静かな室内にコール音が響いたのは、シャワーから出た直後だった。
鳴り止まない音に些かうんざりした心境でスマートフォンを手に取れば、ディスプレイは予想もしていない人物の名を映し出していた。
『黒子テツヤ』
つい一時間前に決別を宣言した相手だ。
二度と顔も見たくないと思える程に手酷く痛めつけたのだから連絡など来るはずがないと思っていたため認識するのが若干遅れた。
それもそうだろう、黄瀬とテツヤの関係は半年以上続いていたが、その間にテツヤから連絡を入れてきたことは皆無だ。メールの返信とて最低限の単語のみ。本人の性格もあるのだろうが、必要以上に黄瀬とは接触を持ちたくないという本心があからさまだったので良く覚えている。
そんなテツヤから着信である。しかも関係が終了した直後に。
何の意図があるのだろうか。
一向に鳴り止まない着信音に、黄瀬は仕方なく通話ボタンを押した。
「………………何の用?」
忘れ物でもしたのだろうか、それとも他の意図があってのことだろうか。
未練がましく連絡を取るタイプではないとわかっているため短く問いかければ、返ってきた声は黄瀬の想像していたものではなかった。
『随分冷たいじゃねえか。可愛いオモチャからの連絡だろう?』
あからさまな嘲笑を含んだ声に黄瀬の柳眉が吊り上った。
知らない声ではない。だが、ここ数年は何の関連もなかったはずだ。
『何だ、俺の声を忘れたとでも言うつもりか?』
「……忘れるはずないっスよ。ショーゴ君」
どれほど短い声でもすぐにわかる。因縁の相手と言うには浅い関係だが、黄瀬は昔からこの男――――灰崎祥吾が苦手だった。
赤司や青峰から信頼されていながらあっさりと対立企業に転職した挙句、当時黄瀬が手がけていた企業の買収を横から掻っ攫っていった男。
彼の背信によって生じた損失は大きく、今ではその名を出すことすら禁忌となっている裏切り者である。
海外に飛んだという話を聞いたことはあったが、いつ日本に戻ってきていたのだろうか。
「あんた、よく俺に連絡できたっスね。赤司っちに見つかったら消されるっスよ」
『馬鹿が、俺がそんなヘマするわけないだろう。俺の入国すら察知できなかったくせに、相変わらず口だけは達者だな。リョータ君よぉ』
「……話はそれだけっスか? 相変わらずくだらないことするね」
『くだらない? あぁ、お前にとってはそうかもしれねーけど、俺にとっては結構重要でね。―――この携帯の持ち主がどうなってるか、知りたくないか?』
「……っ」
ニヤリとした笑みが脳内に浮かび上がり、思わずスマートフォンを握る手に力が籠った。
灰崎の意図はわからない。
だがテツヤの携帯を灰崎が持っている時点で悪い予想が頭から消えない。
昔から黄瀬を苦しめるためなら手段を選ばない男なのだ。
くつくつと笑う声の奥で小さな声が聞こえる。
一昔前の携帯だったら拾わなかっただろう声は、最新のスマートフォンだからこそ拾えたのだろう。
聞こえてくるのは小さな悲鳴と、何かを引き裂く音。―――そして複数の笑い声。
子供から脱していないその甲高い悲鳴には聞き覚えがあった。
「あんた……っ」
『おっと、俺は何もしてないぜ。ただ、ちょっとばかり女っ気のない奴らが血迷ってるだけさ』
「相手はただの高校生じゃないっスか。堅気を巻き込むなんて―――」
『堅気? 笑わせるなよ。お前に半年以上囲われてた奴のどこが堅気なんだよ。お前の御手付きってだけで俺らにとっちゃ十分過ぎる程の価値があるんだ』
「灰崎祥吾……っ」
先程までかすかに聞こえる程度だった声が大きくなる。
おそらく灰崎が聞こえやすいように移動したらしい。
