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血の絆 07


とくん、と何かがシンの中で目覚める音がした。
今まで体感したことのないそれは、さながら暗闇から光の中に飛び出したかのような高揚感と飛翔感のよう。
この背に羽が生えたかのではないかと思える程に身体が軽い。
今ならば空ですら飛べるかもしれない。
だが、そんな身の内に溢れてくる躍動感よりも、今のシンは己の身体を満たす熱い何かを得ることの方が優先だった。
熱く激しい何かがシンの身体に入ってくる。
シンの全身をも溶かしてしまう程甘やかで、それでいて焼き尽くしてしまうのではないかと思える程に熱い。
蹂躙という言葉が相応しい程に強い力でシンを覆い尽くし、そして身体の隅々まで熱を刻み込むようなそれは、生まれて初めて感じるものだ。
強いて言うならばルカから与えらえる血に似ているかもしれない。
だがそれよりも遥かに力に満ちたそれは、量で言えば一口分の水と同じくらいだというのにシンの全身に沁み渡りシンの飢えを満たしていく。
ほぅ、と思わずため息が漏れた。
甘く芳しい何かがシンへと注がれる。
それに浸りつつ、更に与えられるそれを貪欲に得ようと身を乗り出した。
甘い香りは目の前の何かから発せられているらしい。
固く大きな身体はルカではない。だが、触れていて嫌だとは思わなかった。
もっとと身を乗り出して縋りついた。冷えた身体にその身が持つ熱が何とも言えず心地良い。
すり、と頬を摺り寄せると、一際匂いに強い箇所が目の前にあった。
とくん、とくん、と聞こえる鼓動。生きている生命の音に思わず喉が鳴る。
無意識に噛みついた。プツリ、と小さな音がして芳しい匂いが鼻腔に広がる。
そこから流れてきた甘い液体に舌を這わせた瞬間―――――。



「―――何をするんだ?!」



鋭い声がシンを現実に引き戻した。













天使か精霊かと思った人物が己の喉に牙を突き立ててきたのだ。
驚くなという方が無理だ。
自分に縋りついてくる細い身体を慌てて引き剥がせば、青年は数回瞬きをし、次いで顔を上げた時には青年は純粋で無垢な眼差しをユダへと向けていた。

「……………………え? あの、えと、貴方は……?」

不思議そうに瞬きを繰り返す青年に、先ほどの淫靡な雰囲気は欠片も見当たらない。
眠っている時と同じく、どこまでも澄んだ空気を纏う神秘的な姿そのままだ。
一体何が起きたのだろう。
目の前にいる人物が入れ替わる隙などなかったため、別人という可能性は考えられない。
もしや寝ぼけているのだろうかと思ったが、それにしては雰囲気の変貌が激し過ぎる。
況してや相手の首筋を噛み血を啜るなど、まるで吸血鬼のようではないか。
ユダも状況の変化についていけず、青年の言葉に返答する余裕などない。

だが、事態は思わぬ形で動いた。
ユダの首筋にある傷を青年が発見してしまったからだ。
傷は深くなかったようで、指で軽く押さえるだけで出血は止まったようだ。
ほんのかすり傷だったという認識は間違っていなかったらしい。
だが青年は気づいてしまったのだ。これが己の仕業であることを。
可哀相な程に蒼白になった青年は、震える指で己の口元を覆った。

「………っ、…………ぁ」

ユダの鋭い声に怯えたというよりは、己の行為にその時初めて気が付いたとでも言うような表情の変化に、ユダの中で芽生えた青年への警戒心が僅かに緩む。

「あ……、私……」
「気にするな。寝惚けていたのだろう」

震える青年の腕を片手で捕らえながら、ユダは己の首筋へと指を這わせてみる。
ほんの少しだけぬるりとした感触があり、指先に己の血がついていた。
傷は深くない。かすり傷程度だ。
一瞬で離れたのが功を奏したのだろう。
実際噛まれたというよりはほんの少し何かが刺さったという程度で、痛みはほとんどないのだ。
犬歯が尖っている人間は珍しくない。慣れない口づけで歯が当たってしまったのだと思うこともできないわけではない。
勿論、この状況がそんな呑気なものかどうかは別なのだが。
ユダは血の付いた指で青年の唇へと触れた。青年の背が大仰に震える。
つい先程分け与えた熱はすっかり消えてしまったようで、触れた唇はひんやりと冷たかった。

