跡部先輩の手により、俺は強制的にテニス部から退去させられた。
革靴のままコートに入ってきて俺を抱き上げるなり、そのまま何も説明せず立ち去る跡部先輩を止める人はいなかった。
普通なら宍戸先輩とか滝先輩とかが怒りそうなものだけど、彼らは突然現れた生徒会長の存在に呆気にとられていたということもあり、他の人はものすっごく不機嫌そうな彼に声をかけることができなかったからだろう。
不思議そうに俺を見つめるいくつかの瞳。
そんなに俺を見ても説明なんてしませんよ。
あまりにいたたまれなくて逃げ出したいんだけど、何しろ身体に力が入らない状況だからそんなことできるはずもなく、大人しく先輩に運ばれるしかない。
まさかこのまま家に連れてかれるなんてことないよな。
自宅まで徒歩10分だとは言っても、放課後の通学路なんて人が一杯いてそのほとんどが氷帝の生徒だったりするわけで、それは勘弁してほしい。
学校で噂になるだけじゃなく、ご近所のおばさんたちにまで何を噂されるかわからない。
ただでさえ俺の家に見目麗しい居候が4人も増えたため、色々と勘繰られているらしいのに、自分から主婦たちへ話題提供してどうするよ?
…噂になるのは校内だけで十分です。
だってもう手遅れな気がするんだもん。
う〜ん、周囲の視線が痛い…。
とりあえず、聞くだけでも聞いてみましょうかね。
「あのさ、跡部先輩…」
「何だ」
「そろそろ自分で歩きたいなぁなんて思ってるんですけど…」
「無理だな」
あっさりと言われてしまいましたよ。
…仕方ない、不可抗力ということで諦めよう。
何か言われたら笑ってごまかせ。
あぁ、どうか誰にも会いませんように。
って無理なんだけどね。
先輩が向かったのは正門とは反対の特別教室棟。
階段を上った先は生徒会室。
俺を抱き上げたまま、器用に扉を開け中に入る。
その瞬間、ふわりとした浮遊感を感じた。
「あれ?」
目の前にどこかで見た光景が広がっている。
っていうか、俺ん家のリビングじゃんここ。
これって瞬間移動ってやつ?
すげー。初体験。
さすがは神魔の中でも屈指の実力を持つ跡部先輩。
俺には到底出来ないことだ。
感動しているとソファーに下ろされた。
思ったよりも優しい動作に驚いて顔を上げると、そこには眉間に皺を刻んだままの先輩の顔。
怒ってるのかな。怒ってるんだろうなぁ。
自覚なかったけど、どうやら敵の罠にすっかりはまってしまったみたいだし。
ただでさえ俺がテニス部のみんなと仲良くするのが気に入らないみたいだし。
不機嫌そうな顔が近づいてきて、顎をくいと持ち上げられた。
真剣な目つきで俺の顔を覗きこんでいる。
何だろう?
「…ちっ、やはりな……」
何がやはりなのか分からないけど、先輩はそう呟くといきなり俺の唇を塞いだ。
「!?」
ぎゃー!! またですかー!!
セクハラ反対ー!!
逃げようにもさっきから俺の身体は思うように動かない。
唯一自由になる手で先輩の腕を掴むものの、握力がないもんだからそれは抵抗とも呼べないささやかなものになってしまった。
…むかつくことに上手いんだよこの人。
「…ん……」
あーやべー、頭がぼーっとしてきた。
このままでもいいかなー……ってよくねーよ!
しっかりしろ自分!
惑わされてどうする!
男としてのプライドはどこへ行った、!
…あぁ、でも抵抗できないんだよ。
時間にして多分数十秒だと思うけど、俺にとっては数分にも思える長さだった。
解放されたときには意識朦朧茫然自失。
肩で息をしていると満足そうに俺を見ている先輩と目が合った。
無言で先輩を睨んでみる。
この野郎、人が抵抗できないのをいいことに好き勝手しやがって。
……泣くぞ。
そんな俺の必死の抵抗に先輩は首を傾げて、
「何だ、足りなかったか?」
なんてふざけたことをぬかしやがった。
「そうじゃないだろー!!」
手近にあるクッションを投げつけると、先輩はそれを軽く受け止め笑みを深くした。
「どうやら毒素は消えたようだな」
「…毒素?」
「動けるようになっただろ」
おや、そういえば。
両手をにぎにぎしてみると、確かに握力が戻ってきてる。
と言うことは…。
「とりゃ!」
おぉ! 立てるぞ!
よかったよかった。
もう本当に何が起こった全然力が入らなくてどうしようかと思ったけど、治ればオッケー。
健康って素晴らしい。
「あいつの持つ毒に冒されたんだよ」
「あいつって?」
「忍足以外の誰がいる」
やっぱり神魔だったんだあの人。
そうだよなぁ、目が赤く光ったし。
あの色は見覚えがあった。
前回保健室を壊滅状態にしてくれた神魔やその使い魔の目の色と同じだったから。
「忍足は邪眼の持ち主だ。視線1つで容易く人を殺せる。勿論操ることもな」
「先輩、忍足先輩のこと知ってるの?」
「……」
おや、黙秘ですか。
それは知っていると言ってるようなもんですよ。
ええぃ、白状しなさい。
「…あいつとは向こうにいるとき、よくつるんでた」
「友達みたいなもん?」
「俺達にそんな感情はない。だが、そうだな…あいつとは気が合っていたことは確かだ」
「…ふぅん」
それを友達って言うんじゃないかなと思ったけど口にするのはやめておいた。
「とにかく、忍足には近づくな。あいつはお前に敵意を持っている。近づけば間違いなく喰われるぞ」
「そんなこと言っても同じ学校にいる以上、それは厳しいもんがあるんじゃないかと思うんですけど」
「俺が何とかする。お前はしばらく学校を休め」
「え〜」
勉強嫌いだけど学校は好きなのに。
俺が不満そうにそう呟くと、先輩の目がすぅっと細められた。
あ……嫌な予感。
そう思ってそろりと一歩後退しようとしたところ、ぐいっと腕を引かれてソファーに押し倒された。
強い力で顎をつかまれる。
「2,3日足腰立たないくらい犯してやろうか」
「…ごめんなさい」
目…!
