屋敷の主の帰還を知らせる音が室内に響いて、レイはようやく戻ってきた人物を迎え入れるために椅子から立ち上がった。
表情が若干険しいのは無理もない。
つい先ほどまで隣で眠っていたと思っていた男性が忽然と姿を消したのだ。何も言わずに。
これが怒らずにいられるだろうか。
「まったくもう、ルカが突然出かけるのはいつものことですけどっ。せめて一言くらい言ってくれたっていいじゃありませんか」
長い時間をかけて情を交わした後だというのに、目が覚めたら1人だった時の寂しさは言葉では言い表せない。
そのことに文句を言えないことは重々承知だが、最近物騒だから外に出るなと自分や彼の弟には口煩く言っていた癖に自分だけふらふらと出ていくのは如何なものだろうか。
まぁ彼が1人で外出して危険な目に遭うとは到底思えないが、愛しい人にはほんの少しの危険も冒してほしくないのは誰だって同じだ。
扉がノックされて見慣れた銀髪が現れる。
「お帰りなさい」
「ただいま、遅くなって悪かったね」
外套を受け取りながら若干不貞腐れながらそう告げれば、深紅の双眸が優しそうに眇められた。
その表情に弱いとわかっている上での行動だからたちが悪い。
受け取った外套に付着した汚れと埃と――若干の返り血を見てレイは眉をしかめた。
「別に。僕は貴方の行動を制限できるような立場ではありませんから」
「おや、随分と拗ねてしまっているね。一人寝は寂しかったのかな」
「そういうわけでは……なくはありませんけどっ。でも、危険なことはしないようにって僕たちに言っておきながら、自分は1人で街に出ていたのでしょう。僕が眠っている隙を狙って」
頬を膨らませながら寂しかったと顔に書いてあるレイの姿にルカが柔らかく笑う。
寂しがりやで意地っ張りで、だけどとても健気で可愛いレイのことを、ルカは殊更可愛がっていた。
初めてレイを見つけたのはレイがまだ5〜6歳の頃。
少女のように愛らしい外見が禍して人買いに攫われていたところを偶然助けたのが切欠だった。
両親のどちらにも似ていないレイは実の親からも疎まれていたようで、助けてもらったのは良いものの帰る家などないということで弟の遊び相手に良いだろうと連れ帰ったのだが、それから数年経って恋人というか伴侶と呼べる関係になるとは流石のルカも想像していなかった。
拗ねているレイを背中から抱き寄せ、細い身体を己の腕の中に閉じ込めた。
甘えてくるようにすり寄ってくる頬に手を添え、赤く色づく唇に触れる。
「っ、ん…」
柔らかく甘い舌の感触を堪能しながら、つい先ほど摂取してきた生気を口移しで分け与えた。
あまり上等ではない生気だが腹の足しにはなるし、こうやって極上の唇を味わいながら相手にお裾分けする機会になったと思えば、あの無頼の輩もそれなりに役に立つものだ。
ルカは人間ではない。
正確にはその身に流れる半分の血が人間のものではないのだ。
悪魔、妖精、人狼、化け物。
呼び方はいくらでもあるが、人間が地上を支配して久しい現在に於いても、それらは未だ世界の各地に潜んでいる。
神が世の中を昼は人のものと定め、悪魔が夜は自分達眷属のものだと定めたと称されるように、夜が深くなる時にはそういう輩が現れることがある。
ルカの父はその闇の世界に生きる眷属――吸血鬼だった。
しかも吸血鬼の中でも最高の血統を誇る純血種なのだ。
吸血鬼が戯れに人間に化け、小さな村に住まう大人しい娘を妻として2人の子供をもうけた。
その1人がルカである。
ある事件が原因で吸血鬼としての血が目覚め、それから長い年月をルカは弟と2人で生きてきた。
人間が持つモラルや秩序は既に記憶にない。
ルカが守るべきは最愛の弟と、伴侶となったレイの2人のみ。