「君は、何者なんだ」
「……………………」

発せられた声は自分で思っていた程厳しくはなかった。
本来ならば鋭い誰何の声を出していただろう、だが目の前の青年が今にも泣きそうに顔を歪めている様を見てしまっては厳しく問い詰めることなどできない。
だがそれでも青年にとっては恐ろしかったのだろう、見て分かる程にその身体が大きく震えた。
それが演技である可能性も捨てきれないが、ユダ以上に傷ついている青年を見て怒りを持続させる者などいないのではないだろうか。
それほどに目の前の青年が醸し出す悲壮感は強かった。思わずユダが謝罪の言葉を口にしそうになる程度には。
だが、実際にその言葉はユダの口から発せられることはなかった。
青年がユダの拘束を振り払って逃げ出したからだ。
反射神経は驚く程に速かったが生憎足はそれほどでもなかったようで、ユダが追いつくのは造作もなかった。
細い腕を掴んで暴れる身体を腕の中に閉じ込める。

「待ってくれ!」
「や―――っ」
「頼む、逃げないでくれ」
「駄目です! お願いですから離して……っ! ごめんなさいごめんなさい、許して!!」

何とか話をしようと思うものの腕の中の相手はパニックになっているのか声すら耳に入らない。
ただ只管に謝罪の言葉を口にしてはユダから逃げようと身を捩るばかり。
涙を流す姿を哀れだとは思うけれど、ここで手を離したらもう二度と逢えないのだという確信があったため、どれほど暴れても泣いてもこの手を離すつもりはない。
意味不明の謝罪を繰り返す唇を塞ぎ、逃げ惑う舌を絡めてまたもや腔内を蹂躙する。
呼吸すら奪う口づけは抵抗する力をも削ぎ落としていく。
徐々に脱力していく身体をしっかりと抱きしめ、逃げようとする気配がなくなる頃になってようやくユダは唇を離した。
柔らかい頬には幾筋もの涙の痕が残っており憐憫さを増している。
だというのに蹂躙して赤く充血し、お互いの唾液に濡れた唇は淫らで、更なる劣情を刺激するのだから不思議だ。
ここまで欲望に忠実な人間ではなかったはずなのだが。

「――――落ち着いたか?」
「は、い………」

ユダを直視するのが恥ずかしいのか、それとも未だ呼吸が整わないのか、青年の視線は先程から伏せられたままだ。
だが逃げる体力も気力も奪われたのか、目元をうっすらと赤く染めたままユダの胸に凭れているのが何とも言えず可愛らしかった。
慣れていないのだろうと思ったユダの予想はやはり正しかったらしく、ユダの胸の中に閉じ込められた青年は居心地が悪そうに身じろぎをしているが、当然逃がすつもりのないユダはそんな些細な抵抗すら封じ込めるように拘束する腕を強めた。
片方の手でしっかりと腰を抱え込み、もう片方の手を背中に回して抵抗する腕ごと包み込んだ。
初対面の相手に対して随分な密着度だが、不思議と嫌悪は感じなかった。
尤も嫌悪など感じていたら眠っている相手に口づけなどするはずないのだが。

「教えて欲しい。君は、人間ではないのだろうか」
「―――っ!」

言葉はない。だが大きく震えた身体が如実に答えを返していた。
元々人間だとは思っていなかった。
妖精か精霊、もしかしたら天使ではと思っていたのだから、正体を明かされたところで驚く程でもない。
だがここまで狼狽するほどの正体ということは、おそらく人間が清らかな存在だと認識するものでないのだろう。
考えられる可能性と言えば、悪魔、人狼、何よりも血を好む化生と言えば――――。

