床に崩れ落ちている3人の男が事切れているのは一目でわかった。
一人は片手に酒の缶を持ったまま資材に凭れ、もう一人は空き缶や肴の袋が散乱した床に大の字に倒れている。どちらも警戒すらしていなかったのだろう。
残る一人は二人から多少離れた場所で倒れていたが、こちらも既に絶命している。
違うのは他の二人に比べて多少は抵抗したらしく右手に銃が握られていたことだ。
硝煙の匂いが残るそれを男から取り上げて調べれば二発撃たれた形跡があった。灰崎の聞いた銃声と一致しているため、先ほどの銃声はこの男が放ったものだと見て間違いない。
誰に発砲したかと言われれば答えは明白だ。
灰崎は視線を元に戻す。
小柄な少年を庇うように腕に抱きしめて倒れているのは、間違いなく灰崎が呼び出した黄瀬だった。
黄瀬のマンションからここまでは電車で1時間、車ならば混雑具合にもよるが40〜50分で到着できる距離だ。
突然呼び出したのだから迅速に行動したとしても、連絡した時間から逆算しても流石に速すぎる。もしかしたら単車を使ったのかもしれない。
単車自体は所有していなかったはずだが、免許は持っていたと記憶している。
そもそも黄瀬は乗り物の運転は得意で、ヘリだろうが小型船舶だろうが運転できたはずだ。
なりふり構わずやってきたのだろう、普段ならばきちんと整えられている服装も乱れ髪もボサボサだ。
(それだけ必死だったってことだろう)
己の命を狙っている連中が罠をしかけて待っている中に単身で飛び込んでくるくらい大事だというのならどうして手放しなどしたのかと言いたくなるが、それは黄瀬の事情なので灰崎には関係ない。
ただ、以前の黄瀬ならば「面倒」の一言でどれだけ情を交わした女であれ切り捨てていたのだから、黄瀬もそれなりに成長したのだろうと推察だけはできる。
灰崎は男たちの様子を探るふりをして頸動脈に刺さっていた細い針を抜いた。
赤司の部下ならば誰でも使える暗器で、特殊な毒物を使用しているため解剖でも検出されず自然死として処理される優れものだ。
ほんの少し先端が刺さるだけで即死に至るため自身の取り扱いにも気を付けなければいけないが、幸いというか灰崎にも馴染みのある暗器であるため取扱いに不備はない。
証拠を隠滅した灰崎は、床に転がる男たちには目もくれず黄瀬へと近づいた。
二発の銃声のうち当たったのは一発だけだったのか、確認するために意識を失っている黄瀬を足で小突き仰向けにさせる。
衝撃でか、それともその前からか、意識を失っているらしいテツヤはピクリとも動かない。顔色や状況から判断しても放たれた銃弾がテツヤを貫いた痕は見られずにひとまず安心する。
だが、無傷ではなかった。
頬には男に張られたと思わしく赤く腫れている上に唇の端が切れて血が滲んでいる。首にも絞められた跡が残っており頬には涙の跡もあった。
その痛ましい様子に灰崎の眉が少しだけ顰められる。
依頼主からは傷一つつけるなと言われたのだが、もしかしなくてもこれは灰崎の過失になるのだろうか。
そもそもどうしてテツヤがこの場所にいるのか灰崎には不思議だ。彼には決して逃げ出さないように枷を付けておいたというのに。
勿論用が済んだら解放するつもりだったので頑丈なものではなかったが、それでも素人の子供一人を拘束するには十分過ぎる代物だったはずなのだ。
どうせ黄瀬が外したのだろうと自己完結した灰崎は、まさかその素人の子供が安全ピンで解錠したとは思いもしない。
気絶しても尚、手を離そうとしない黄瀬からテツヤを奪い取った灰崎は他にも傷の有無を観察するが、幸い頬と首の傷以外は見当たらない。
