暗鬱とした森の中を1人の青年が歩いていた。
帝都から馬車で1週間以上かかる辺境の地の更にその奥、帝国軍の警備隊も常駐しないような小さな領地を通り抜けた先にある国境にほど近い森。
交易の通路となるには若干見通しが悪いために人通りも少なく鬱蒼と繁る木々のせいで頭上の月明かりも見えないような場所だ。
民家もないため昼間ならともかく夜間は人の通りなどほとんどないと言って良い。
視界の悪さから道に迷う者が多発したことから『魔の森』などと呼ばれることも多いその森を怯えた様子もなく歩いていく青年は、まるで貴族の夜会から帰ってきたような正装を身に包んでいた。
濃紺のフロックコートに身を包んだ姿はすらりとして等身が高く、同色の帽子により顔立ちははっきりとは分からないが背に纏められた長い銀髪が闇夜で唯一の光源のように輝いている。
見事な着こなしであることは一目でわかる。
そしてだからこそ、その異質性が明らかになっているのだが。
ここは森である。
しかも帝都から数日かかるほどの辺境の地で、はっきり言ってしまえば田舎である。
領主でさえ贅沢な暮らしができるわけでもなく、領民に至っては日々の生活がやっとという程の困窮具合。
雨が降れば洪水になり、雪が降れば村が埋まるほど厳しい自然環境に晒されている場所で、領主以外の人間がフロックコートを着るような家庭環境にないのだ。
唯一の例外と言えば領主だが、彼らは自分のことは何一つ満足にできないように育っているため、たとえ夜中であろうと酒が入ろうと1人で行動するということがまずない。
況してや人気のない森の中を馬車でも馬でもなく徒歩で通り抜けようなどと思うわけがないのだ。
しかもこの周辺の領主は特に困窮する村を治める者ばかりで、とてもじゃないが夜会を開くだけの余裕がない。
連日連夜夜会を開いて大騒ぎしているのは大都会に住む一部の貴族連中だけである。
偶然その男を見つけた男は、果たしてこの男は何者だろうかという疑問が浮かぶ。
当然だろう。
この道を通るのは大通りに出る時間も惜しい商人や旅人くらいなもので、幾度となくこの近辺をうろついた者でさえ1人で歩く貴族然とした男などいなかったのだから。
だが、彼の身なりが良いことは悪いことではない。
むしろ男達にとっては願ったりだ――彼らのように強奪を生業にして生きている連中にとっては。
すぐさま上役に報告して周囲を取り囲む。
仲間の数は30人以上。
誰もが武器を携えているし、荒事には慣れている。
多くの商人や旅人を襲い、金品を強奪して男は殺し女は犯して売り飛ばした。
罪悪感なんてものはなかった。
そうしなければ生きていけなかったのだし、1人殺めてしまえば禁忌というものはなくなってしまうのだ。
怯える女を無理やり組み敷くのは背徳感が増して興奮するし、年頃の女がいなければ少年少女を代わりに欲望を解放させた。
彼らの中でそれは正義であった。
勝者こそ正義という自論の中では、彼らは弱者であり悪なのだから。
目の前の獲物は1人。
だが上質な服を着ているし、どうやら見た目も若そうだ。
最近女を抱いていないから、見目が良ければ男でも構わないだろう。
女のような柔らかさはないが、男も慣れれば欲望のはけ口にするには十分だ。
両手をコートに差し込み、男は上機嫌そうに道を歩いていく。
あと数歩進めば地獄が待っているのに知らないことは幸せなことだと、男は自ら飛び込んできた獲物に舌なめずりをした。
その目論見が破られることなど想像もせずに。
◇◆◇ ◇◆◇
突然現れた薄汚れた連中を前に、ルカは足を止めた。
進路を塞ぐように立ち塞がるのは10人程の男。
髪も髭も伸び放題。一見してろくでもない連中だということがわかる。
手にはそれぞれ鉈やナイフ、槍などと言った武器を構えている。
目的は何かなど聞くまでもない。
ルカの持つ金かその命――おそらくは両方だろう。