「――――吸血鬼」
「………」

小刻みに震え出した背を、ユダは落ち着くまで静かに撫で続けた。







   ◇◆◇   ◇◆◇







目の前の青年が吸血鬼だと知ったからと言って態度を変えるユダではない。
だがしかし、想像していた『吸血鬼』像からあまりにもかけ離れた姿に驚きを隠せないのは事実だ。
青年はシンと名乗った。
美しい名前だと思ったままの感想を述べれば、白い頬にさっと朱が走る。
聖職に就いている者としてユダはシンを排除しなければならないのかもしれないが、そもそも信心深くないユダなのでそのつもりは毛頭なかった。
だからだろうか、大樹の下に腰を下ろしてシンの話を聞きたいとせがめば、不思議そうな顔をされたが、ユダに引くつもりがないのがわかったのか訥々と話をしてくれた。
幼い頃のこと、人間として生きていくことに疑問を感じなかったこと、ある日いきなり村人に襲われて殺されたこと、兄に助けられそれから吸血鬼として生きていること。現在は兄と兄の伴侶と3人で暮らしていること。
そうして話を聞いていくうちに感じたのは、この化生であるシンがあまりにも清らかな心の持ち主であることだった。
いきなり存在を否定されて襲撃を受けたというのに、シンの口から村人を責める発言は一つもなかった。
元々敬虔なクリスチャンだからだろうか、己が人外の存在であることに対して過剰なまでに罪悪感を抱いている。それこそ己の生命すら蔑ろにしてしまう程に。
おそらく兄がいなければシンはすぐにでも命を絶ってしまうのだろう。幼い頃から刷り込まれてきたカトリックの常識のせいで。

「血を、吸いたくないんです。私のような存在が他人の命を奪ってまで生きていて良いのか考えると怖くて……」

ぎゅっと握られた拳の強さからその言葉が本心であることが分かる。
だからいつも生命の維持ができるギリギリの量しか摂取しないらしい。
常に飢餓状態のままで辛くないのかと問えば寂しそうに微笑って否定した。

「もう慣れました。エネルギーの消費を抑えるには眠っていれば良いだけなので特に不都合は感じません。ですが、そのせいで兄を哀しませているので……」

シン曰く、自分には過ぎる程の兄だというが、仮にユダが兄であってもシンの世話を焼くことを厭わないだろうと断言できる。
たった2人きりで残された家族ということを抜きにしても、シンは他人に庇護欲を抱かせる何かを持っているのだ。
それこそ本人が死を望もうとも容認できない程に。
ユダもシンを生かすためならどれほどの犠牲を作ろうとも躊躇わないだろうし、この身すら喜んで捧げてしまいそうだ。
それが聖書に書かれているような「魔に魅入られる」というものかどうかは不明だ。
むしろシンはユダが知るどんな聖職者よりも清らかな存在に見える。
彼の存在が悪だというのなら、権力を利用して他者から財産を搾取している聖職者は何だというのだろうか。

「それより、あの……」
「ん? 何だ?」
「あの、その……手を……」
「あぁ、寒かったか。すまない」
「ちが……っ」

言うなりユダは腕の中にいるシンをぎゅっと抱きしめる。
手を離せば逃げてしまいそうだと理由をつけて、先ほどからシンはユダの腕の中だ。
正確に言えば大樹の幹に背を凭れるように腰を下ろしたユダの足の間に座らされている。
他人とここまで密着した経験のないシンは何度も逃げようと頑張っているが、ユダはシンを離そうとしない。
それどころか逃げようともがくシンを大人しくさせるために首筋や耳に口づけを落として抵抗を封じているのだ。
物慣れないシンがそのたびに愛らしい反応を見せるのが何とも言えない。
これが貴族の令嬢ならば耳元で愛の言葉を囁くだけで簡単に服を脱ぐだろう。
だがシンにそんなことをしたら羞恥で気絶してしまいそうだ。
尤もユダとしてもシンをあのような性欲処理の女性と同列に扱うつもりは毛頭ないが。

