これは夢だ、ともう1人の自分が囁いた。
遠く懐かしく、そして残酷な夢。
紅葉のような手が黄瀬の頬に触れる。その柔らかさに驚いた。
「う…わっ、ちっちゃいっスねぇ〜」
生まれた時に比べればかなり大きくなったとは言え、まだ生後数か月というレベルでは190センチ近い黄瀬から見れば小さいとしか表現できない。
テツナの腕に抱かれて大きな瞳で自分を見上げてくる赤ん坊は、恐ろしいほどに母親に瓜二つだった。
父親の遺伝子は一体どこに行ったのだろうと揶揄われるほどに母親の遺伝子しか見つからない赤ん坊――テツヤは、性格も母親に似たのか夜泣きもしない手のかからない、非常に育てやすい子なのだそうだ。
ただその分表情が乏しいのも血筋なのでしょうかと、少しだけ残念そうな顔をするテツナが可哀相にも思えたが、そもそもテツナ自身が笑わない子供だったというのでこれは仕方ないのかもしれない。
表情が乏しくても感情がないことは母であるテツナ自身が良くわかっているから問題ないだろう。
出産当日に駆け込んでマスコミに『キセリョに隠し子?!』などと騒がれてしまったために直接会いに行くのは迷惑になるだろうと控えていたのだが、先日父親である火神から「良かったら会いに来てくれ」と言われたので強引にオフをもぎ取りやってきたのが連絡があってから2日後のことだった。
「お前、早過ぎだろ」と笑う火神が歓迎してくれたことが素直に嬉しかった。
そうして通されたリビングにいたのは、まるで聖母子像のような母子の姿。
比喩でも誇張でもなく、黄瀬にはそう見えたのだ。
柔らかな表情で息子に微笑みかけるテツナと、乏しい表情ながら嬉しいのだとわかるテツヤの姿は何と微笑ましいものだっただろう。
まだ首の据わっていないテツヤに不用意に触れるのは躊躇われて、黄瀬はおそるおそるといった様子で自分を見上げてくる瞳を覗きこんだ。
母親と同色の、ソーダ水のような瞳がとても綺麗だ。
「生まれた時は寝てたから知らないっスよね。初めましてテツヤっち。涼太くんですよー」
柔らかい頬を指先で撫でながら自己紹介した。
ぱちくりと瞬きを返すテツヤは、多分まだ何もわからないだろう。
それでもきちんと挨拶をしたかったのだ。
「ぅ、あー」
何かを求めるように身じろぎするテツヤに不思議そうに顔を近づけた。
すると、ペタン、と小さな手が黄瀬の頬に触れてきて驚いた。
母親であるテツナも不思議そうにテツヤを見ている。
「テツヤっち?」
ペチペチと小さな手が黄瀬の頬や鼻を軽く叩く。
力がないため痛みは感じない。それどころか柔らかい感触が心地良い。
「あー」
テツヤの意図が分からなくて好きなようにさせていると、不意にテツヤが笑った。
にこっと、本当に嬉しそうに。
その愛らしさをどう表現したら良いか、黄瀬は知らない。
「テツヤっち……」
「テツが初対面の奴に笑うって、凄えな」
「テツくん、僕にすらそんな全開の笑顔見せてくれないのに。黄瀬くんに……」
「いやいやいやいや、俺、冤罪っス」
純粋に驚いている火神と、どことなく嫉妬心が見えるテツナ。
そして無邪気に笑っているテツナ。
初めての火神家訪問はそんな感じで始まったのだ。
「りょー、ちゃ」
とてとてと、危ういバランスでテツヤが近づいてくる。
ようやくハイハイを卒業したというテツヤは、歩くのが楽しいらしくてじっとしていない。
火神もテツナも子供がやりたいことをさせておくのが一番だという方針のせいか、気が付くと部屋からいなくなっていることも珍しくないのだが、それもまた子育ての楽しみと割り切っているあたりこの夫婦は大物なのかもしれない。
ただ、ひと月ぶりに訪れた友人の玄関先で裸足で歩いている子供を見つけた時には正直肝が冷えた。
どうやって彼が玄関を出たかなんて知りたくない。
どうせうっかりしていたテツナかテツナの母が開け放しておいたのだろう。
「うわああぁぁぁぁぁぁ!! テツヤっちぃぃぃぃぃぃ!!」
黄瀬は車を駐車場に停めると慌ててテツヤを抱き上げた。
当然ながら靴など履いていない足は汚れてしまっている。
小石を踏んで足を怪我しなかっただけマシだと思わないと精神衛生上悪い。
「火神っちぃー! テツナっちぃー! テツヤっちが外に出てるっス!!」
「おー、悪い。テツ、あんまり派手に動き回るなよ」
「あぃ」
「黄瀬くん。グッジョブです。さぁ、そのままバスルームへどうぞ」
「え? 俺が洗うんスか?」
「テツくんは涼太くんと一緒にお風呂入りたいですよね」
「あい!」
「テツナっちあざとい! そして、テツヤっちはマジ天使!!!」
「ということでお願いします。黄瀬くん。出てくる頃には僕お手製のプリンを用意しておきますからね」
「頼むぞー」
「はいはい、わかりましたよ。じゃあ、テツヤっち、お風呂にGO!」
「ごー、です」
本当に、幸せだった。
◇◆◇ ◇◆◇
ゆっくりと、夢から現実に引き戻されていく。
ホテル特有の乾燥のせいか、若干喉が渇いているのに気が付いた黄瀬は、サイドテーブルに置きっ放しだったペットボトルを引き寄せ一気に喉に流し込んだ。
「ぅー、今、なんじ?」
デジタルクロックを見れば時刻は6時半。