更には呼気も安定しており単なる気絶だと判断した灰崎は己のジャケットに包まった少年を抱き上げると、倒れている黄瀬を蹴り上げた。
「おら、起きろ」
「ぐっ!」
傷口を抉るように蹴られてくぐもった悲鳴を上げた黄瀬は、灰崎に気付くなり慌てて飛び起きた。
衝撃に肩が痛んだらしく僅かに顔を歪めるものの、目線はひたりと灰崎に定められている。
「返せ……」
「あん? こいつは人質だろうが。返せとか、何寝惚けた事言ってんの?」
「煩い! 言われた通り俺が来たんだ! 黒子っち返せよ!!」
「怖いねぇ、リョータくんはよぉ」
笑いながら灰崎は横抱きにしていたテツヤを肩の上に担ぎ上げた。
小柄で細身なテツヤは片手でも支えるのは苦にならない。
くったりと肩に凭れるテツヤの髪を見せつけるように撫でると面白い程に黄瀬の目が吊り上った。
ここまで感情を見せる黄瀬というのは珍しい。もう少しからかいたい気持ちもあったが、そろそろタイムリミットが近づいてきているので下手に時間をかけることは得策ではない。
灰崎は自由になった手で銃を突きつける。
生憎灰崎のものはテツヤに渡してしまったので、男から奪った銃だ。己のそれと違って粗悪品であることは見た瞬間に分かったが、これでも至近距離に男一人を撃つには十分だ。
「自分の立場考えてから威嚇しろよ、馬鹿が。こいつの所有権は今は俺にあって、お前はそれをネタに誘い出されただろうが。威勢を張るのもいい加減にしろよ。あんな雑魚どもに弱点握られるような未熟者が」
灰崎がちらりと男たちの遺体へと視線を向ける。
そう言われてようやく黄瀬はその男たちに見覚えがあったことに気が付いた。
黄瀬が管理を任されている区域にある別会社に勤務している男だ。
つい先月店舗をいくつか増やした時に雇い入れたホステスたちの数人が、彼らの店から引き抜いた子であることを思い出して、ようやく黄瀬は己の過失を悟った。
「逆恨みだなんて言うんじゃねえぞ。お前が奴らの店の女共を軒並み引き抜いたせいで、奴らは面子丸潰れだ。そのせいで奴らは組を解雇。家も金も没収された挙句に、囲っていた女は損失補てんという名目で泡に沈められりゃ恨みたくなるだろうが。こいつらが無能なのは事実だが、お前がもう少し賢く動けばこんなトラブルは起こらなかったし、そもそも堅気の子供が巻き込まれることなんてなかったんだよ」
「……それで、ショーゴくんはこいつらに依頼を受けて俺を始末しに来たってことっスか」
「はっ、まさか。俺はそんなに安くはねえよ」
鼻で笑って灰崎はあっさり否定する。
では誰がと問いかけようとしたその矢先、重い金属音がして倉庫の扉が開かれた。
そこからやってきた人物に黄瀬が目を瞠る。
「おう、10分前行動とは流石じゃん」
「別に基本だろう」
「相変らず仕事が早いな、お前」
「誰かさんと違って俺は優秀だからな」
「え……? 赤、司っち……と、青峰っち………?」
そこにいたのは赤司と青峰だった。
雇用主と同僚が二人揃ってやってくる理由が黄瀬には分からない。それも灰崎に親しげに話しているのはどういうことなのか。
灰崎は三年前に赤司と袂を別ったはずだ。それも赤司の顔に泥を塗るという最悪の形で。
それから「灰崎」という名すら禁忌になったというのに、当の本人同士が普通に会話をしていることが黄瀬には信じられない。
彼のせいでどれだけの被害が出たのか知らない赤司ではないのに。
赤司はそんな黄瀬の視線を無視して灰崎の肩の上で眠るテツヤの顔を覗き込み、それから黄瀬へと視線を動かした。
「やあ、涼太。随分と良い恰好じゃないか」
「赤司っち……何で……ショーゴくんと……?」
「何で? 僕が祥吾に仕事を依頼したからだ。それ以外に理由があるかい?」
「だって、そいつは!!」
