ユダの提案はシンをこれ以上なく驚かせた。
それもそのはずだ。ユダが言ったことは、己がシンの空腹を満たす糧となるということで、つまりは己の命をシンに捧げると言ったも同然である。信じられなくても無理はない。
誰が好き好んで化け物に己の命を差し出すだろうか。
況してや目の前のユダは誰もが目を奪われる程の美丈夫だ。
少し話しただけでも相当の切れ者だと分かるし、堂々とした口調や振る舞いはそれだけで他者を圧倒する。
このような場所でシンの犠牲になるような人物ではない。
当然のようにシンはその提案を固辞した。
彼に相応しいのは光り輝く表舞台であり、シンがいるような暗鬱とした闇の世界にはあってはならない存在だ。
ユダは生気に満ち溢れている男性で、確かに彼が言うようにほんの少しだけ体液を分けてもらえばシンは日常生活に困らない程度の栄養は摂取できるだろう。
だが、それは同時にユダを自分とこの地に束縛することになってしまう。
そして今は平気でも定期的に搾取され続けていくうちにユダ自身に影響が出ないとも限らないのだ。
知り合ってからそれほど時間が立っているわけではないが、シンはこのユダという人物に言葉では言い表せない感情を抱いていた。
兄とも友人とも違う何か、それがどのような感情なのかはまだ分からないが、その感情がユダに害をなす可能性のある事象を拒絶していたのだ。
シンの贄となってユダが命を捨てる。
それは決してあってはならないことのように思えた。
そう告げてもユダの真意は変わらぬまま。
ほんの少量で良いならば影響はない、この程度で疲弊するような柔な身体ではない、犠牲になるつもりは一切なくこの方法がお互いにとって最適なのだから何が悪いのだろうかと立て続けに問いかけられてシンは言葉を失くした。
元々口下手のシンだ。それに引き替えユダは多くの女性を笑顔と言葉で籠絡させてきた程に口が達者だ。
更に言えば彼の言葉には拒絶を許さない強い意思がある。
対人関係については稚拙なシンが相手になるはずがない。
何を言っても反論され、甘い笑顔と決して軽くはないスキンシップでシンを翻弄させ、言葉巧みにシンの承諾を得ようとする。
ユダのことを思えばこそ頷けないというのに、ユダはそんなシンを許さない。
説得する言葉が尽きたシンは強引に逃げようともがくが、ユダは非力とは言え人外の力を持つシンを簡単に抑え込んでしまうのでそれもできない。
己の腕に閉じ込め抵抗する身体を封じて、幾度も唇を奪う。
口移しで与えられるユダの生気はシンの内部から侵食し身体の隅々まで行き渡る。
ユダの存在そのもののように苛烈で甘い生気は、シンにとっては極上の美酒も同然だ。
ほんの少量でもシンを酔わせ、その虜にする。
その甘美さに酔わされるのは時間の問題で、それに気づいたユダは更なる生気を注ぎ込んだ。
酩酊したようにうっとりとそれを甘受するシンから承諾の言葉を引き出した時には、ユダの生気はシンの身体にすっかり馴染んでいた。
そうなればシンに勝ち目はない。
幾度目になるかわからない問いかけにようやく頷いたシンに、ユダは柔らかな笑みと優しい口づけを落とした。
◇◆◇ ◇◆◇
「んっ、ふぁ」
腔内を蹂躙していた舌がシンの歯列をなぞれば甘い吐息がユダの耳を打つ。
食事と称して行われる口づけは回数を重ねるごとに激しさを増していく。
最初こそ物慣れない様子でユダにされるがままだったシンだが、多少の慣れもあってかユダの教えた通りに拙いながらも応えるようになってきた。
唇を触れ合わせ誘うように舌を出せばおずおずと迎え入れる。
小さな舌を己のそれに絡ませて吸い上げるように愛撫をすれば、それだけで堪らないと言うように甘い吐息がシンの鼻から抜けていく。
ピチャリ、とわざと淫靡な音を立て空いた手を背筋に這わせれば腕の中の痩躯が大きく震え、強い刺激に耐えられなくなったシンが縋りつくようにユダの服を握りしめた。
「……ぁ、んぅ」
「可愛いな、シンは」
「やっ、そ…んなこと……」
「ほら、零れてるじゃないか。ちゃんと呑み込んで」
「だって…、ユダが変なところ触る、から……やぁ、っ」
「シンが可愛いのがいけない」
「んっ、背中……ダメ、です…っ…」
口づけの合間に項を擽り腰を撫で、そのたびにびくびくと震えるシンの様子を愉しみながらも、ユダが与えるのは口づけだけだ。
正直先に進みたい気持ちはある。
生気を分け与えるのならば身体を重ねるのが最も効率が良いことは承知の上だ。
だが色事はおろか他者との触れ合いさえ経験のないシンにどこまで進んで良いか正直わからない。
シンは純粋にこれを単なる供給だと思っているのだ。
逢瀬を重ねて気付いたのだが、シンはユダが驚く程に色事に対して免疫がなかった。
おそらくそういうことを知る前に隠棲生活に入ってしまったのだろう。
話を聞いているだけでシンを溺愛しているという兄が、そのような下卑た話をシンにするとは思えず、況してや実地で教えることなどなかっただろうから、シンは男女の恋愛はおろか自慰すら経験がなかったようだ。
ユダとの口づけで反応を見せた身体に大仰に怯えたのは本気で驚いた。
すぐにユダがそれは男の生理現象で年頃になれば誰でも経験すること、こういう行為の時には反応がない方が不思議なのだと教えて何とかなったが、流石にそこまで無垢だとは思わなかったユダの驚きも相当なものだった。
