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異説・とりかへばや物語12



病み上がりとは言え十分過ぎるほど与えられた休息と栄養のお陰でテツヤの体調は完全復帰と言っても良かった。
夜半になって急に上がる発熱に苦しむこともなく、栄養価の高い食事を食べても無理やり戻してしまうようなこともなく、薬湯すら喉を通らないような瀕死の状態に陥るようなこともない。
滋養の高い病人食をきちんと平らげ、夜中に魘されることもなく朝までぐっすりと眠れたお陰で今までに比べれば半分程の期間で病床から脱することが出来た。
テツヤにしてみれば快挙と言っても良い回復状態だ。
以前ならば間違いなくひと月は起き上がることなんてできなかったのだから、これは喜んで良いだろう。
その理由がテツヤが健康体になってきているからなのか、それともテツヤの快癒のためにありとあらゆる権力を行使した赤司帝の尽力のお陰なのかは判断に迷うところだが。
少なくとも国内でも稀な貴重な薬を用意してくれた赤司帝の功績は大きいだろう。
とは言え、そもそもの元凶は赤司帝なのであまり評価はされていないのだが。

そんなわけで健康を取り戻したテツヤだが、病床であろうと通常であろうとテツヤがすることは限られている。
書物を読むか囲碁をするか、それとも眠るかしかない。
何しろ病弱と評判の弘徽殿女御である。
その証明のように初夜を迎えた途端に命の危機に瀕してしまったものだから噂は真実なのだと一気に広まってしまった。
快癒したところでその認識が改められるわけでもなく、又、テツヤの周囲にいるのはテツヤを幼い頃から知っている者ばかりなので彼に対する過保護が変わることはないだろう。
室内で大人しくしていることは慣れているので特に不自由を感じないのが幸いである。

とはいえすることがないためとっても暇だ。
実家から持参してきた書物は読み終わってしまった。
無類の読書好きであるテツヤは入内する際に大量の書物を持参してきたのだが、その半数は芙蓉によって強制的に用意された絵巻物だったため持参した書物は当初の量よりも少なく、熱が下がってから数日で読み尽くした。
本来ならば既に実家から新たな書物が届いているはずなのだが、テツヤが倒れてしまったものだから手配が滞ってしまったらしい。
何しろ手配してくれるべき人物が辰也で、その辰也はテツヤの容態が回復するまで弘徽殿に詰めたままだったため手配が遅れてしまったのだ。
明日にも辰也がいくつか持ってきてくれるだろうからそれまでの辛抱だと己に言い聞かせて、テツヤは手持無沙汰に芙蓉が用意した絵巻物を眺めている。
絵巻物は貴族の姫君が好むもので、入内の際には持っていなければおかしいという理由から選ばれたのだが、姫君として育てられてはいるものの中身はしっかりと男であるテツヤにとってはさして興味のあるものではないため、いくら暇を持て余しているからと言って眺めていて楽しいものではない。
当代一の絵師に描かせたそれは確かに美しいが、絵巻物に描かれた恋物語にうっとりするような乙女心は持ち合わせていないのだ。
テツヤが好むのは和歌集や外国から持ち込まれた漢書なのだが、和歌集はともかく漢書は姫君が読むようなものではないので用意できなかった。
そんなわけで読む書物がない。
だけど時間だけは余るほどにあるため、テツヤはふと思い出して絵巻物をそのまま放置して文机に向かった。
実はテツヤの趣味は執筆である。
それも恋愛ものから戦ものまで幅広い。
最初は単なる物語だった。
思いついたまま筆に認めてみたのだが、これが意外と家族に評判が良かった。
特に辰也に至っては「テツヤは天才だ。もっと沢山書いてごらん」とかベタ褒めしたものだから、外出もできず女装も止めることが許されなかったために鬱屈していたテツヤは何かに取り憑かれたように物語を書き続けた。
小桃の要望に応えてとある姫君の玉の輿物語を書いてみたところ女房たちからも面白いと絶賛され、異国から伝わってきた戦記ものに感銘を受けて神話を原案にした架空の物語を書いてみたところ、どういう経緯を辿ってか不明だが貴族の公達に読まれるようになり、気が付いたらテツヤは『謎の天才作家』と呼ばれるようになっていった。
テツヤとしては単なる趣味のつもりだったので驚いたのは言うまでもない。
暇つぶしとしてはこれ以上ないし、何より楽しい。
最近は忙しくて話を書く余裕すらなかったが、元気になったのだから徐々に書き始めても良いかもしれないと、テツヤは物語の続きを書き始めることにした。
書きたい話はいくつもある。
幸い時代は女流作家全盛期である。
宮中に仕える女房が我こそはと随筆や物語や日記などを披露しているため、女御であるテツヤが執筆活動を行っていても不思議はない。
そんなことを思いながら文机に向かってどれくらい時が経過しただろうか、いつもなら呼吸をするかのように筆が進んでいくのに、不思議なことに文章が頭に浮かんでこない。
何度も文章を捻り出そうとしては止め、書き始めようとしては2〜3行で行き詰まりを繰り返してしまい、とうとうテツヤは諦めたように息をついて筆を置いた。
文章が浮かんでこない時は潔く諦めた方が良いのを経験上知っていた。
辰也が訪れてくる時間まであと少し、女房を呼んで囲碁でもしようかと顔を上げたテツヤは、その時初めて自分以外の何者かが室内にいることに気が付いた。
テツヤが執筆をする時は女房たちは室から出ていくのが通常だ。
他人がいると集中できないからであり、女房たちもテツヤが文机に向かう時には気を利かせて室を出ていく。
テツヤに仕える女房は絶対に執筆中は室に近づいたりはしないのだ。
彼女たちはとっても有能なのだから。
だが、几帳の陰に誰かがいるのは事実である。
何か緊急の用でもあるのだろうか。それなら声をかけそうなものだけれど。