ベッドに入ったのが3時過ぎだったから、3時間程度は眠れたということか。
正直寝足りないが、仕事なのだから仕方ない。
マネージャーが起こしに来るまであと1時間。
黄瀬は躊躇わずに携帯を手に取り、慣れた番号をコールした。
早朝だが彼が既に起床しているのは知っている。
彼の起床時刻は6時なのだ。
そのまま寝癖を直して朝食の準備をして学校に行く。
今なら食事の準備をしているか朝食を摂っているかのどちらかだろう。
黄瀬の予想通り、コール音が数回鳴って相手が出た。
『おはようございます、父さん』
「おはようっス、テツヤっち。良く眠れたっスか?」
『そこそこです。昨日出た新刊を読んでたので…6時間くらいですかね』
「きちんと睡眠は取らないと大きくなれないっスよ」
『わかってますよ』
テツヤの声が若干低くなる。
相変らず身長のことは触れてほしくないみたいだ。
父親の血が入っているのに、どうしても伸びないのが気に入らないらしい。
それでも高校1年生の平均身長には届いているのだが。
まぁ、確かにテツヤの傍にいる大人達が黄瀬を筆頭に平均身長を大きく超えている人物ばかりなのだから悔しく思うのも仕方ないだろう。
火神の遺伝子はまだ眠ったままのようだ。
テツヤは身長が高くても可愛いとは思うが、どうしてだろう、背が伸びたテツヤを1ミリも想像できないのは。
ちなみにこの意見は他のキセキも同意見である。
むしろ赤司がテツヤの身長をこれ以上伸びないようにと企んでいる節があるので、テツヤが170センチを超えることはないかもしれない。
『そんなことより、父さんこそちゃんと寝てるんですか?』
声のトーンで寝起きだということは分かっているだろうが、昨夜遅くに撮影が遅くなりそうだとメールしていたので気になっているらしい。
本当に俺の子マジ天使と思う黄瀬は間違っていないと思う。
「お仕事だからねー。でもまぁ3時間眠れたので良い方っスよ」
『――無理、しないでくださいね』
「大丈夫。父さんまだ若いからバリバリ働けるっス」
『そういうことじゃないんですけど…』
「あ、そうだ。明日の夕方には帰れそうなんスけど、テツヤっちお土産何がいいっスか?」
『確か今は北海道ですよね。蟹食べたいです』
「了解。郵送で送るから待っててね」
『楽しみにしてます。――だから、早く帰ってきてくださいね』
「勿論っスよ。早くテツヤっちの可愛い可愛い寝顔が見たいっスから」
『…………ベッドに忍び込んでくること前提なんですね』
「譲る気はないっス」
『はぁ、まぁいいです。あったかいし』
テツヤの表情が面白いほど想像できて黄瀬はにんまりと笑う。
相変らず無表情で、でも少しだけ眉を下げているのだろう。
もしかしたら若干頬を赤くしているかもしれない。
年頃の男の子が父親と一緒に寝ることなんてないことくらい、黄瀬だって知っている。
実際黄瀬が高校生だった頃なんて、父親とろくに会話もしなかったのだ。
放任主義と言ってしまえばそれまでだが、仕事第一の父親とは距離があったのも事実。
そしてそんな父親を寂しいと思えない程度には、黄瀬は家族愛を求めていなかった。
だというのに、自分が父親になればここまで愛情を注げるのかという程にテツヤを構い倒しているのが不思議だ。
同じことをもし自分がされたらと考えるとうんざりするほどのスキンシップ。
頬にキスなど序の口で、一緒に寝るのは父として譲れない権利。
オフには2人で買い物にだって食事にだって出かけるし、必要ならば一緒に風呂に入ることだって全然嫌ではない。むしろ大歓迎である。
血の繋がった家族ではないからというわけではないが、黄瀬とテツヤは自他共に認めるほどスキンシップ過多の親子だ。
もっともそれはキセキ全員に言えることだが。
知らない人が見たら驚くだろう。
実際、テツヤと買い物をしていてマスコミにデートだと報道されたこともある。
時期が冬だったせいでコートとマフラーに包まれたテツヤの顔がわからなかったからだとうのもあるが、恋人繋ぎで歩いたり肩を抱き寄せたり、往来でナチュラルに抱きしめたりしていたのがいけなかったのだろうか。
勿論止めるつもりなどないが。
テツヤとの会話は黄瀬にとって癒しの時間だ。
それがたとえ5分であっても変わらない。
これから忙しい1日が待っているとなれば、ほんの少しでも愛息の声を聞いておきたいと思うのは当然だろう。
だがいつまでも引き止めてはテツヤが学校に遅刻してしまう。それはまずい。
名残惜し気持ちで、泣く泣く通話を終了した黄瀬は、さながら飼い主に置いていかれた大型犬だ。
通話履歴を見てため息をつく。
毎朝決まって残されている履歴は、それだけテツヤと離れている証拠のようで哀しくなる。
「よし、これが終わったらまとめてオフを取ろう。そしてテツヤっちと一緒に旅行するんだ」
最低でも半年はびっしりと埋まっているスケジュールを思い出して、黄瀬はそう心に決めた。
行先はどこにしようか、ヨーロッパも良いし東南アジアでも良い。
テツヤの好みを聞いて国内に変更しても良いだろう。
まだ見ぬオフを目標に、黄瀬は足取りも軽くシャワー室へと向かった。
- 13.10.23