そのために邪魔になる者には一切の容赦はない。
だからルカの住処である森を荒らす狼藉者など塵芥にしても痛む心はない。
人間でないルカ達だが、生きていくには栄養が必要なのだ。
人間は野菜や肉から栄養を摂取するが、吸血鬼であるルカが必要とするのは動物の血もしくは生気である。
生きていくために必要な栄養を補って何がいけないのだろうか。
「ゃ、んっ、ルカ…ぁ、もっと」
ここ数日屋敷に籠り切りだったレイは軽い飢餓を覚えていたのか、貪欲にレイから生気を摂取しようと口づけを強請る。
つい半日ほど前に精を分け与えたのだが、どうやらそれまでに相当枯渇していたらしく足りていなかったのかもしれない。
尤もルカに口づけされるのが好きなレイだから、純粋に唇の感触を愉しんでいるだけなのかもしれないが、ルカにとってはどちらでも構わなかった。
ルカは身内には甘いのだ。
そうしてしばしの時間、愛しい相手の唇を堪能したルカは、今度は愛しい弟の顔を見るために弟の部屋へと続く階段を上った。
◇◆◇ ◇◆◇
「シン、私だ。起きているかい?」
ルカが訪ねてきたのがわかっているだろうに物音1つしない室内の様子に、ルカは僅かに眉を顰めた。
ゆっくりと扉を開けば殺風景としか表せない室内が視界に広がる。
室内にあるのは大きな寝台と机、それから大量の書物。
部屋を彩る花も、目を楽しませる絵画も見当たらないそこは、本当に何に娯楽も見いだせないただの空間だった。
そんな部屋の寝台で眠るのは、ルカが最大の愛情を注いでいる実弟の姿。
細く繊細な顔立ちはルカと似ているけれど、ルカよりも柔和な印象を与える。
シーツに広がる長い髪は鮮やかな青銀で、まるで深く澄んだ湖の水面の色のよう。
大理石のような肌は血色が悪いせいか透けるように白く、薄桜色の唇だけがかろうじて生気を感じさせている。
頬に触れれば驚くほど冷たい身体。
ルカは小さく舌打ちをして、己の右親指を噛みきった。
指の腹にぷくりと膨らんでいく赤い血溜まりが零れる前にそれを眠るシンの唇へと塗りつけた。
鼻梁をくすぐる鉄の臭いは吸血鬼にとって抗いがたい誘惑だ。
特に同胞の血の臭いは濃く、どれほど深い眠りに落ちていようと一瞬で目を覚まさせる程の効果がある。
それはどのような状態でも例外ではなく、それを証明するように死んでいるのではないかと思われたシンの瞼がピクリと動いた。
小さな舌がペロリとルカの血を舐める。
意識がない状態で行われるそれは吸血鬼の本能としか言いようがなく、美味しそうに舐めていくその仕草は何とも言えず淫猥だ。
普段のシンからは想像もできない色香は毎回のこととはいえ見事としか言えない。
「………ん、」
ほんの少しだけ摂取した生気にシンの意識が覚醒へと促され、長い睫が震えてその下から黄金の瞳が姿を現わした。
ルカのそれとはまったく違う黄金は、本来吸血鬼が持つ色ではない。
シンが人間であった時の名残だ。
「ルカ、兄…さん?」
不思議そうに瞬きを繰り返して、そうしてようやく正常な思考が戻ったシンが不思議そうにルカを見上げる。
20歳前後の外見で成長を停止したシンだが、そういう仕草をすると見た目よりも幼く見える。
「おはよう、シン。1ヶ月ぶりかな」
「…そんなに経ってましたか」
ゆっくりと身を起こしたシンは申し訳なさそうに視線を伏せる。
まるで長患いのような状態だが、吸血鬼であるシンは病気には罹らない。
眠り続けている理由は簡単。必要な栄養を摂取しようとしないからだ。
シンは純血の吸血鬼を父に持つが、その精神は人間のそれに近い。
生きていくために必要だからと生き物を殺すことができないのだ。
そのためシンが摂取できるものと言えば植物などで、日常の行動を補うほどの力は当然のことながらない。