キスはただの挨拶、ハグは親愛の情、それ以外の理由はないのだと本気で信じていたシンに己の恋情が実るのは遠いことだと悟った反面、この無垢な身体と心を己の色に染め上げる絶好の機会を得たという喜びは大きかった。
少しずつ、ユダはシンを染めていった。
これが単なる『食事』ではなく、お互いの心を通い合わせる手段の一つとして。
可愛い、好きだ、愛している。そんな言葉を唇を重ねるたびに囁いた。
幾度も愛を囁き、シンからも同じ言葉が返ってくるようになり、ようやく『捕食者と餌』という関係から『恋人同士』と呼べるようになるまでに要した時間は3か月。
早いというか遅いというかは判断が分かれるが、シンが極度の奥手だったことと逢瀬の回数が3度目だったことを考えれば相当早かったのではないだろうか。
恋人としての時間は今までのものと変わらないものだったが、2人を包む空気は限りなく甘い。
抱き合って愛を囁いて、唇を重ねて。
そんな甘やかな時間はあっという間に過ぎてしまう。
夜の森は危険が多いため、逢瀬は昼の少しの間だけと決めたのはユダだった。
いくらシンが魔物だとは言え、その外見は見目麗しい美青年だ。その辺の貴族の子弟に負けないだけの品も艶もある。
この森を根城にする盗賊に見つかれば襲われることは間違いなく、そうなった時にシンが抵抗らしい抵抗をできるかどうかと言えば、答えは否だ。
極度なまでに他者を傷つけることを恐れているシンが目の前に現れた無頼の輩を餌と認識することもできず、そして身を守る術のないシンがどうなるかは明白である。
ユダはシンの姿が見えなくなるまで見送り、そうして視界からシンの姿が消えたことを確認してから己も帰るべく踵を返した。
ユダが住む村とこの場所はかなりの距離がある。
初回は迷った挙句数時間彷徨って到着した程だから徒歩で通うのは不可能であるため、次の逢瀬からユダは馬で訪れるようになっていた。
少し離れた場所に繋いである馬の所へ戻ろうと足を進めたユダは、数歩も歩かないうちに何かの気配に気付いて足を止めた。
「――――」
つい先ほどまでなかった人の気配をすぐ近くで感じる。
姿は見えない。だが、確実に何者かがいる。
それは夜盗や山賊といった無頼の輩かもしれないし、もっと別の禍々しい存在かもしれなかった。
前者ならば叩きのめしてしまえば済むだけの話だが、後者となれば相当の警戒が必要だ。
ユダが知る化生と言えばシンだけだ。
他の異形がシンと同種の性質を持っているとは端から考えていない。あれは特殊な存在なのだと言われるまでもなくわかっている。
化生の本性は残忍で獰猛。人間は単なる餌だと認識している者も少なくない。
この森に化生が棲むという話は以前からあった。その証拠のようにシンがいたが、彼が人間に害をなすような人物だとは思えないから他にいるのだろうというユダの推測が正しいかのように、それは忽然とユダの前に姿を現した。
漆黒の外套を纏った長身の男。
顔はフードに隠れて見えないが、目の前の細身の青年が油断のならない人物だとユダの本能が告げていた。
何よりも明確な殺意が男から放たれている。
まるでユダの存在そのものが面白くないと。そう告げるかのように。
それを受けてユダはいつでも動けるように半身を引いた。
シンとの逢瀬に無粋なものは身に着けていたくなかったが、やはり人気のない道中は物騒なので護身用に短剣を所持している。
幸い体術には自信があったので今まで夜盗に狙われた際にも使うことがなかったが、果たして今回はどうなるか、それはまだわからない。
男から目線を離さず、いつでも取り出せるように懐の中の短剣を握りしめた。
どれほど対峙しただろうか、それまでぴくりとも動かなかった男が不意に殺意を緩めたのがわかった。
「―――――成程」
ひどく耳に心地良い声だった。
冷ややかさは感じるものの、そこに敵意も侮蔑も含まれていない。
そうして聞こえてくるくつくつという笑い声にユダの柳眉が微かに顰められた。どういうことなのか。
「あれが最近元気だと思えば、お前の仕業だったというわけか」
「あれ、だと……」
それが誰を意味することか悟ったユダはきつい眼差しで男を睨んだ。
まるでこの男が所有者のような言い方は気に入らない。
すると男はそれが可笑しかったのか更に笑みを深くした、らしい。
冷静に考えればすぐに分かったはずだ。
シンと関わりのある者は限りなく少ない。
兄と友人とユダ。
それしかいないと本人から直接聞いたのはそう遠い昔ではない。
だがそれに思い至らなかった当たり、ユダも冷静に見えて初めて対峙するシン以外の異形に緊張していたのだろう。
男が顔を覆っていたフードを外す。
鮮やかな銀の髪が月光を受けてキラキラと輝いている。
夜目にも分かる深紅の双眸と整い過ぎる程に整った顔立ちの男は、警戒しない足取りでユダへと近づいてきた。
あと数歩、ユダの間合いギリギリで立ち止った男は、挑発的な笑みを浮かべる。
「初めまして、神父殿。私の名はルカ。シンの兄と言えばわかってもらえるだろうか」
「シンの………」
ユダにとって近い将来の義兄であり、そして生涯の相棒との邂逅はこうして行われたのであった。
- 14.05.21