優しいぬくもりに抱かれて目を覚ます。
幼い頃からの日常。だけど最近少なくなって久しいそれは、テツヤに安堵と原因不明の胸の痛みを与えてくれるものでもあった。
至近距離から見る義父の顔は相変わらず綺麗で、30代男性とは思えないほど肌の肌理も細やかだ。
その長い睫の下にうっすらと残る隈を見つけて、テツヤは彼の疲労を知る。
ロケと取材と撮影と収録。
月の半ばを過ぎたというのに、彼が自宅で睡眠を取ることができたのはこれが3度目だ。
理由は遠方でのドラマ撮影で、東京に戻ってくるのも雑誌の取材やTVの収録があるためであり、決して仕事がひと段落して帰宅しているわけではない。
推定睡眠時間は日に2〜3時間と言ったところだろうか。
学生時代からバスケで身体を鍛えていた義父だから耐えられる強行スケジュールだろう。
テツヤなら間違いなく数日で倒れ病院に担ぎ込まれている自信がある――自慢できることでもないが。
そんな黄瀬がテツヤを胸に抱いてぐっすりと眠っている。
外泊先では安眠できないと嘆いていたのはテツヤに会いたいための嘘ではなかったらしい。
両手でテツヤの身体を己の胸に抱え込み、長い脚が逃げないようにとしっかりテツヤの足に絡みついている。
思い切り抱き枕にされているテツヤだが、この体勢は若干の寝苦しさがあるけれどテツヤにとっても大好きな体勢で、むしろ普段はテツヤが黄瀬に抱きついて眠っていることが多いほどだ。
鍛えた身体には無駄な肉が一切なく、そして筋肉は温かいのである。
十代男子にして冷え性という持病を持つテツヤにとって、肌寒いこの季節には大変ありがたいぬくもりなのだ。
折角覚醒したというのにぽかぽかと自分を包み込む熱に再び睡魔が襲ってくる。
黄瀬が起きる気配はない。
起こさないようにゆっくり動かした視線の先に見える時計は午前5時を数分ほど回ったところだった。
今日は日曜で学校の心配はない。
気になることと言えば黄瀬の出発時間だが、これは多分自分でタイマーをセットしているだろうからテツヤがそこまで気にする必要はないだろう。
どうしても起きなければマネージャーが怒鳴り込んでくるだろうし。
そこまで考えてテツヤは、「じゃあ、いいですね」と納得して黄瀬の胸にすり寄った。
甘えるような仕草は子供の頃からの癖で、そうすると黄瀬は嬉しそうに自分を抱きしめてくれるのが好きだった。
熟睡していてもわかったのか、黄瀬の腕に力が加わりテツヤを抱きしめる。
自分よりも大きな身体にくるまれて眠るの安心する。
テツヤは再び訪れてきた睡魔に大人しく身を委ねた。
2時間後、何度連絡しても電話に出ない黄瀬に痺れを切らしたマネージャーが、立ち入り禁止とされている黄瀬家のベッドルームに乱入し、自身が所属する会社の大事な大事な稼ぎ頭の頭上に強烈な拳をお見舞いされるまで至福の時間は続いたのである。
「やだ」
「駄目だ」
「嫌なもんは嫌っス」
「お前の意見は聞いてねえ。社長が決めて俺が引き受けたんだ。とっとと支度しろ」
「今日はテツヤっちと一緒にいるって決めたんス。突発的な仕事入れられても困るっス」
「事務所の都合だっつってんだろうが! いい加減にしねえと殴るぞ」
「痛っ! 殴ってから言うのは卑怯っス!!」
「やかましいっ!!!」
リビングで喧々諤々と交わされる言葉の応酬は、最早テツヤにとっては馴染んだものだ。
黄瀬とマネージャーの遣り取りから推測すると、本日の黄瀬に仕事の予定はなく久しぶりの自宅でまったりゆっくり疲れを癒すつもりだったのだが、どうやら事務所の独断で単発の仕事を入れてきたらしい。
