ほんの少し触れるだけ。
最初は確かにそれだけのつもりだった。
意識のない相手に対して失礼な行為であることは重々承知だ。だが、どうしても触れてみたいという誘惑に勝つことが出来なかったのだ。
そんな風に己の劣情を持て余すことなど一体いつ以来だろうか。
覚えている限りで感情が理性を凌駕した事がないので、もしかしたら幼少時を除いて生まれて初めてのことなのかもしれない。
ほんの少しその温もりを直に感じることができれば良かっただけなのは嘘偽りないユダの本音だった――――その時までは。
せめて穏やかに眠っている相手が目を覚まさないように、そして出来得ることなら万が一すぐに目が覚めても不埒な行為を行っているユダに怯えないようにと、ユダは甘い果実のようなそれにそっと口づけた。
「――――っ」
だが柔らかな唇に触れた瞬間に全身に感じた強烈な感覚に、ユダの理性は完全に溶かされてしまった。
しっとりとした唇の感触と微かな吐息を感じた瞬間に脳天から爪の先まで突き抜けたのは、未だかつて経験したことがない程の強い強い快感だった。
例えて言うなら初めて自慰を行った時に感じた、未知に対する期待と恐怖。そしてそれをあっさりと凌駕する、全身が蕩けるような感覚がユダの全身を駆け巡ったのだ。
初めて性に目覚めた幼い子供と違い、ユダは既に成人を済ませた大人である。
自慰どころか多くの女性と浮名を流したこともあるし、ユダの外見に惹かれて誘ってくる貴婦人の誘いに乗ったことも一度や二度ではない。
どうやらユダの外見と体格は多くの女性にとっては異性としてこの上なく魅力的だったようで、外を歩くだけで女性に声を掛けられることは珍しくなかった。
その中には己の身体を商売の対象にしている者もいれば、本来ならば貞淑なはずの貴族の妻女もいた。
今より若かったユダはそんな女性の誘いに簡単に乗っていた。勿論関係を持ってしまって後々困るような有力貴族の妻女や恋愛ゲームを理解できない深窓の令嬢などには手を出さなかったが、代わりにユダが好んで夜を共にしていたのは手練手管に長けた女性ばかりであり、結果としてユダは異性との経験は見た目以上に豊富である。
そんな、決して褒められるようなものでもない経歴を持つユダだから、今更触れるだけの口づけくらいで反応するような初心な男ではないのだ。
だが、この見ず知らずの青年との口づけは、確かに今まで数多くの女性と交わしたものよりも遥かに強い酩酊感があった。
純度の高い酒を飲んだようなふわふわと意識が漂うような感覚と、ぞくりと背筋を駆け巡る強い性的欲求がユダを襲う。
たかが口づけ一つでそこまで感じることはユダにとっては初めてのことで、だからこそ鉄壁と言われたユダの理性は簡単に弾け飛んだ。
掠めるような口づけでは物足りなく、次第に深さを増していったそれに息苦しさを感じた青年が無意識に開いた唇の間に己の舌を捩じ込み、甘い蜜のような唾液を本能の赴くままに貪った。
「…………ん、ぅ」
吐息と共に吐き出された声は耳の心地良い甘さで、清純な見た目に反して艶を帯びた声をもっと聴きたくて口づけは更に激しさを増していく。
眠りを妨げないようにと配慮していたことが嘘のように、今のユダはわざと相手の目を醒まさせようとしているとしか思えないのだが、果たしてユダがそのことに気付いているかどうか。
ピチャリ、とお互いの唾液が絡む厭らしい水音が二人の間から漏れる。
どこまでも清純な眠り姫はそんなユダの激しい愛撫にも無反応で、それどことか意識がない状態でも戸惑っているような印象を受ける。
見た目通り口づけすら未経験なのかもしれないと思えば、それもまた愉しい。
この無垢な存在に初めて触れたのが自分だということなら、それは何とも光栄なことだ。
犯罪に近い行為であることは棚に置いて、ユダはそんなことを思う。
「ふ……ぁ、んぅ」
甘い吐息が雄の本能を刺激する。
