「はい、カット。終了です」
深夜を過ぎた時間になってようやくかかったその言葉に、出演者の誰もがほっと胸を撫で下ろした。
監督が渾身の作だと豪語する映画の撮影現場は、多くの作品に出演している役者でさえも油断できない厳しいものだ。
台詞の言い間違いなど言語道断、相手との呼吸の合わせ方、目線の動き、声のトーンにまで言及するこの監督は最近では珍しく、だからこそ若手の俳優は慣れなくて戸惑うことが多いらしい。
そもそもこの監督は芝居に掛ける情熱が半端ではないことで有名だ。
とは言え体脂肪7%の俳優に「痩せろ」と無茶を言うわけでもなく、飛べない人間に「空を飛べ」と言うわけではない。
だが限りなくそれに近い無茶を言う。
一部では偏屈と呼ばれている人物ではあるが、監督としての才能は誰もが認めるところであり、完成した映画を見ればどのような無茶であれ、やり遂げた自分を褒めてやりたくなると思わせるほどの良作ばかり。
そのためベテランの俳優であればあるほど彼に起用されることを光栄だと称賛する。
だが、当然ながらそういう気質は今の若い役者やファンの人気だけで売れてきたタレントには煙たがられるものだった。
そしてそういう人物がキャストテロップに名を連ねることはほとんどない。
事務所のゴリ押しで役を手に入れた若手俳優などは、読み合わせ当日に台本の内容を全く読んでいないという失態を犯してあっけなく降板。
レコーディングが押したという理由でスタッフ及び共演者一同を2時間も待たせて到着した人気歌手は、スタジオに入って最初に言うべきである「お待たせして申し訳ありませんでした」の一言がなかったために「常識を知らないために降板させた」と監督自らが番組で暴露される始末。
今回の作品にも数名程若手のタレントが起用されたということもあり、ベテラン俳優たちの多くがこれから起こり得るだろうトラブルを予想して頭を痛めていたのだが、その予想は良い意味で裏切られた。
それというのも今回起用された俳優としては駆け出しである黄瀬涼太がとても良い演技を見せたからだ。
モデルからタレントへと移行し、それから役者の道にも進み出した彼は、役者としてはまだまだ若手だが芸歴の長さから知名度は高い。
事務所の力もあり今回そこそこ重要な役にキャスティングされたのだと思うが、これがもう彼以外に適役がいないと言う程に素晴らしかったのだ。
体育会系出身であるため上下関係には厳しく、スタッフにも腰が低くどれほど忙しくても演技には一切影響させないという、まさに完璧な共演者だ。
監督自身、彼にはそれほど期待していなかったのだろう。
黄瀬の演技を見た監督は、即座に彼の出番を増やした。
割を食ったのは同じく事務所のごり押しでキャスティングが決まった俳優だったが、彼の演技はお世辞にも上手と言えるようなものではなかったので反対意見は少なかった。
誰だって台詞の意味を理解していないような役者より、迫真の演技で応えてくれる相方の方が良いに決まっている。
そうして増えていく出番に伴い、スタッフの黄瀬への扱いは丁重なものへと変わっていったが、黄瀬の態度は一貫して変わらなかった。
誰よりも早く現場に到着し、必要とあらば忙しく働いているスタッフに手を貸し、満足いく演技ができないのであればどんなベテラン俳優であろうと気後れせずにアドバイスを求める。
そんな姿を見ていれば自分達の演技にも熱が入るのは必然。
久しぶりに良い演技が出来たと自負する役者は多かった。
だが、全力投球の演技は当然ながら疲れるわけで、正直スタッフのその言葉を心待ちにしていなかったと言えば嘘になる。
ようやく訪れた完成という名の終わりの時間。
誰ともなく安堵のため息を吐いて肩の力を抜いた。
ぐったりと用意された椅子に座りこむ者。
椅子まで歩くのも無理と、セットの床に倒れ込む者。
撮影は終わったのに現場が気になって見学に来ていたベテラン俳優は、緊迫した空気を吐き出すように大きく深呼吸してマネージャーに手渡されたペットドリンクにようやく口をつけた。
充足感と虚脱感に包まれた現場で、だが1人だけ元気な人物がいた。
黄瀬涼太である。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
共演者スタッフ一同に明るい声でそう挨拶をすると、軽い足取りで楽屋へと歩いていったのだ。
勿論帰宅するためである。
「…何、アレ。化け物?」
「キセリョって確か12時間ぶっ続けで撮影じゃなかった?」
「確か…。しかも前日って朝5時まで別の撮影があったって聞いた気がするんだけど…」
「若いって言っても30過ぎだろ? 俺とそんなに変わらないのに、何その体力」
自分達は立ち上がって歩くのもつらいというのに、彼の底なしの体力はどういうことなのだろう。