予定していた休みが急遽潰れてしまい、テツヤとの至福の時間まで邪魔されたために黄瀬の機嫌は急降下。
そんな黄瀬にマネージャーの機嫌は更に急降下という、まさに悪循環に嵌っていると見て間違いない。
テツヤは基本的に黄瀬の仕事について口を挟まない。
扶養家族であるテツヤは黄瀬が働いて稼いだ金で生きているのだ。
口を挟む権利はそもそもない。
とりあえず時間も丁度良いしと、リビングの喧騒をBGMに朝食の準備に取り掛かることにしたのだが、声は大きくなる一方である。
この家は防音も完璧だし敷地を広く取っているため隣家に声が聞こえるということはほとんどないので騒音の心配はないが、朝からそんなに大きな声を出せるなんて元気が良いなぁという感想しか抱かないテツヤは、齢15歳にして達観した精神の持ち主だと評判だ。
勿論元凶が義父及びその周辺の人物によるものであることは否定しようのない事実である。
癖の強すぎる人物に真っ向から反論しても時間の無駄ですしと思っているテツヤは、奇しくも母テツナがテツヤと同じく15歳の時に同じ結論に至っていたことを知らない。
「とにかく、今回は断れない筋からの頼みだ。聞き分けに悪いことを言うんじゃねえ。おい、テツヤ。パンもう1枚」
「断れない筋って何スか。暴力団との付き合いはお断りっスよ。あ、テツヤっち。このポテトサラダすっごく美味しいっス。おかわり欲しいっス」
「馬鹿が。うちがそんな事務所じゃねえのは知ってるだろうが」
朝食の準備が整い場所をダイニングに移しても黄瀬とマネージャーの舌戦はとどまるところを知らない。
時折テツヤに話を振りながらも説得と拒絶を繰り返している。
テツヤに向ける口調と相手に向ける口調があまりにも違い過ぎるが、それもまた慣れた光景である。
言われるままにテツヤはマネージャー用にパンをトースターに入れ、空になった器にポテトサラダを追加する。
流石2人共体育会系出身と言えば良いのか、テツヤがトーストを半分食べる間にトースト2枚とサラダとオムレツ、そしてデザートのフルーツ盛り合わせまでしっかり完食している。
テツヤの成長が見込めないのは食の細さも理由の1つだが、何よりも食事のスピードが遅いということが最大の要因なのかもしれない。
トースト1枚で満腹になり半日は保つという何ともエコな燃費なのだが、成長期としては問題ありだろう。
未だオムレツと格闘中のテツヤの前で、食事を終了させ食後の珈琲を飲んでいる黄瀬にマネージャーは呆れたようにため息をついた。
「お前が出演する番組のメインスポンサーだよ。番組のタイアップも兼ねてCMのオファーが来た。番組だけでなく局の冠スポンサーだから断れば次の仕事はないと思った方が良いだろう。勿論大手製菓会社のCMを断ったとなれば次の仕事にも影響する。――わかったか」
「はぁ、仕方ないっスねぇ。というかそのオファーって女優さんの方に決まってたんじゃなかったっスか」
「スポンサーの社長が却下したらしい。何でも娘がお前のファンとかで、社長のゴリ押しで決まったそうだからな」
「うへぇ。そういうの正直困るんスけど」
「こっちもそうだが今更断れない」
「どうせ娘さんも現場に来てるとかって奴でしょう。本当、無下にできないし困るんスよね」
大事なことなので2回言いましたとでも言わんばかりに黄瀬はそう零した。
芸能人という仕事柄、黄瀬は女性に人気がある。
誰もがお近づきになりたいと思っているし、身近にそのようなコネクションがあるなら利用したいと思うのはファン心理からしてみれば正しいのだろう。
だがそのたった1人のファンの我儘で振り回される立場から見ればたまったものではない。