「涼太」
静かな声が黄瀬の耳を打つ。
1トーン低くなった声に彼の機嫌を察した黄瀬が声を抑えると、赤司は普段と変わらない口調で告げた。
「僕は言うことを聞かない犬は嫌いだ」
色違いの双眸に射抜かれて黄瀬は言葉を失った。
赤司は徹底した実力主義だ。そこに多少の情は存在するけれど、それでも自分にとって不必要だと判断した時の切り捨ては容赦がない。それは今まで近くで見ていた自分が良く知っている。
だが一度懐に入れた人物に関してはかなり寛容だと記憶しているだけに、自分が赤司から敵認識を受けていることが信じられなかった。
言われるままに仕事をしてきた。実績も残してきたし期待に応えている自信もある。
今までも、そしてこれからも。
「ここ最近のお前は確かに変だったな。仕事はきちんとやるし任せた店の売り上げも上々だ。だが周囲との軋轢は大きくなっていたのに気づかなかっただろう? 分かりやすいのがあの男たちだ。僕に喧嘩を売るということがどういう結果になるかわかっていたのにこのような愚かなことをしでかした。原因がどこにあるかはわかっているね」
「赤司っち……」
「こういう業界だ。敵は当然できるものだし、弱い者が淘汰されていくのは摂理でもある。だが、誰彼構わず喧嘩を売るようなビジネスは愚の骨頂と言って良い。こちらに被害が出る前に少々灸を据えないといけないと判断しただけだ」
そう言って赤司はテツヤの頬に手を滑らせる。
目覚める気配のない少年の顔を愛おしそうに一撫でした赤司は、柔らかな髪の質感を堪能するようにさらりと頭を撫でる。
「可愛い子だ。中性的な顔立ちに薄い色素。この白い肌にはさぞかし赤い血の色が似合うことだろう」
「―――――――――――っ?!」
くすくすと喉の奥で笑われて黄瀬の顔から血の気が引いた。
言葉の意味が分からない黄瀬ではない。
赤司は嘘や冗談を言わない。
彼の言葉は絶対だ。それは初めて赤司と出会った時から決して揺るがない事実である。
切れて血の滲んだ唇に赤司の指が動く。
整った指先が口の端を微かに引っ掻くと、痛んだのかテツヤの眉が僅かに顰められた。
「さあ、涼太。選ぶといい。お前と―――この子と。どちらの命を僕に差し出してくれるんだい?」
◇◆◇ ◇◆◇
罵声、衝撃、圧迫感。その後のことは覚えていない。
見よう見真似ではあったけどどうにか足枷を外すことに成功したテツヤは、毛布に細工をして自分がくるまっているように擬態させると、その中に灰崎から渡された銃を隠して脱出を決めた。
二度と関わり合いになりたくない相手だったからジャケットも脱いだ方が良いのだとはわかっていたが、自分の恰好と外の気温を考えて申し訳ないと思いつつも借りることに決めた。
そうして気配を殺して出口へと急いだのだが、あまりにも非現実的な状況が続いたせいだろうか足が震えて上手く歩けず、置いてあった機材に足がぶつかり見事に転んでしまったため、あっさりと逃亡は失敗に終わった。
男の一人がテツヤの脱出に気付いて気色ばんだ。
アルコールが入ったことで気が大きくなったのか、それとも非力な一般人だと思っていたテツヤに逃げられそうになったことがプライドを刺激したのか、男はテツヤの頬を張り反動で倒れた身体に乗り上げて首を絞めてきた。
ガツンガツンと二度コンクリートの床に打ちつけられくらりと意識が揺れる。
容赦のない力で首を締め上げられたことによる酸欠と圧迫感に、これはもう助からないと抵抗を諦めたその瞬間に聞き慣れた声が聞こえた気がした。
そこから先の記憶がない。
目が覚めた時、テツヤは清潔な空気に満ちた部屋にいた。
白いカーテンと簡素なパイプベッド。
