穏やかな日々だった。
生まれた時から父親という存在には無縁だったけれど、優しく美しい母と幼いながらも頼りになる兄がいて、大切に慈しまれて。
村人も親切だったと記憶している。
母に頼まれて買い物に出た時などは幼い身体では運びづらい荷物などは家まで率先して運んでくれるような、そんな親切な大人たちばかりに囲まれてシンは幼少期を過ごした。
シンの母は美しい人だった。
美しく、優しく、そして儚い女性だった。
青銀色の髪と黄金色の瞳。その色彩から『宝のような女性だ』と揶揄されることがあったのを覚えている。
シンはそんな母の外見をそっくり受け継いだため、男にしては少々線が細く兄であるルカに比べて体格も腕力も劣っているのが幼いながらに悩みの種だった。
ルカの外見はおそらく父から受け継いだのだろう。
銀の髪と紅玉の瞳。
繊細ながらも鋭い刃物のような雰囲気はシンや母にはないものだ。
そのせいだろうか、村人はルカよりもシンの方が親しみやすいようで、ルカも決して敬遠されているというわけではなかったがそれ以上に見慣れた顔であるシンの方が構いやすかったのだろう。
シンは兄が大好きだった。
弟の目から見ても恰好良く、利発で、優秀な人物で、自分がなりたいと思う理想そのままの兄はシンの自慢で目標でもあった。
学校で習わない年長の教科書もあっさりと理解し、大人たちでさえ解けない問題をすらすらと解いていく姿は誇らしく、そんなルカに手ずから勉強を教えてもらえる時間はシンにとって何よりも貴重な時間だったのだ。
学校から帰ってきて、母の畑仕事を手伝い、夕食の後にルカから勉強を教わり、夜が更けてくると一緒の布団にくるまって眠る。
そんな他愛のない日々が大好きで大切で、だからこそ奪われた時のショックは大きかった。
それは普段と何ら変わりのないある日のことだった。
いつもは優しい笑顔でシンに収穫物のお裾分けをしてくれていた2軒隣の青年が、深夜に鍬を片手に玄関を打ち破って乱入してきた。
目は血走り、鍬を握りしめた両手はシンでも分かるほどに震えていたのを覚えている。
『ずっと、騙してたんだな!!』
言われた言葉の意味がわからずきょとんと首を傾げるのはシンだけで、兄の瞳はすうっと細められ、母は見る間に蒼白になっていった。
『――――この、化け物が!!』
振り下ろされた鍬はシンの頭上でルカの手によって止められた。
そこでようやく己は彼に殺されそうになったのだと理解して、その瞬間に恐怖で身体が震え出した。
ルカの背中越しに室内を見れば、青年の後にも人は続々と押しかけてきているようで、狭い室内にはシン達家族以外に10人前後の男の姿があった。
誰も今朝までシンに明るい笑顔を向けてくれた村人ばかりだ。
『母さんはシンを連れて森へ!』
『でも……』
『僕は大丈夫。すぐに後を追うから、だから逃げて』
『え…えぇ…』
そんな会話が頭上で聞こえたと思った途端に腕を引かれた。
母のぬくもりから引き離されたその先にいたのは、教会の牧師だった。
シンが幼い頃から足繁く通い、大人になったら後見人になってくれると約束した親切な老牧師が、見たこともないような冷たい表情でシンを見下ろしていたのだ。
『牧師、様……?』
『私としたことが、うっかり惑わされておったわい。流石は―――と言えばよいのか、末恐ろしいことよ』
『あの……』
『シンよ、神は人を愛し化生を憎むと私は教えたことがある。覚えているか?』
『はい』
何故そんなことを聞くのだろうと思いながらも訊ねられたことに素直に頷けば、牧師は優しくシンの頭を撫でた。
それは普段とまったく変わらない仕草で思わず安心しそうになるものの、視界の奥では青年とルカが揉み合っているため何が何やらわからなくなってくる。
助けに行きたいけれど入り込む隙が見つからなくておろおろと狼狽えるばかりのシンの肩に牧師の手が乗せられた。