「やっぱバスケか? キセリョって学生の時天才バスケ選手って言われてたんだろ?」
「いや、家で天使が待ってるからだろう」
ある俳優が言った一言で周囲から納得したらしい声が漏れた。
黄瀬涼太と言えば忘れることができないのが13年前のある報道だ。
当時22歳だった黄瀬が事故死した親友の子を引き取って一児の父になった。
その息子が本当に可愛いらしく、彼は報道陣の前で盛大に惚気たのだ。
それはもう、見る者のほとんどが「お前が引き取ったの子供じゃなくて恋人だろう」と突っ込みたくなるほどに蕩けた顔だったのを良く覚えている。
ちなみにその時に連発した「うちの子、マジ天使(*´∀`*)」はその年の流行語大賞にノミネートされた。何故だか顔文字つきで。
その後もいかなる場面でも揺らぐことのない黄瀬の親馬鹿ぶりは有名である。
羨望と尊敬と、一部の萌えを伴って。
そういえばここ数日は撮影とロケが重なって自宅に戻れていないと嘆いていたような気がする。
休憩時間にメールや電話をしている姿を見かけたが、その時は隠れて恋人でも作っていたのかと思ったのだが、そうか、あの時の相手は息子か、と周囲がうんうんと頷いている。
「まぁ、キセリョだし」
その一言で全てを納得してしまう程には、黄瀬涼太の人柄は浸透しているらしい。
彼らは温かい眼差しで黄瀬が消えていった扉を眺めていた。
だがしかし、そうやって微笑ましく見送る者ばかりかと言えばそうはいかないのが世の中というものである。
「黄瀬さん!」
楽屋から出てきた黄瀬の背中を呼び止めたのは、今回の共演者の1人であるグラビアアイドルの友理奈だった。
グラビアから役者へと転向したいという理由で今回の配役に起用されたのだが、数カットしか出ていないというにも関わらず「現場の雰囲気を学びたい」と称して毎日のように撮影現場にやってきていた彼女は、誰がどう見ても黄瀬を狙っていたのだが、生憎黄瀬本人だけが気づいていなかった。
ピタリと足を止めて振り返った姿はシンプルな上下に春コートを羽織っただけのカジュアルな姿で、流石元モデルと言おうか飾り気のない服装だというのにファッション雑誌の表紙のように様になっていた。
「あれ、友理奈ちゃん? 今日も見学に来てたんスか? 遅くまでご苦労様です」
「い、いえ。皆さんの演技は勉強になるので、全然苦にならないです」
それは本心だが、全てではない。
彼女は黄瀬に会うために現場に来ていたのだ。
彼に気に入ってもらうため、彼に好かれるために。
あわよくば声を掛けてもらえたらと思って、日々現場に顔を出していた。
勿論あの地獄のような撮影現場でそんな余裕なんて少しもなかったのだけれど。
彼女は小学生の頃から黄瀬のファンだった。
まるで王子様のようだと思ったのだ。
こんな人と結ばれたいと思うのは、結婚に夢見る小学生なら当然だろう。
そうして憧れ続けた黄瀬と初めての共演。
相手は30代半ばの独身人気俳優で、自分はそれなりに人気のグラビアアイドル。
芸能人同士の交際は珍しくないし、俳優とグラドルというカップリングも珍しくない。
何よりも黄瀬に相応しい女性になれるようにと日々努力を重ねてきたのだから、こういう時に親しくならなくてどうするというのが彼女の言い分だ。
黄瀬は派手な外見に反して軽い女性が苦手だと聞いたので、単なるファンの1人だと思われないように接触には人一倍気を遣った。
巨乳好きならば自分の武器でもあるEカップをここぞとばかりに主張したのだが、意外と紳士な黄瀬は露出の多い女性をあまり好まないようだ。
最初の挨拶の時に胸元が大きく開いたワンピースを着ていたのだが、彼はさりげなく服装に目をやると「風邪を引くからそういう恰好は撮影の時だけにした方がいいッスよ」とやんわりと釘を刺されてしまった。
最初の段階で失敗したのでその後は相当気を遣ったせいか、今では普通に雑談をしてもらえるようになった。
このまま親密な関係に、と思った矢先のクランクアップである。
この後のスケジュールでも黄瀬と重なることは当分ない。
今を逃したら黄瀬と親しくなることは不可能だと、彼女の野生の勘がそう告げていた。
そう思ったから声を掛けたのだが、そんな彼女の下心に気付いた様子もなく黄瀬はどこかそわそわしている。
時計を気にしているようだから、もしかしたら急いでいたのかもしれない。
「あ、お忙しいのに引き止めてごめんなさい」
「構わないっスよ。俺に何か用事っスか?」
「あの、良かったらメルアドを教えてもらいたいと思って――」
「あ、無理っス」
はにかみながらそう告げた瞬間に拒否された。
え、と顔を上げれば明らかに作り笑顔を浮かべた黄瀬がそこにはいた。
「俺、女の子と番号の交換をしないって決めてるんス。誤解されても困るし、連絡もらっても返事できないことの方が多いんで」