そして泣きそうな顔で自分を見下ろしている友人の姿がそこにあった。
「良かったあ。黒子、目が覚めたぁ」
「降旗くん……?」
釣り目ぎみの大きな瞳にじんわりと涙を浮かべてへなへなと崩れ落ちたのは、同じ部活に所属する友人だった。
最後に会ったのは今日の放課後だからそれほど経っていないのにどうしてこんなに心配しているのだろうと思ったテツヤは、自分が何故この場所にいるのかと考えてようやく恐怖心が戻ってきた。
突き付けられた拳銃、抑え込まれた四肢、憎悪に満ちた男の醜い顔。
「ぁ……」
「大丈夫! 黒子、ここは大丈夫だから!!」
カタカタと震え出したテツヤの手を握りしめて降旗はそう叫んだ。
何がどう大丈夫なのかは言わない。
だがテツヤにとって「日常」の世界にいる降旗の姿と声は少なからずテツヤを落ち着かせてくれたらしく、背をさすられて温かい声を掛けられる毎にゆっくりと身体の震えは消えていった。
そうしてテツヤが落ち着いたと判断した降旗が膝をついてテツヤと視線を合わせたまま小さく問いかけた。
「ここは病院。俺の知り合いが勤めている所でさ、完全看護のセキュリティ万全のきちんとしたとこだから変な奴とかは入れない。だから大丈夫なんだ」
「どうして僕は……」
「頭も打ってたみたいだから念のため検査も兼ねて入院してもらった。CTもMRIも撮ったけど異常なし。口の中がちょっと切れてたけどすぐに治る程度だって」
「えと……」
「…………」
「…………」
「ごめんな、黒子」
降旗がそう呟いた。
言われた言葉の意味もわからず首を傾げると、降旗は掴んでいた手に力を込めて握りしめる。
「俺、黒子が厄介な男に狙われてるって知ってた。そいつが結構、本気でどうしようもないクズで、絶対黒子が弄ばれてるだけだってわかってたけど、でも、俺にはどうにもできなくて……。少しずつ元気がなくなっていく黒子に皆は『どうしたんだろうな』とか心配してたけど、理由を知ってても知らないフリしかできなくて……。本当に俺にもう少し勇気があったら黒子のこと助けてあげられたのにって思うと不甲斐なくて………ごめんっ!」
「ちょ、降旗くん! やめてください」
言いながらどんどん俯いていった降旗は、最後には土下座せんばかりに座り込んでしまったのでテツヤは慌ててベッドから下りて降旗を抱き起した。
話の内容から察するに降旗はテツヤが黄瀬に囲われていたことを知っているような口調だが、どうしてそれを知っているのかと訊ねたいものの、これ以上何かを聞いたら絶対に泣き出してしまうだろう降旗に問い詰めることができそうにない。
でもでもだってと言いながらテツヤに縋りついて謝り続ける降旗の背を、先ほど彼にしてもらったように落ち着かせるようにさすりながら「君のせいじゃないですよ」と答えることしかできなかった。
というか本気で降旗のせいではないのでどうして彼が謝ってくるのかテツヤにはわからない。
ようやく落ち着いた降旗をベッド脇にあった椅子に座らせて、テツヤは今更ベッドに戻るのも何なのでベッドの上に腰を下ろして話を切り出した。
「降旗くんは、その、僕と……黄瀬、さんのことを……知っていたのですか?」
コクン、と首が縦に振られる。
テツヤの背中に冷たい汗が落ちる。
「いつから……」
「……最初から……」
「最初って………」
「……雑居ビルに連れてかれた時から……」
クラリ、と眩暈がした。
最初も最初。まさかの初対面の時からだったとは。
だが、あそこは間違っても未成年が入るような場所ではない。ついでに堅気の人間も。
何だかこういう言い回しをすることで自分が堅気ではないような気がするが、他に表現の仕様がないのだから仕方ない。