ギリギリと締め付けられるような痛さを感じるのは気のせいではない。
見上げた先には、皺の寄った顔に憎悪の表情を浮かべた牧師の顔があった。
『牧師、さ――――』
『異端は排除されるべきなのだよ。特に、忌々しい悪魔の子はな!!』
ドス、と背中に衝撃を感じた。
痛いというよりは熱く、その衝撃はすぐに腹部へと続き、牧師の手が離れていく。
支えを失った身体は力が入らず、そのまま床にころんと転がった。
『シン?!』
母と兄の悲鳴が重なった。
駆け寄りたいと思うのに身体が動かない。
頬に何かが落ちてくるのを感じてどうにか視線を動かせば、血に濡れた短刀を持つ牧師が目に入った。
そこでようやくシンは己が刺されたのだという事実に気が付いた。
頬に落ちてきたものは短刀についた血だったらしい。
『逃げるんだ、シン!!』
兄が必死に呼び掛けてくるが、それに応えることはできそうになかった。
身体に力が入らず、動こうとするたびに腹部からどくどくと血が流れてくのが自分でもわかる。
そしてそのたびに身体が冷えていくのだ。
死ぬのだろうか、と漠然と感じた。
今朝までは親切にしてくれた人たちが何故豹変したかシンには分からない。
殺されるほど酷いことをしてしまったのだろうかと漠然と考え、そんなことはないだろうと即座に否定する。
では、何故。
浮かんだ疑問は出血のせいか朦朧とした意識の中では上手くまとまらず、理由もわからないまま殺されるのは嫌だなぁとシンはそんなことを考えた。
どうか、母と兄は無事に逃げられますように。
薄れゆく意識の中、シンはただそれだけを願っていたのだが、結果としてそれは叶うことはなかったのである。
二度と目覚めないと思われた眠りから目を覚ましたのはそれからすぐ後のこと。
今までになく軽い身体と過敏になった視覚や聴覚。
血に濡れた兄の姿に安堵すると同時に、彼から薫る鉄の匂いがこの上なく甘美なものに思えたその時、吸血鬼としてのシンが誕生したのだ。
◇◆◇ ◇◆◇
頬に風を感じてシンは目を開いた。
中天から照らしていた太陽はその姿を西へと傾き始め、雲一つなかった空には薄い雲が徐々に増え始めていた。
シンはゆっくりと身を起こした。
その拍子にシンの腹の上で眠っていたリスや小鳥がぽとぽとと落とされる。
「あぁ、ごめんなさい」
コロンコロンと転がり落ちていく姿は申し訳ないと思うものの何とも言えず愛らしいもので、くるくると数回転倒した子リスが小さく鳴いて抗議する姿につい笑みが浮かんでしまう。
シンは屋敷から数百メートル離れた泉に来ていた。
街道から更に外れる森の奥であるため人が訪れるような場所ではなく、そのため貴重な水飲み場として野生の動物が集まってくるのだ。
初めてこの場所を見つけたのは数年前で、幻想的な雰囲気を持つこの場所にシンは一目で魅了された。
それ以来少しでも体調が良い時は足を運ぶようにしているのだ。
何しろここには人の気配はないし、動物たちと一緒に過ごす時間は穏やかで優しくシンを包んでくれる。
あまり頻繁に来れないのは体調の問題なのだが、来るたびに歓迎してくれるこの森の住人がシンは大好きだった。
シンは泉の傍で休息する鹿や狐にも笑みを向けると、大きく伸びをした。
数か月ぶりに感じる軽い身体は慣れたようでやっぱり違和感は拭えない。
吸血鬼になってから百年以上、だというのにシンは常に空腹状態だったために飢餓感も倦怠感もない日というのは本当に久しぶりなのだ。
あの日、人間だったシンは村人に殺され、吸血鬼として生まれ変わった。
生まれ変わったというのには語弊があるかもしれない、体内に流れる吸血鬼の血が目覚めたと言った方が正しいだろう。
ただの人間だったなら死んでいただろう瀕死の重傷は、シンの中に眠る吸血鬼の本性が目覚めるのには十分だった。