何をされているかは見えないために想像するしかない。だが、おそらく碌な目に遭ってはいないだろう。それでも黄瀬が彼に与えた仕打ちに比べればマシだとは思うが。
『まぁ、お前が捨てたものらしいから俺が何をしようと構わないよな。あの顔だし結構な商品になるのは間違いないし、お前が仕込んだんならアッチの方も申し分ないだろうから北欧や中東あたりで高く売れるんじゃねえの? 向こうじゃ日本人は人気だし、ユニセックスな美少年ならさぞかし競り上がるだろうよ』
「あんた、人身売買まで手を出してるんスか。どんだけ下衆なんだよ」
『はっ、借金のカタに泡に沈めたり政治家に女を世話するのと大差ないだろうが。何イイ子ちゃんぶってんのお前? 所詮同じ穴の貉じゃねえか。お前だって、何の罪もない子供を金で買ってたんだろうが』
「……っ」
灰崎の言葉に黄瀬はぐうの音も出ない。
確かに灰崎の言う通り、黄瀬は五百万という金額でテツヤを買っていた。そうなるように態と仕組んだ。
だが、それでも黄瀬はテツヤにそれなりの自由は与えていた。
テツヤはその身体を黄瀬が言うままに提供するだけで、生活の全てを犠牲にすることはなかったのだ。
だが灰崎は違う。
彼はテツヤの全てを奪うつもりだ。
家族も学校も、人間としての尊厳も何もかも。
こういう世界だから人身売買がどのようなものか知らないわけではない。
法的に認められないことだが海外では横行しているのは周知の事実だし、一部の国では貧しさ故に己が産んだ子供を売る大人とているし、組織的なシンジケートが裏で暗躍していることも知っている。ほとんどが自我の芽生えていない新生児や幼児だが、年頃の女性が性や嗜虐的な嗜好の対象として売られていることもゼロではない。
そういう対象として売られた人間は家畜同然に扱われる。それこそ古代の奴隷制度のように。
人間として扱われないためどのような扱いを受けているかは正確には分からないが、おそらくまともな扱いではないだろう。1年生き永らえれば良い方だとも言われている。
そんな対象としてテツヤが選ばれてしまった。黄瀬と関わりを持ってしまったが故に。
「……何が目的なんスか?」
『お、察しが良くなったじゃねえか。少しは利口になったみたいだな』
「何が望みなんだよ! さっさと言えよ!」
『1時間以内に大井埠頭まで来いよ。時間内に来ればガキは解放してやるよ。怖かったら来なくていいんだぜ。その時はガキが輪姦されて薬漬けにされて脂ぎった親父に売られるだけの話さ。じゃあな』
とんでもない台詞を告げて通話はあっさり終了した。
無慈悲な音を慣らし続けるスマートフォンを思わず床に投げつけようとして寸でのところで思いとどまった。
これが壊れてしまえば連絡を取ることができなくなる。
勿論必要な電話番号は全て暗記しているが、そういう問題ではないのだ。
テツヤの携帯から黄瀬に連絡できなくなるのは拙い。
「くそっ」
ふつふつと煮えたぎる遣る瀬無い憤りをぶつけるように手近にあったクッションを思い切り壁に投げつけた。
衝撃に縫い目が避けて室内に羽毛が飛び散るがそんなことに構っていられない。
視界の端にオレンジ色が映った。
バスケットボール型のクッション。
テツヤがこのマンションに出入りするようになってから数か月した頃、たまたま出かけた先で見つけて購入したものだ。
何となくテツヤが喜ぶだろうと思っただけだったのだが、予想以上に気に行ったらしいテツヤはリビングにいる時は大抵そのクッションを抱きしめていた。
モデルルームのような室内には似つかわしくないそれは、唯一テツヤがこのマンションに入り浸った証のようでもあった。
堅気を巻き込むな、とは黄瀬がこの世界に足を踏み入れてから赤司に幾度となく注意されてきたことだ。