とにかくあの店どころかあの界隈は降旗にとっても無関係の場所なのだが。
「何で降旗くんが知ってるんですか?」
「だってあそこ、俺の持ち物だもん」
「……………………………………は?」
「俺、あの雑居ビルのオーナー」
形だけだけどと言われて比喩ではなく視界が反転した。
思わず倒れそうになったテツヤに気付いた降旗が慌ててテツヤを抱き留め、やっぱり万全じゃないんだから寝てろよと言われて再度ベッドの中に押し込まれた。反論する気力は既になかった。
室内に備えてあった冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを受け取ったテツヤが喉を潤すのを見計らって、降旗はポツリポツリと事情を放してくれた。
曰く、降旗の父方の祖父があの界隈を取り仕切っていた組の関係者で、数年前に祖父が亡くなった時に遺産として雑居ビルを含むいくつかの物件を相続したらしい。
だが当時義務教育の降旗には不動産を管理するだけの能力はなく、親しくしていた人物に財産の管理を任せていたこと。
そしてそのうちの一つをその人物に賃貸物件として貸し出していること。
その人物は黄瀬の雇用主であり、その関係で黄瀬のことは多少知っているが、黄瀬は降旗のことを知らないこと。
自分と同じ学生服を着た少年が連れ込まれたことを知った人物が降旗にテツヤの特徴を話したため降旗が知ることになったこと。
その後の関係は何となく察していたけど、黄瀬の問題だからと介入を拒否されていたこと。
「俺がもっと強く言えたらもしかしたらもっと早く動いてくれたのかもしれないけど……」
「そんな…、それこそ降旗くんのせいじゃないですよ」
「でも――――」
「光樹」
思考が追いついていかず首を傾げることしかできないテツヤと今にも泣きそうになっている降旗の会話を遮るように、凛とした声が病室に響いた。
驚いて声のした方を振り向けば、そこにいたのは仕立ての良さそうなスーツに身を包んだ青年がいた。
赤い髪と色違いの双眸が印象的な美丈夫。
隙のないという表現がぴったりな青年はテツヤよりも年上で、おそらく黄瀬と同年代だろうと思われた。
一見するだけなら青年実業家、だが幸か不幸かテツヤには彼が纏う雰囲気が堅気のそれではないことに気付いてしまった。一般人には醸し出すことができない威圧感を持つ彼が堅気だとは思えないと即座に判断できてしまう程には、テツヤは非日常の世界に慣れてしまっていたのだ。
さっと表情を強張らせたテツヤに気づいた青年が面白そうに目を細める。
品定めするような視線に思わず身じろぎすれば、青年の口元がかすかに弧を描いた。
「面白い。流石は光樹の友達と言えば良いのか、涼太が選んだ相手と言えば良いのか」
「征っ!」
「大丈夫。わかっているよ」
降旗の叱責に軽く肩を竦めて返事をし、それからテツヤへと振り返った。
降旗とテツヤへの対応の違いは気にしない。
どうやらこの青年は降旗と既知のようだし、何となくだが親しそうだ。
知人と初対面の相手が同じ態度でないのは当然だし、それを気にするほどテツヤは子供ではない。
だが、何と言えば良いのだろうか。
テツヤは人見知りをしないし基本的に人当たりも良い方だ。
そんなテツヤが目の前の青年に抱いた印象と言えば、ただ一つ。『気に入らない』。その一言に尽きた。
何がと言われれば何となくとしか言えないけれど、青年が自分を見る目が何となく嫌なのだ。
そして青年はテツヤがそう感じていることに気付いている。
「僕は赤司征十郎だ。今回はうちの駄犬が悪いことをしたね」
「駄犬、って……」
「黄瀬涼太、と言えばわかるかな? 忙しさにかまけて躾を怠っていたようだ。処分はこちらでしておくから安心してくれ。あぁ、それと、君には迷惑をかけたようだがこれで水に流してもらおうか」