人間として生きていた時は敬虔なクリスチャンだったシンは殺生に対する忌避感がルカやレイよりも遥かに強い。
ルカは自分が守るべきもの以外はどうなろうと正直構わないし、レイも同様だ。
それに反してシンは自分と直接関係がない人物であって、見ず知らずの相手であっても他人の血が流れることを酷く恐れる。
他人の命を奪って自分が生き永らえるなど言語道断だ。
そうして庭に咲く薔薇や野の花などからエネルギーを分けてもらってはいるものの到底足りるはずがなく、そのため極力エネルギーを消費しないようにとここ数十年は眠っている時間の方が遥かに長い。
前回は3週間、その前は10日。
徐々に長くなっていく睡眠の間隔は、今度眠ってしまえば二度と目が覚めないのではないかという恐怖をルカやレイに与えている。
ルカにとって家族と呼べるのはシンとレイの2人だけ。
これ以上失うのは耐えられない。
ルカは無言で左手を差し出した。
「ルカ…っ」
「飲みなさい、シン。これ以上眠り続けるのはやめてくれ」
思い出されるのは夥しい量の血に濡れて倒れ伏すシンの姿。
ルカとシンの父が吸血鬼であることが判明したあの日、村人は手のひらを返したようにルカとシン、そして吸血鬼と情を交わした母を斬殺したのだ。
人間であるルカとシンはあの日に殺された。
吸血鬼として覚醒したのは運が良かったのだろう。
襲いかかってくる村人を1人残さず殺したが、人間である母はそのまま命を落とした。
父親の血が濃かったルカの傷は一瞬で跡形もなく消えたが、母の血が濃かったシンはルカが強引に生気を分け与えなければそのまま死んでいたかもしれないのだ。
呼びかけても応えてくれない唇、だらりと力なく投げ出された手足、光を宿さない瞳。
どれもが思い出すだけで身体が震えるほどの恐怖をルカに突き付ける忌々しい記憶だ。
あのような恐怖はもう二度と体験したくない。
だから――。
「お願いだ、シン。私を置いていかないでくれ」
「兄さん……」
差し出された手が微かに震える。
ルカならばいくら血を飲もうと生気を吸おうと死ぬことはない。
シンの罪悪感もそれほど強くないだろう。
これまでもそうしてシンは生きてきた――生かされてきた。
目の前に差し出された手に、躊躇いがちにシンが手を伸ばす。
触れた手のひらは温かい。それがシンとルカとの最大の違い。
全身に生気を漲らせたルカと、今にも枯渇しそうなシン。
ルカの手首に唇で触れる。
プツリ、と控えめな音がしてシンの犬歯がルカの皮膚を貫いた。
舌先に触れる甘い味と、鼻腔をくすぐる鉄の臭い。
人間ならば眉を顰める異臭だが、肉体は吸血鬼のシンにとっては何よりも抗いがたい誘惑だ。
コクリ、コクリと嚥下しながらも、シンは浅ましい己の姿に一筋涙を零した。
将来は神に仕える牧師になりたいというのがシンが抱いていた夢だった。
だというのに今のシンは神の使徒とは正反対の存在。
罪悪感に押し潰されそうだ。
涙を流しながらも口元を血に濡らしていくシンが哀れだとは思うが、この方法なくしてシンが命を繋ぐことはできない。
そして何よりも、他人の命を奪い血を啜りながら嘆くシンの姿は見慣れているルカでさえ眩暈がするほどに美しいのだ。
そう、その姿を見た者はシンの嘆きを知れば、喜んでその身を差し出すだろう。
シンの身体の一部となることを無上の喜びと感じ、この美しい生き物が己の死に涙してくれることを至福に感じるのだ。
それほど、シンという存在は清廉であるが故に多くの犠牲を生み出す魔性の存在と言えるだろう。
命を奪うことを嘆く姿を見て、命を捧げることを選ぶ。
そうして多くの命を犠牲にシンは生き続ける。
逃げる手段は――ない。
- 12.12.10