表と裏の線引きが上手くできていなかった当初は、黄瀬は普通に一般人の女性に手を出していた。
相手に己の仕事に見せなければ良いだろうと思っていたからだ。
その赤司の忠告を、事情を知らない相手のせいで黄瀬の仕事に支障が出るからだと解釈していた黄瀬は今更ながらに己の浅はかさを痛感していた。
赤司が言っていたのは、相手に黄瀬の仕事内容が知られることなどではない。
相手が黄瀬のせいで裏稼業に巻き込まれることを忌避してのことだったのだ――――今のように。
「はは、俺ってやっぱりサイテー」
黄瀬の手からスマートフォンが滑り落ちた。
◇◆◇ ◇◆◇
灰崎は通話を終了した携帯を弄びながら背後を振り返った。
少し離れた場所にいるのは大人が三人と少年が一人。
『嬲る』という単語でしか表現できない風景がそこにはあった。
床に押し倒されたテツヤの両手を1人の男が頭上で纏めて押さえ付け、抵抗して暴れる足はもう一人の男に押さえ付けられている。
そして残る1人はそんなテツヤの上に伸し掛かり厭らしい笑みを浮かべて白いシャツを引き裂いていた。胸元には黄瀬によってつけられた赤い所有印がこれでもかと刻まれており、白い肌とのコントラストが何とも言えずに淫靡な印象を与える。
男はおろか女性との経験すらなさそうな無垢な外見をしているものだから余計にそれは際立って見えてしまい、シャツを引き裂いた男の喉が欲望に小さく上下した。
「さっすが、あの黄瀬が執着しただけのことはある。これは極上だぜ」
「そのへんの女よりよっぽど白くて肌理細かい肌じゃねえか」
「細すぎるのが難点だが、あっちの具合が良ければ構わないだろう」
恐怖のせいかか細く上がる悲鳴すら愉しみながら男たちは次々とテツヤの身ぐるみを剥いでいく。
一気に脱がさないのはテツヤが怯える様を少しでも長く楽しもうという魂胆だろう。わかってはいたが反吐が出る。
灰崎は無言で男たちに近寄り、テツヤの首に顔を埋めている男の腹をしたたかに蹴り上げた。
一見細身に見える灰崎だがそれなりに身体は鍛えているため、男の身体はあっさりと宙に浮きコンクリートの床に叩きつけられた。
「下衆が。手を出すなって言っておいただろうが」
「でもよ……」
「あぁ?」
色素の薄い瞳で残りの2人を睨み上げれば、男たちは慌てて手を離した。
突然自由になったテツヤは状況が呑み込めないのか茫然と灰崎を見ているが、すぐに我に返ったのか後ずさるように彼らから距離を取った。尤もここに連れてこられた時に足枷を付けられてしまったので逃亡までは至らなかったのだが。
ジャラ、と硬質な音を立てる太い鎖を見て一瞬だけ眉を顰めた灰崎だが、すぐに男たちへと向き直った。
「いいか。こいつは餌だ。1時間以内にあいつが来なければ輪姦すなり売り飛ばすなり好きにしていい。だが、それまでは駄目だ。指一本でも触れてみろ。お前らの粗末なモン、細切れに切り刻んで豚の餌にしてやるよ」
「ひっ、わ…わかった」
「わざわざ面倒な依頼を引き受けてやってるんだ。余計な手間を掛けさせるなよ」
コクコクと頷く男たちを冷ややかな視線で一瞥して、灰崎はスーツを脱ぐと無残な状態になっているテツヤの肩にかけた。
そのまま手を引いて男たちから更に離れた距離まで連れてくると、用意しておいた毛布とペットボトルのドリンクを手渡した。
倉庫の中は寒い。暖房を入れることもできないため仕方ないのだが、テツヤにそれを耐えろというのは流石に酷だろうということで用意しておいたのだ。
まさか服を破かれるとは思っていなかったから用意しておかなかったら灰崎のジャケットだけで寒さを凌げたか危しい。どうやらテツヤは体脂肪は少ないようだし寒さに対しては特に弱そうだ。