そう言って一枚の紙片を差し出された。
現実では縁がなかったがドラマでは何度か見た事のあるそれは、所謂小切手と呼ばれるものだろう。
金額の欄には何も記入されていない。
「君が望む金額を書いて銀行に持っていきなさい。百万でも一億でも好きな額を書けばいい」
「せ――――」
再び声を荒げようとした降旗を手で制してテツヤは赤司を睨む。
後で考えればどうしてこんなにも腹が立ったのかわからない。
普段のテツヤは沸点こそ低いものの初対面の相手に喧嘩腰で接することは非常に珍しいのだ。
それを良く知る降旗はテツヤの顔を見て固まってしまった。当然だろう、テツヤは普段は安定の無表情なのだから。
差し出された紙片を受け取る気配がないテツヤに赤司の視線が注がれる。テツヤは胡乱な眼差しで見返した。
「――それ、どんな意図があるんですか」
「涼太が君を拘束していた期間と精神的肉体的苦痛に対する慰謝料代わり、と思ってくれればいいよ。金では不足かな?」
「ええ、不足ですね。そもそもあなたに賠償される理由がありません。謝罪も慰謝料も、貰うなら本人から頂きます」
「会いたいのかい、涼太に」
「――はい」
面白そうに問いかける赤司に、テツヤはしっかりと頷いた。
会いたいかと聞かれたら頷く以外ない。
何もわからないまま巻き込まれた。原因は黄瀬だ。
それなら黄瀬に全て話してもらうのが筋ではないか。
確認したいことがある。
どうしていきなりテツヤをいらないと言ったのか。
飽きたと言う言葉を信じるのは簡単だが、あの時交わしたキスには確かに気持ちが籠められていた。
それだけではない。
テツヤが殺されそうになった時に聞こえたあの声。あれは紛れもなく黄瀬の声だった。
無関係になったテツヤを見捨てずに助けにきた理由も、テツヤは何も聞いていない。
今までは状況についていけずにただ怯えるだけの子供だったが、いい加減我慢も限界だ。
黒子テツヤは本来とても頑固なのだ。
「何の事情も説明せずに金を渡してはい終了? そんなのくそくらえです」
とりあえず出会い頭に鳩尾にイグナイトを決めてやると言わんばかりに拳を握りしめたテツヤに、赤司は意外そうな顔をしたもののすぐに破顔した。
「成程、確かに光樹が言った通りだ」
「だから言ったじゃん。黒子を怒らせると怖いよって」
くすくすと面白そうに肩を震わせるその姿に、先ほどまでの威圧感はない。
ふ、と表情を改めた赤司がテツヤに向き直る。
「すまなかったね、黒子くん。君のことを試していた。失礼な態度を取ったことを許してほしい」
「……いえ、僕の方も態度が悪かったのでお相子です」
「あの状態の僕にあれほどの啖呵を切れる人はそうはいない。涼太が気に入ったのも納得だ。君は随分と興味深い」
「はぁ、ありがとうございます」
まるで別人のような赤司にテツヤの怒りは消化不良のまま沈静した。
そもそも怒りの対象は赤司ではなく黄瀬だ。赤司の態度も決して友好的とは言えなかったが、おそらくテツヤの本心を聞き出すためのものだったのだろう。
その証拠のように降旗に向ける視線は優しいものだし、今こうしてテツヤを見る目も優しい。
テツヤを欺いたことに対する怒りか、まだ多少機嫌の悪そうな降旗の頭を宥めるように撫でている姿はただの好青年にしか見えない。妙な迫力はあるけれど。
「さて、黒子テツヤくん。そんな君に詫びも含めてあるものを贈りたいと思うんだが、どうだろう。君がいらないというなら処分するしかないのだが」
そうして告げられた『詫びの品』について、テツヤは二つ返事で了承した。
- 14.01.23