「あ、でも、私そんなに頻繁にメールしませんし……」
「だったら余計必要ないっスよね」
あっさりばっさりと一刀両断されて彼女は落ち込んだ。
勿論今すぐ恋人同士になれるとは思っていなかったけれど、知人としての関係すらも否定されるとは思っていなかったのだ。
「あの…黄瀬さんは、特定の恋人とか…作らないんですか?」
「俺?」
不思議そうに聞かれて頷いた。
キセリョに恋人がいたという話はあまり聞いたことがない。
この外見と中身だ。絶対もてるに決まっているのに、もしかしてキセリョってあっち系なの?と思ったのが表情に出たのだろうか、黄瀬が苦笑した。
「恋人というか最愛の人はもういるので、これ以上は必要ないって感じっスね」
「…………………………………………………え?」
彼女は黄瀬涼太に対して過剰な程の憧憬を抱いていた。
だから都合の悪い情報は全て右から左へと聞き流していたため知らなかった。
『黄瀬涼太は目の中に入れても痛くないほど溺愛している息子がいる』ということを。
「じゃあ、そういうことで。俺の天使が待ってるので」
そう言ってくしゃりと頭を撫でて去っていく後ろ姿を、彼女は呆然と見送るしかできなかった。
自宅の前までマネージャーに送ってもらい、明日の予定を確認して門をくぐった。
部屋の灯りは既に消えている。
仕方ない。時刻は午前3時だ。
むしろこの時間まで起きてたらお説教なのだから眠っていて当然。
だけど、ほんの少しだけ寂しいと思ってしまうのは許してもらいたい。
長期間のロケのせいで重くなったスーツケースを普段ほとんど使わない自室に置いて、シャワーを済ませた。
そのまま自分の部屋には戻らずに息子の部屋の扉を開くと、セミダブルのベッドの端で丸くなって眠っているテツヤの姿があった。
子供の頃から変わらないその寝相が可愛らしい。
黄瀬は慣れた仕草でテツヤをベッドの中央に戻すと、そのまま隣に己の身を滑り込ませた。
ぎゅ、と抱き込むように両手で包みこめば、無意識にぬくもりを求めたテツヤがしがみついてきた。
相変らず細い身体。
高校に入ったのだから部活動でもすればいいと言ったのだが、どうやらテツヤは部活に所属するつもりがないようだ。
誠凛はバスケの強豪校だし、何よりもテツヤの亡き両親が出会った場所でもある。
子供の頃からバスケを続けてきたテツヤには良い機会だと思うのだが、どうしても首を縦に振らない。
まぁ本人にそのつもりがないのだから無理強いをさせるつもりはないのだが。
バスケならば自宅でいつでもできるし、幸い相手には事欠かない。
(まぁ、テツヤっちがやりたいようにするといいか)
黄瀬はテツヤの自主性を尊重している。
テツヤは大人しいけれど自己主張ははっきりとするタイプだから、本当にやりたいことがあったら教えてくれるだろう。
ボディソープの香りに包まれているテツヤを抱きしめると、ようやく帰ってきたのだと実感する。
一体どのくらい会っていなかったのだろう。
海外のロケでも入らない限りテツヤと長い間離れることなどなかったので、久しぶりに会えなかった期間は本当につらかった。
メールは頻繁にやり取りしたし、日に1度の電話も欠かしたことはない。
だけどテツヤの笑顔を見れなければこうして一緒に眠ることもできない日々というのは何とも味気ないものだった。
ふっくらとした唇から安らかな寝息が聞こえてきて思わず胸が温かくなる。
愛しいと思うのは父親としてのそれか、それとも幼い頃テツナを愛しいと思っていた気持ちか良くわからない。
「かーわいい唇」
すうすうと穏やかな寝息を吐き出す唇はふっくらとした桜色で、高校生ともなれば男臭くなる子供が多い中で相変わらずの中性的な可愛さは驚くばかりだ。
そういえばと帰り際に会ったグラドルを思い出す。
彼女の魅力は童顔と豊かな胸。そして思わずキスしたくなる唇だとか。
つやつやと輝く唇は確かに可愛かったかもしれない。
だけど、黄瀬にはこのグロスもリップも何も塗られていない小さな唇の方がよっぽど愛らしく思える。
吸い寄せられるようにその唇に触れる。
啄むように触れてすぐに離れる。
ふっくらと柔らかい感触が唇に伝わってくる。その心地良さ。
テツヤのそれは今まで戯れで恋をした女性のものとは違いすぎる。
気持ち良くて癖になりそうだ。
ぐっすり眠っているのを良いことに、再び唇を寄せた。
今度は先程よりも、しっかりと。
流石に吐息を絡めるような深いキスは控えた。
折角気持ち良く眠っているのに起こしたら可哀相なので。
道徳的な何かは欠片も問題ではないらしい。
「テツヤっち、大好きだよ」
そうして三度、テツヤの唇を味わう。
とりあえず、これは自分だけの秘密だ。
- 13.11.08