目がマジです先輩!!
ごめんなさい俺が悪かったです。
だから肉食獣みたいな目で俺を見るのはやめてください。
「勝手な行動しないな?」
「…しませんですはい」
壊れた首振り人形のように何度も頷くと、ようやく先輩の下から解放された。
…この人を怒らせちゃいけない。
あー嫌な汗をかいた。水でも飲んで落ち着こう。
確かミネラルウォーターが冷蔵庫に入ってたはず…って何これ?
冷蔵庫の中に嫌な感じの赤い瓶が並んでるんですけど。
俺が買った覚えはないから、多分不二だろう。
コチュジャンがこんなにあってもねぇ…。
また何か作る気なのかな?
……。
見なかったことにしよう。
うん。俺は何も見なかった。
ペットボトルだけ取り出して、後は何事もなかったかのように冷蔵庫の扉をばたんと閉める。
今日の夕飯は英二のリクエストでチキンカレー。
人参がなかったから買ってこなきゃ。
スーパーは学校とは正反対にあるから出かけても大丈夫だろう多分。
でも一応先輩の許可をもらわないと。
本当に犯られちゃ洒落にならん。
「あの…」
ソファーにふんぞり返ってる先輩に振り返ったその時、インターフォンが鳴った。
誰だろ?
ペットボトルを片手に首を傾げつつ確認すると、何と長太郎だった。
「どしたの?」
『どうしたって、鞄も着替えも全部置いて帰っちゃったじゃない。持ってきたんだよ』
そういえば部室に荷物を置きっぱなしだったことに今更ながらに気がついた。
わざわざ持ってきてくれたんだ。
やっぱ持つべきものは親友だなぁ。
「さぁんきゅ。今開けるわ」
ロックを解除してしばらくするとドアフォンが鳴った。
そういえばまだ長太郎をこの家に招待したことなかったな。
単にタイミングを逃していただけなんだけど、ついでだから上がってもらおうかな。
英二に買いに行かせたバターサンドあるし。
昨日焼いたアップルパイも残ってたはず。
作ったのは英二だけど、意外に美味しくてびっくり。
とりあえず跡部先輩を客間に押し込めて。
不服そうな顔してたけど、これは最初から決めていたことだから文句は言わせない。
いくら長太郎でも先輩と一緒に住んでいることは知られたくない。
ほかに同居人がいることも、できることなら知られたくないんだから。
「やあ、」
「感謝。上がってお茶でも飲んでかない?」
「今度にするよ。それよりさ、外出ない?」
「え…?」
「一緒に行ってもらいたいところがあるんだ」
そう言って俺の腕を掴んで外に引っ張り出そうとする長太郎。
いくら強引でも、こんなことをするような奴じゃない。
「ちょ、長太郎!?」
振りほどこうとした手の力は強くてびくともしない。
容赦ない力にあっという間に手が痺れてくる。
「ねえ、…」
「その手を離せ」
廊下の奥から声が響いて、跡部先輩が姿を見せた。
やばっ。
何で出てくるんだよ!?
でも、長太郎の態度は変わらない。
むしろ先輩がこの場所にいるのがわかっていたかのような態度。
視線を先輩に向け、にやりと笑う。
おかしい。
「やっぱりね。この結界跡部先輩が張ってたんだ。さすがガーディアン」
「離せって言ってるのが聞こえないのか、操り人形」
先輩の目がきらりと光り、長太郎は弾かれたように扉に激突した。
「痛…」
長太郎は抑揚のない声で小さく呟いた。
押さえた右手には火傷の痕。
原因が誰かなんて分かりきっている。
「先輩、やりすぎだよ」
「うるせえ! お前もとっととそいつから離れろ!」
「ほえ?」
手を引かれて先輩の胸の中に引き寄せられると、長太郎は忌々しそうに舌打ちした。
知らない。
こんな長太郎、俺は知らない。
『忍足は邪眼の持ち主だ。視線1つで容易く人を殺せる。勿論操ることもな』
先輩の言葉が頭に甦る。
まさか…。
「長太郎…」
「ねえ、。君を連れていかないと俺が困るんだ」
「……」
ビンゴ。
禍々しい笑みを浮かべてポケットから何かを取り出す。
その手に光るのは、細身のナイフ。
すらりと鞘から抜き放つと、あろうことかそれを自分の首筋に向ける。
鋭利な剣先が喉に食い込み、赤い雫が一筋流れる。
それを気にした様子もなく、長太郎は笑みを浮かべたまま告げる。
「だからさ、一緒に来てよ」
- 04.08.26