ただし覚醒には不十分だったようで、兄から血を分けて貰って意識を取り戻したようなものなのだが。
その時シンは己の父親が吸血鬼と呼ばれる異形の生き物であることを知った。
牧師になりたかったシンにとって、己が存在すら否定される異形の血を継ぐ化け物の1人なのだということを受け入れるのは耐えがたい苦痛だった。
それでも兄が喜ぶ姿を見ては嘆くこともできず、兄の望むままに今もこうして生きている。
成長して時を止めた身体はたとえ何百年経とうとも若々しく美しいままの姿のまま、人間の何倍もの能力を保有し動物たちと心を通わせることもできる。
永遠の若さと優れた能力を持つと聞けば羨ましいと思う者もいるだろう。
だが、生きていくには糧が必要だ。
人間ならば育てた作物や獲ってきた肉を喰らえば良いのだが吸血鬼の糧は当然ながら血液で、それも若く瑞々しい人物の方が効率が良い。
つまり、シンとは見た目の変わらない男女――――主に女性の贄が必要なのだ。
一回の摂取量はそれほどではなくても、最低でも一日に一度の摂取となれば血液が不足するのは当然で、最初の頃は加減が効かなくて数名の女性の命を奪う羽目になってしまった。
複数名の贄がいればまだ違ったのかもしれないが、極力犠牲者を出したくないシンがそれほど多くの女性を襲うことなどできるはずもなく、更には恐怖に歪んだ女性の顔を直視するのも耐えられず、成人してからシンは人間を襲うことを止めてしまった。
吸血できなくなってしまったのだ。
浅ましい自分に嫌悪し相手を傷つけることに涙するシンに、贄となった女性が潔く身を差し出してくれたこともあった。
だけど、駄目なのだ。
吸血鬼の本能すら拒絶するほど、シンの道徳心と信仰心は強かった。
そのため人を襲って血を啜るという行為そのものに対しての罪悪感に押しつぶされてしまったのだ。
生きていくために必要最低限の栄養のみを摂取し、足りなくなったら眠りにつく。
そんな日々を過ごして百年以上が経過した。
兄が心配するのも、兄の伴侶が気を揉んでいるのもわかっているが、こればかりはどうしようもないのだから仕方ない。
いっそあの時そのまま死んでいれば少しは楽だったのにと思ってしまうけれど、たった1人残される兄のことを思えばとてもじゃないが口にすることはできない。
兄であるルカは唯一の肉親であるシンを大切に大切に慈しんでくれるのがわかっているからこそ、どうにか彼に迷惑をかけないようにしたいのだが。
人間を襲わずに済むのならば問題は簡単で最善の解決策といえば兄のように生涯の伴侶を定めてしまえば良いのだが、化生に堕ちてから人見知りの傾向が強くなったシンが外に出ることは極稀で、ついでに動物以外の生き物とはここ数十年以上会っていないものだから余計にハードルは高い。
何よりも伴侶に選ぶ相手は人間でなければならないのだ。
絶対に人が入り込まない森の奥深くに居を構えて、滅多に外出もしないシンが永遠を過ごして良いと思えるような伴侶に出会う機会すらない。
このまま解決策がないまま兄の世話になって長い年月を過ごすのだろうかと思えば、それもまた情けない。
「どうにかしないといけませんよね」
兄の手を借りずに自分の手で狩りをするか、伴侶を見つけるか。
自分に残された手段はその二択しかないのだが、どちらもできるとは思えない。
シンは諦めたようにため息をついて再び地面に寝転んだ。
草木に覆われた地面は温かく、頬を撫でる風も心地良い。
何よりも寝転んだシンに寄り添うように丸まってくる小動物のぬくもりがシンを安心させてくれる。
目覚めたばかりだというのに、シンはまたもや眠りの中へと引き込まれていった。
すぐ近くまで人が迷い込んできているということに気が付かないまま―――――。
- 13.03.16