「どうかしましたか?」

姿が見えない相手にテツヤは声をかけた。
見ず知らずの相手という可能性は考えていない。
ここは後宮で赤司帝の許しがなければ立ち入ることができない場所であり、更にはテツヤの私室は赤司帝でさえも辰也の許可なく入ることを許されていないからだ。
緊急の用事か、それともテツヤの作品を楽しみにしている女房の1人がこっそり忍び込んだのだろうと思ったのだ。
だが、姿を見せたのは予想外の人物だった。
先程から微かに漂う兄とは違う荷葉の香りに気付かなかったのが不思議な程だ。

「突然来てすまないね」
「………主上」

几帳の陰に隠れるように立っていたのは赤司帝だった。
供も連れず一人、テツヤに気づかれなければずっと隠れたままだったのだろうかと思う程には、上手く気配を隠していたことに驚きが隠せない。
何しろ今上帝である。
弘徽殿の主は女御であるテツヤだが、そもそも後宮はおろか御所全てが赤司帝の所有物であると言っても良いのだ。
テツヤは慌てて上座を譲った。
弘徽殿に入内してからというものほぼ毎日が病床ということもあってか今まで気にしたことはなかったが、テツヤと赤司帝の身分を考えれば当然のことだ。
赤司帝が上座に座ると、テツヤはそれより下座に腰を下ろした。
ゆっくりと頭を下げると手で制される。

「今更だ。そのような気を遣わなくても良いよ」

そう言われてしまうと確かに今更なのでテツヤも顔を上げた。
色違いの双眸と空色の双眸が交錯する。
そういえばこの瞳をこうして受け止めるのは酷く久しぶりのような気がする。
最後に見たのは入内した日の夜。だが彼の瞳を見たのはほんの一瞬で、後はなし崩し的に初夜にもつれ込まれてしまったため、こうして改めて顔を交わすのはもしかしたら吉野以来かもしれない。
あの日の印象ははっきり言って最悪だった。
それが今、こうして女御として彼の元に嫁ぐことになるとは何とも不思議なものだ。
何よりも、自分自身が嫌だと思っていないことが不思議で仕方ない。
それが所謂「惚れた弱み」というものだということには、テツヤはまだ気づいていない。

「もう床上げをしたんだね」
「はい。主上にはご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「いや、原因は僕にあるからね。謝るなら僕の方だ」

そんな感じに始まった2人の会話はその後も和気藹々と続くかと思いきや、対峙して座ること数分であっさりと終了してしまった。

「…………」
「…………」

お互い相手が話し始めるのを待っているため、沈黙だけが室内を支配していく。
テツヤはお互いの立場から今上帝である赤司が口を開かなければ何も言えないのだが、赤司が口を開く様子は見られない。
真摯な視線でじっとテツヤを見ているだけだ。
何ともいたたまれなくて視線を下げようとしたのだが、そうすると赤司が手を伸ばしてテツヤの顎を上向かせてしまうのでそれも叶わない。
ただひたすら至近距離から見つめられるという拷問に根を上げたのは、案の定というかやっぱりというかテツヤが先だった。

