い――」
いい加減にしろと言いかけたその時、ユダの背後から突風が吹いた。鋭い風は鎌鼬となって村人の顔や服を切り刻む。
「ひっ!!」
「いやああぁぁ!!」
異形のモノが棲むと言われている森からの突然の風と衝撃は信心深い彼らを怯えさせるには十分過ぎるものだった。悲鳴を上げると我先にと逃げ出していった。
ユダには傷一つない。村人の姿が見えなくなるとくつくつと笑い声が響いた。
「――ルカか」
姿はない。だが声でわかる。艶のある低音はつい先日嫌というほど聞いたばかりだ。
『可愛い義弟が困っていたようなのでね。ちょっとしたお節介だ』
「いや、感謝する。これ以上シンを待たせたくなかったのでな」
『早く行ってやれ。あれは存外寂しがりだ』
「わかっているさ」
姿の見えない相手に礼を告げ、ユダは走り出した。
- 16.06.21