折角久しぶりに楽しい酒が飲めたというのに、ルカは小さくため息をついた。
これはやはり勝手に抜け出した罰なのだろうか、同じ罰なら家族に怒られた方が何倍もマシなのだが、どうして自分を取り囲むのが汚らしい中年の強盗でなければならないのだ。
そんなことを思っていても、目の前の強盗たちは一歩、また一歩と近づいてきている。
背後を振り返らなくてもそちらにも同様に退路を断つべく仲間が立ち塞がっているのだろう。
男の1人が放った短刀がルカの帽子をかすめて背後に落ちる。
タイミング良く雲間から姿を現わした月の光を浴びて、ルカの顔が強盗たちの前に露わになる。
白皙の美貌とは正にこのことを言うのだろう。
形の良い眉の下にある切れ長の赤い瞳。
すっと通った精悍な鼻に薄い唇。
それらを覆うように頭上で輝く白銀の髪。
思わず彫像ではないかと疑ってしまうほど端整な男だった。
ルカは冷淡な眼差しのまま目の前の集団を一瞥した。
整い過ぎた外見はそれだけで畏怖の対象になるとでも言わんばかりに、男たちが無意識に一歩後ずさった。
正気に返ったのは獲物と定めたルカが怯えた様子もなくこう言い放ったからである。
「――それで、私に何の用があるというのだ。生憎相手にしている時間は少ない。そろそろ家族が心配するのでね」
武器を構えた男たちを前に丸腰の身で何とも豪胆なことだと思ったのは一瞬。
すぐに侮辱されていることに気付いた男たちはあっという間に頭に血を上らせた。
「貴様、泣いて詫びりゃ命だけは勘弁してやったのによ!」
「もうお前の運命はここで終わることが決定したな」
「逃げたきゃ逃げていいんだぜ? ――ただし、この人数から逃げ切れるのならな」
口々に何か罵っているが、ルカには正直聞くつもりはない。
何が哀しくて深夜も良いというこの時間に男の罵声など耳に入れなければならないのか。
どうせなら家族の麗しい声を聞きたいし、弟が奏でるハープの音色に耳を傾けている方が万倍も良い。
無視するように地面に落ちた帽子を拾い、ルカはそのまま帰路を進んだ。
当然のことながら目の前に立ち塞がる男達が邪魔である。
いきり立った男が怒声と共に鉈を構えて走ってくる姿を一瞥し、それが振り下ろされる寸前に身を翻し――そのまま男の頭を鷲掴んだ。
「―――へ?」
避けられたという事実に気付かない男が間抜けな声を出した。
それほどに素早い身のこなしだった。
強盗の中でも身軽だと自負していた男ですら負えなかった動きに、男が背後に立つルカへと視線を動かそうとした――刹那。
「――邪魔だ」
掴んでいた手のひらが熱いと感じる間もなく、男の身体から力が抜けた。
持っていた鉈がとてつもなく重く感じて取り落す。
助けを求めるように仲間へと視線を向ければ、皆一様に怯えた顔をしているのは何故だろう。
伸ばした手が枯れ木のように細く黒くなっているのに気づいて愕然とした。
腕力には自信があったのだ。その太さだって仲間の仲では五指に入るほどだったのに。
指先は黒く消し炭のようになっていて、少し動かそうとしただけでボロリと崩れて地面に落ちた。
「――――ひっ」
助けを求めるように上げた悲鳴は、喉を奮わせる前に消えた。
正確には上げることすらできなくなっていた。
灰が零れていくように人だったものが風に吹かれて粉々に砕け散った。
その様を見て強盗の多くは腰を抜かし、胆力のある者でさえ足が震えて立っているのがやっとの状態だった。
その中でただ1人。
渦中の人物であるうちの1人が汚れを払うように懐から取り出した布で片手を拭っていた。
「ふむ、やはり下衆は下衆らしい。何とも不味いものだ。――だが、まぁ」
何かを確認するように手の平の開閉を繰り返し、そうして再び視線を強盗へと向けた。
赤い瞳が強盗という獲物を見定める。
「多少の腹の足しにはなるだろう」
そう言うなり、ルカは獰猛な笑みを浮かべた
- 12.10.23