「あ、あの……主上」
「何だい?」
「……少々、その、お顔が……」
「あぁ、遠かったかい。それは悪かったね」
「逆ですっ、逆!」

更にぐいっと顔を寄せられてテツヤは思わず大声で叫んだ。
テツヤの声に気付いた女房が何事かとやってくるが、膝を付き合わせるような形で座っている2人の姿を発見した。
どうやらやってきたのは古参の女房ではなく、テツヤの入内に際して新たに雇われた女房だったらしい。
テツヤの側仕えの女房は芙蓉を始め少数精鋭だが、それ以外の雑事を担う女房はテツヤの正体を知らない。
左大臣家でもトップクラスの秘密なので当然だが。
そんなわけで女房たちのほとんどはテツヤのことを「当今帝に見初められた幸せな姫君」と認識している。
唯一の女御として入内しただけでも幸運中の幸運、運良く男児を出産すれば東宮確実、将来は国母として揺るぎない地位を手に入れることができるし、実家も繁栄間違いなし。
勿論務めている自分たちも鼻高々であるために、2人を邪魔するわけがない。
主人の蜜事を目撃しても慌てず騒がず何事もなかったかのように退席するのが有能な女房であるため、彼女たちはしずしずと去っていった。

衣ずれの音が遠くなったのを見計らって、赤司帝はテツヤの腕を引いた。
突然のことに反応が遅れたテツヤは引かれるままに赤司帝の方へと倒れ込み、そして倒れてきたテツヤを帝はしっかりと抱きしめた。

「お、主上っ?!」




「―――すまなかったね」




テツヤの首筋に顔を埋めたまま呟かれた声に、テツヤは抵抗を止めた。
普段から自信に満ち溢れている赤司帝にしては信じられないほど弱々しい声に、一瞬幻聴ではないかと思ってしまう。
ぎゅうっと抱きしめられた腕の力は強すぎるというわけではないが、テツヤがどれだけ身を捩ろうとも逃げられない程度には力が込められている。
だが、テツヤは逃げるつもりはなかった。
ゆっくりと手を伸ばして、赤司帝の背をあやすように叩く。そうすると更に甘えるようにぐいぐいと首筋に顔を押し付けてくるものだから、何となくその仕草が可愛くてテツヤは赤司帝の気が済むまで優しく背を叩き続けた。
そうしてその体勢のままポツリポツリと話し始めた言葉は、まず先日の無体の非礼からだった。

曰く、本気で抱き潰す気はなかったこと、ようやく逢えた喜びから自分でも止めることが出来なくて後で後悔したこと、テツヤが元気になってくれて本当によかったということ。
そして何よりも、お義兄さん怖い、マジ怖い、何なのあれ人間じゃないよね化け物だよね、むしろ悪鬼羅刹だよね云々。
確かに激怒した辰也はテツヤでも号泣したくなるほど恐ろしいが、そこまで怒らせたのは完全に赤司帝が悪い。テツヤには頑張れとしか言えない。多分きっと許してもらえる日もくるよ、いつになるかわからないけれど、とは流石に言えなかったが。

「不自由な思いをさせるとは思う。だが、3年我慢して欲しい」
「3年、ですか?」

突然言われた言葉にテツヤはきょとんと赤司帝を見上げた。赤司帝は頷いた。

「文で約束した通り、僕なら君を本来の姿に戻すことができる。そのための期間だ。3年あれば全てが整う。それまで僕の妻でいて欲しい」

テツヤが入内を決意した本当の理由は今上帝直々の勅使でもなければ実家の為でもなかった。
勿論それも理由の1つではあるが、本気で嫌なら髪を切るなり自害するなり方法はあったのだ。
元々病弱と評判の黒子姫だ。入内を前に急病で亡くなっても不思議ではない。
髪を切って実家ゆかりの荘園にでも逃げ込めば見つかる可能性は低い。何しろテツヤは男なのだから。
それをしなかったのは、ある夜届けられた赤司帝からの文が原因だった。
その文には突然の入内話を詫びると同時に、テツヤを庇護しつつ今の姫としての生活を終了させることを約束するというものだった。
テツヤの正体を知っている相手であるため正体が露呈する不安もなく、実家に被害が出るわけでもなく、尚且つ長年頭を悩ませ続けている求婚問題も片が付くということでテツヤは入内を決めたのだ。
そのことについて話をしなければと思っていたのだが、何しろ入内翌日からテツヤは瀕死の危機に陥ってしまったし、その後は激怒した辰也が終始側にいたため話をするどころではなかった。
そのため重要な話だというのに今まで一度も切り出せなかったのだ。
テツヤは赤司帝の視線をしっかりと受け止め頷いた。
赤司帝は嬉しそうに笑い、更に腕に力を籠めた。

「あぁ、でも」
「―――何ですか?」
「妻でなくなっても、君を手放すことができるかどうか、約束できないな」
「主上……」

言葉と共に落とされた口づけに、テツヤは頬を染めた。

嫌でないと気づいた時点で既に後戻りできない場所にいるのだということに気が付くのは、それから数日後のことである。


  • 14.06.14