何しろ断ったら今後の仕事に影響があるのだ。
しかも黄瀬自身だけでなく、黄瀬が所属する事務所に在籍するタレント全てに影響が出る場合だってある。
過去にもこうしたトラブルから消えていった芸能人は少なくない。
弱小プロダクションなどはその手の被害に遭いいくつも潰れていったのを黄瀬も知っている。
黄瀬が所属する事務所はそこそこ大手なのでそこまで悪質な被害には遭わないだろうが、使いづらいタレントというレッテルを貼られれば黄瀬の仕事に影響が出ることは間違いない。
何て卑劣なと思うものの、それが大人の世界というものだと言われてしまえば反論はできない。
理不尽が罷り通るのが芸能界なのだ。
「あーあ、嫌だ嫌だ。権力を嵩に着る大人なんてなりたくないっスねぇ」
「今回ばかりはこっちも防げなかった。悪い。二度目はないから耐えてくれ」
「仕方ないっスね。社長と先輩に迷惑をかけるわけにもいかないっスから」
「先輩って言うな。殴るぞ」
「だから殴ってから言わないで欲しいっス、笠松先輩!!」
「うっせ」
「理不尽!」
どうやら黄瀬が折れる形で落ち着いたようである。
マネージャーは外で待っていると出発時間だけ告げてリビングを後にした。
それだけならまだよかったのだが、
「あぁ、そうだ。同行者は禁止と言われていないから、寂しかったらテツヤを連れていっても構わないんだぜ」
などと去り際に告げられた一言で黄瀬の目は輝き、テツヤの目からハイライトが消えた。
ヤバいと感じたテツヤは逃走経路を探したが、洗い物をしているテツヤの逃げ道はたった1つ、ダイニングとキッチンを繋ぐ通路だけで、そして黄瀬はそこに立っている。
どうしよう、気づかないふりして洗い物を続けようか。
それとも不可能だとは思いつつも一縷の望みにかけてミスディレクションを駆使してみようか。
それとも今すぐ赤司に連絡を入れてどこかに連れて行ってもらおうか――こちらは若干の精神的被害を受けるけれども黄瀬から逃げるには最良の選択肢である。
だがしかし、テツヤの携帯はリビングのテーブルの上にあるため、連絡を取るにはまずキッチンから出なければならないという最大の難関がある。
コンマ数秒で最善の選択を探し――テツヤは気づかないふりをして食器洗いを再開させた。
軽く鼻歌なんて歌ってしまうのは、にやにやと笑いながら近づいてくる黄瀬に気付いていないという意思表示である。
黄瀬のことは大好きだし一緒にいたいと思うが、CMの撮影現場に同行だけは御免蒙りたい。
甦ってくるのは過去の消し去りたい記憶の数々。
銀座の至る所にでかでかと貼られた女装姿の写真は、忘れたくても忘れられない記憶だ。
ついでに言えば渋谷のスクリーンに延々と上映された女装姿とか、もう本当に勘弁してもらいたい。
小学校低学年ならまだしも、高校生になったのだからそんな事態はないだろうと思いたいが、今でも事務所にテツヤに似合いそうな衣装を用意してあると人づてに聞いてしまったテツヤは笑い飛ばすことすらできなかった。
いやもう本当に、僕は大人しく留守番してますからと、本気で心から拒絶のいってらっしゃいを告げたのだが、何がどうしてそうなったのか、『久しぶりの父との休日を邪魔されたけど健気に待ってます』な息子に脳内変換された黄瀬は、当然のことながらその手を離すはずがなく、洗い物もそのままに車に連行されたのは当然だろう。
どうしてこうなった。
テツヤは逃げ出さないようにと後部座席で雁字搦めにされている黄瀬の腕の中でひたすらそう呟いていたのだが、残念ながら答えは期待できそうにない。
- 13.11.08