綺麗な歯列を愛撫し、小さな舌を絡めて吸い上げる。
口移しで与えられるユダの唾液を嚥下したのか、細い喉が小さく上下したのが見えた。
己の体液がこの美しい青年の中に混ざったのだと思えば何とも言えない恍惚が芽生えた。
だが人間は貪欲な生き物だ。
唾液だけではなくもっと他のものを味わいたいと思うまでに時間はかからなかった。
この細い首筋に顔を埋め、白い首筋に己の所有印を刻み込み、胸も腰も足も全身くまなく愛撫してこの身体を自分のものにしたい。
誰も触れたことのない秘所を暴き、身体の奥の奥までユダという存在を刻み込みたかった。
だが相手は意識すらない状態だ。
更に言うならユダという存在すら認識していないのだから、今の状態でそこまで及んでしまえば流石に拙いだろう。何よりも青年が気づいた時にどれだけ混乱するかわからない。
混乱だけで済むなら良い方だろう、最悪恐怖を抱かれて怯え逃げられてはこの先二度と会うことすらできなくなってしまう。それは避けたかった。
とにかく相手の意識がないままこれ以上の行為に進むのは不可能だと判断してユダはようやく青年から身体を離した。
お互いの唾液で濡れた唇が、清廉な美貌を妖艶なものに変えている。
淡く色づいた唇はやはり魅力的で、再び触れたくなる自分を抑えるのは少々時間が必要だった。
それにしてもとユダは思う。
この青年は一体何者なのだろう。
驚く程警戒心がないのはユダが良く知っている。
かなり強引な蹂躙をしたと思うのだが一向に目を醒ます気配がなかった。
それこそ心配になる程に。
そして何よりも透明感が高すぎる。
人にしては綺麗過ぎるのだ、彼は。存在感も、身に纏う空気すらも。
この森に住まう精霊だと言っても納得してしまえるほど、目の前の青年からは『人間らしさ』が欠けていた。
かと言って魔物かと問われれば答えは否だ。
ユダはこの青年ほど綺麗で無垢な存在を見たことがない。
清濁混在した貴族社会で生まれ育ったユダは、陰謀術数渦巻く大人達の世界を幼い頃から見ていたせいか本当に美しいものがどういうものか良くわかっている。
どれほど贅を尽くし身なりを整えても内面が美しくない者というのは見ればすぐに分かる。ほんの二言三言でも会話を交わせば百発百中だ。
今まで生きてきてユダが心から美しいと思った人はいない。
貴族の令嬢は確かに見目も服装もそれなりに美しいとは思うが、行動の端々から気位の高さや他者への蔑みが感じられてどうにも好めなかった。
多くの者が目を奪われる豪奢な宝石もユダの琴線には全く触れない。
ユダがこの世で美しいと思えたのは、教会に描かれていた宗教画だけ。
それも著名な画家が描いたものではなく、信仰心篤い信者が描いた小さな聖母子像の絵だけだ。
どういう経緯かわからないが、懺悔の意味も込めて描かれたという聖母子像。
青銀の髪の聖母が同色の髪の天使と銀色の髪の天使を腕に抱いている、母親の慈愛溢れる美しい画だった。
作者は不明だ。教会への寄付などを記してある過去帳を調べてみれば、どうやら百年以上前に寄付されたものらしい。何の懺悔かはどれだけ調べても分からなかったが、おそらくこの母子を失った者が描いたのだろうということで納得した。
百年前と言えば魔女狩りやら権力争いやらで無実の民が多く処刑されていた時代だ。
才がある者や見目の麗しい者が魔女だと詐称されて火炙りにされることなど日常茶飯事だと言われ、多くの罪なき女性が無残な最期を遂げていた。
今も決して良い世の中とは言えないが、それでも当時に比べれば格段に住みやすい世界だろう。
粗末なキャンバスの中でも驚く程美しい聖母子像。
この母子が非業の最期を遂げたことを思えば幼いながらも胸が痛み、そうして諸々の理由が重なりユダは出家したのだ。
ユダの人生を大きく変えた絵の聖母と良く似た青年に惹かれるのは必然だろう。