ユダがシンを離さない理由は何も悪戯心のせいだけではない。
食物ではなく人間の生気を糧に生きているシンは、こうして密着しているだけでも相手の生気を得ることができる。
勿論血液や体液を摂取する方法に比べれば微々たるものでしかないが、それでもあるとないでは格段の違いだ。
現にユダが抱きしめてからシンの顔色はかなり良くなっている。
羞恥で頬を染めていることを抜きにしても血色は最初に見た時と格段の違いだ。
そして何よりも接触だけならばユダの負担にもならないらしく、説得を諦めたシンは大人しくされるがままだ。
どうやらユダの生気はシンのお気に召したらしい。

そうしてユダは吸血鬼―――否、シンの生態を把握していく。
必要なのは人間の生気。
最も効率の良いのは血液。次いで汗や唾液などの体液。
肌を合わせることで接触している部分から生気を奪うことも可能。

「つまり、命を奪わずとも生きていくだけの糧を定期的に得ることは可能というわけか」
「? ユダ?」

腕の中のシンが不思議そうに後ろを振り返りこてんと首を傾げる。
何と可愛らしい吸血鬼なのだろう。
吸血鬼の伝聞はユダとて聞いたことがある。
魔物が人間を脅かしていたのは、何も遠い昔話ではないのだ。
人間を襲いその血を吸い尽くし、時には見目麗しい女性を犯して生気を喰らい尽くすという恐ろしい物語は、実際にそのような遺体がいくつも発見されていたり目撃者が存在しているからでもある。
だからユダは彼らがどのように餌を捕獲しているか知っている。多くの文献にも書いてあるし、神に仕える者として耳が痛くなるほどに叩き込まれているのだ。
だというのに初めて遭遇した化け物が腕の中にいるシンである。
まったく伝聞というものはこれほど頼りにならないものもないものだ。

誰よりも清らかで、誰よりも優しく、そして誰よりも美しい化生の生き物。
彼が他の人間の目に触れることなく今まで生きてきたことが嬉しくて仕方ない。

「シン、提案があるのだが」
「何でしょう?」

猜疑心など欠片もない視線にうっとりと笑みを返し、ユダはシンの顎をそっと持ち上げた。
本日何度目かわからない口づけ。
薄紅色の唇を己のそれで塞げば一瞬だけ身じろぎをしたものの、すぐに甘受して甘い吐息と共に受け入れる。
相変らずたどたどしい口づけは、それだけシンが無垢である証だ。
慣れていない身体に快楽を刻み付けるように舌を絡め、甘噛みをしながら己の唾液を注ぎ込む。
快楽か、それとも生気に満ちた糧を得る喜びにか長い睫毛が微かに震える様が色っぽい。
こくんと嚥下するのを確認して唇を触れ合わせたままユダはそっと囁いた。

「――こういう供給方法もあるぞ」
「………………え?」
「肉を喰らい血を啜るという方法もあるだろう。だが人間の生気は血液だけに宿るものでない。生気とは人の身体のあらゆるところに満ちているもので、それは当然体液にも該当する」
「あの……」
「シンは何度か俺の唾液を飲み下しただろう。それは糧にならなかっただろうか」
「それは……。確かに普段よりも身体が軽いです。体温も少し上がっているような気もします、けど……」
「血液、唾液、涙……。そして、精液。どれも人間の身体には必要不可欠な体液だ。摂取方法としては血を飲むのが一番てっとり早いのかもしれないが、それほどの量を必要としなければこういう摂取方法もあるのだが、どうだろうか」
「え……?」
「俺で良ければ喜んでシンに提供するのだが」
「えぇっ?!」

真っ赤になって狼狽えるシンの唇を、ユダは再度塞いだ。
拒絶の声を聞くつもりはない。



  • 14.02.25