「ほら、これにくるまっておけ。少しは暖を取れる。あと、水と食料は多少用意してあるから腹が減ったら食え」
「……え?」
まさかそのようなことをされるとは思わなかったのだろうテツヤは不思議そうに灰崎を見つめる。
それもそうだろう、何せ初対面で銃を突き付けて無理やり連れてこられたのだ。
逃げ出さないように足に鎖をつけたのも灰崎だし、電話をしている間こちらの状況に気付いていながらも咎めようとしなかったのだから、何故庇われるのか理解できていなくても当然だ。
実際これらは灰崎の厚意というわけではない。
「だーかーら、お前昼から何も食ってないだろう? リョータがヤった後に何か食わせてるとは思えねえし、お前細すぎ。ガリガリのヒョロヒョロで見てるこっちが胸糞悪くなる。何でもいいから腹に入れろ」
「えと……、ありがとうございます」
無造作に渡されたコンビニのビニール袋にはテツヤの体調を考慮してかいくつかのパンの外にゼリー飲料やスープなどが入っていた。
そして何故か缶のおしるこドリンクも入っていた。
確かに糖分とエネルギーを得るには良いとは思うが、おしること灰崎があまりにも似合わなくて戸惑う。
何よりも灰崎には敵意がない。
初めて会った時にはいきなり銃を突きつけられたり無理やり車に乗せられたりと怖いことしかなかったが、暴力に訴えられたり恫喝されたりということは一度もなかった。
合流した3人の男とは仲間ではないらしく必要最低限の会話しかしないし、何よりも明らかに彼らは灰崎を恐れている。
彼らとは別の黄瀬と敵対する関係なのだろうということは話の流れでわかったが、何故灰崎は黄瀬と敵対しているのかはわからない。
聞いたところで教えてはくれないだろう。
手にしてしまったおしるこをどうしようか悩み、そうしてそっと袋の中に戻しておいた。
だけどテツヤが何か口にしなければ灰崎の視線が外れないのだろうことを察したテツヤは、袋の中から缶の紅茶を選んでプルタブを開いた。
少し温くなってしまったがそれでも冷え切った身体には有難いぬくもりが喉を通って身体を温める。
知らず安堵の息が漏れたのに気づいた灰崎の目がほんの少しだけ和らいだ。
「まあ、お前を巻き込むことになったのは悪いと思うが、リョータが来れば無事に解放してやるからそれまで我慢してるんだな」
タイムリミットは一時間。
黄瀬が住むマンションからは余裕の時間なので問題はないだろうと灰崎は言うが、テツヤはそれに静かに頭を振る。
「黄瀬さんは……来ないと思います」
「は?」
「僕を助けに来るメリットが、彼にはありません。僕は、不要になりましたから」
「はぁ? 嘘だろ?!」
予想外とでも言わんばかりの灰崎の反応にテツヤは驚いて灰崎を見る。
嘘も何もつい先ほど関係は終了だと宣言されたばかりだ。
黄瀬の気紛れで続いていたような関係なので、彼が終わりだと言えばそれが全て。
あの瞬間にテツヤと黄瀬の関係は赤の他人に戻っている。
そう告げれば灰崎は忌々しそうに舌打ちをした。
「ったく、予想外だ。何だよあいつ、騙しやがって」
「え……?」
「あぁ、こっちの話だ。悪いがちょっと席を外すぜ。あいつらは手を出してこないと思うが、何かされそうになったらこれで応戦しろ」
そう言うなりテツヤの手にホルダーから抜いた銃を渡して外へ出て行った。
見張り(だろう、多分……)が勝手にいなくなり、人質である自分に武器を預けるとかちょっと、否、かなり問題だと思う。良いのだろうか。
何がどうなってるのかわからない。
だが、タイムリミットはあと45分。
それでテツヤの命運は否が応にも決まってしまうのだ。
テツヤは縋るように銃を握りしめた。
- 14.01.21