この柔らかな唇が笑みを刻む姿を見てみたい、そう思ったユダが再度白い頬に手を伸ばした刹那、目の前の青年の瞼がピクリと動いた。
長い睫毛が微かに震え、うっすらと瞼が開いていく。
出てきた瞳はまさかの黄金。
琥珀というより若干強い色のそれは、正に黄金の輝きだった。
「……………………っ」
何という稀有な色彩を纏っているのだろうか。
聖母子画の聖母の瞳は琥珀色で、青年の方が色は濃いが類似性に更に驚きつつその鮮やかな黄金から目を離せない。
黄金の瞳は国内でも皆無というわけではないが、とにかく稀少性が高い。
帝都でも一人いるかいないかという程度のそれは、こんな辺境の土地では更に確率は低いだろう。
少なくともユダは初めて見る。
人買いなどに売られればその稀有さだけで目玉が飛び出る程の高値がつくだろう。
況してやこの美貌だ。青銀の髪も珍しく、この青年が奴隷市場で売られでもしたら好事家が大枚をはたくことは間違いない。
人が住むとは到底思えない辺境の地だったからこそ無事だったのだろう。
もしかしたら本当にこの世の者ではないのかもしれない。
黄金の瞳はゆっくりと周囲を彷徨い、そして隣に座るユダへと向けられた。
瞳を開いたことにより青年の容貌が想像以上に整っていることが明らかになったが、正面から見つめられて改めてその美貌に息を呑んだ。
見れば見る程、あの聖母にそっくりだ。
他人の空似だとすれば恐ろしい程の確率の低さである。
おそらくあの聖母子はこの青年とは無縁ではないだろう。もしかしたらどこかで血が連なっているのかもしれない。
女性にも男性にも見えない無性の美貌の人物は、あまりの類似性に言葉も出ないユダへと静かな視線を向けている。
寝惚けているのか、とろんと蕩けた眼差しは清廉な美貌とは反する魅惑を醸し出していてくらりと眩暈がした。
「…………どうした?」
「……………」
寝惚けているのだろうか、若干動揺で上ずったユダの声に応えることのないまま、青年の指がゆっくりとユダの頬へと伸ばされた。
ひたりと触れた指先もやはり冷たい。
薄着で森の中で眠っていたのだ、冷え切っていても無理はない。
白く細い指が、幾度かユダの頬を往復する。
小首を傾げたまま何かを確認するように頬に触れる仕草は何とも言えずあどけない。
頬に触れていた手はそのまま下へと滑り、耳朶に軽く触れながら首筋へと移動した。
とくんと脈打つ頸動脈の感触に目の前の青年がうっとりと微笑んだ――――その妖艶さに捕われる。
近づいてくる唇を再び己のそれで奪った。
意識がある今度は先程よりも執拗に、そして蹂躙するほどの激しさを持って腔内を堪能する。
「ん……ふっ、んぅ」
慣れていないのか苦しそうな声が洩れてくるのに気づいて少しだけ唇を話せば、快楽に蕩けた眼差しがユダへと向けられていた。
こてんとユダに凭れかかった青年の息は既に上がっており、どうやら本当に呼吸ができていなかったようだ。
口づけの経験もないのだろうかと思えば、ユダの胸に浮かんできたのは言い表せない悦び。
無垢な身体を自分の色に染めるというのは男にとって理想だ。
しかも相手は同性とは言え、その外見は幼い頃に一目で心を奪われた聖母の姿。
元々ユダは男色の嗜好はなかったのだが、この青年ならば問題はない。
むしろそのへんの女性よりも遥かに美しいのだ。性別などこの際関係ない。
女性特有の媚びがないのが更に好ましい。
腕の中の青年の呼吸がようやく整ったのを確認して、ユダは三度唇を味わうため顔を近づけた。だが――――。
するりとユダの唇を躱した青年は、先ほど触れたユダの首筋に小さな唇を押し当てた。
チロチロと首筋を愛撫し、ちゅうと吸い付く。
物慣れないながらも所有印をつけるような仕草が愛らしく、お返しに同じ場所に痕をつけてやろうと胸元の釦を外そうと手を伸ばしたその時。
「――――っ?!」
尖った何かが首筋に触れのを確かに感じた。
- 13.12.12