弘徽殿女御快癒の報告から数か月、慌ただしい毎日を過ごしていたらしく気が付けば世間はすっかり年末である。
その間に相撲節があったり月見の宴があったり菊見の宴があったり残菊の宴があったりしたのだが、宮中の正式な行事にも関わらず新しく女御となったテツヤは全て欠席だった。
これはテツヤの意志や体調不良が原因というわけではなく、むしろテツヤ自身は正式な行事には出席すると言っていたのだが赤司帝によって却下されていた。
理由は表向きは蒲柳の質である女御の御身を慮ってのこととあるが、誰もが女御の欠席の本当の理由を知っていた。
つまり、多くの公達が集う宴に愛しい女御を連れ出して他の男の目に触れることを嫌がったのだ。
面と向かって言われたわけではないが、女御の出席を却下した時の眼差しが言葉以上に理由を告げていたので間違いないだろう。
何せ赤司帝本人は以前、公達の集う場で、
「朕の女御に対して不埒な目を向ける輩がいる。どうして表に出せようか」
とあからさまな牽制をしたことがあった。
ちなみにこの発言は何も入内前に女御に多くの公達が求婚をしていたからという理由だけではない。
弘徽殿女御が入内してからふた月後、帝の妻となっても諦めないと戯けたことをほざいた数名の公達が、ある嵐の夜に不埒な目的で弘徽殿に忍び込んだからである。
しかも体調が優れず赤司帝すら夜のお召しを控えていた日のことだった。
幸いにも傍にいた女房が女御の寝所を窺っている不審者に気付いて騒ぎ立てたため指一本触れられることなく未遂に終わったが、その事実を知った女御が心労で倒れたことが帝の知るところとなり事態は宮中を巻き込んでの大騒動となってしまった。
赤司帝と弘徽殿女御の仲睦まじさは宮中どころか市井でも評判に成程だというのに、そんな二人の邪魔をするかのようにやってきた夜這い未遂男共の末路がどうなったか言うまでもないだろう。
夜這い未遂を起こした公達は除籍の上、宮中追放。裏で男をけしかけた者は数日から数か月の謹慎処分となり出世争いから離脱。
その後は宮中の空気にいたたまれずに出家したり出奔したりする者が続出したのだが、その多くが女御の実家である左大臣家の門前で涙目になりながら土下座をするという異常事態が見られた。
誰の怒りを一番恐れているかが如実にわかった瞬間である。
勿論、恐怖の対象として君臨していた辰也はそんな土下座男など一顧だにするそぶりもみせず、数日の後には男たちの存在は都から消えていたらしい。自主的かどうかは不明のままである。
実はこの事件、己の娘を後宮へ入内させようと息巻いていた中納言やら参議やらがぞろぞろ検挙されたのだが、流石に大臣クラスは関与していなかった。
身分が高ければ高いほど赤司帝と接する機会は多く、多少の知恵が回る人物ならば今上帝を怒らせることが得策ではないと理解できるため、賢明な大臣たちはその不埒な計画に参加しなかっただけである。
まあそのうち蜜月期間も終わるから折を見て娘の入内を進めればいいやと考える方が万倍も得策であることは間違いない。
だが、赤司帝と弘徽殿女御の蜜月期間が年を越えても変わることなく、更に翌年もそのまた翌年も周囲が赤面するほど仲睦まじい様子を見せ続けるため、新たな女御入内など口に出せる雰囲気でなかったことだけは彼らにとって誤算だった。
そんなわけでテツヤはほとんど全ての宮中行事を欠席したのだが、新嘗祭とその翌日の豊明節会にだけは参加した。
何せ生まれた時から起きているより寝所で横になっている期間の方が長かったテツヤである。
ほんの少しの楽しみと言えば兄から聞かされる宮中行事の数々と市井で行われる祭くらいのものだ。
忙しい兄にせがんで市井に下りたのは数回、それも途中で体調が悪くなったために祭を見物できたのはほんの僅かな時間でしかなかった。
そのため、一度で良いからゆっくりと宴なり祭を見てみたかったのだ。
しかもに新嘗祭は一年でも重要な神事である。その後の豊明節会が盛大な宴であることは兄から聞いていたため、どうしても参加したいと珍しく我儘を言った。
とはいえ可愛い弟からのおねだりに実兄である辰也はあっさり陥落、夫である赤司帝も最初こそ渋っていたものの、「僕とテツヤの仲睦まじさを世間に知らしめる良い好機」とか思い直して出席が許可されたのである。
結果として生まれて初めての新嘗祭にテツヤは終始上機嫌、そんなテツヤの笑顔を見て赤司帝もご機嫌、テツヤの隣で説明していた辰也も弟の楽しそうな様子にご満悦で、宴は大盛況のまま終了した。
翌日、はしゃぎ過ぎたテツヤが微熱を出して赤司帝が公務をすっぽかして見舞いに駆けつける騒動が起きたが、今までの騒動に比べれば可愛いものである。ちなみにテツヤの熱は翌日にはすっかり治った。
そんな日々を過ごして宮中にもすっかり慣れたテツヤであったが、基本的に引きこもりの女御生活はやはり退屈で今日も今日とて兄や夫から差し入れられた書物に目を通していた。
女御になって何が良かったと言えば、数多の公達から求婚の文が送られてくることがなくなったことと、貴重な文献読み放題ということである。
唐代に書かれたという歴史書や漢時代の文献などが書庫にゴロゴロ眠っているのである。
赤司帝から書庫を好きに利用して良いと言われていたため、ここぞとばかりに読み漁っている。
とはいえ書庫は弘徽殿から離れているために、辰也が適当に見繕ってきてくれるのだが。
辰也はテツヤの好みを熟知しているので外れがないため不満はない。
更には暇つぶしも兼ねて漢語で書かれている貴重な文献を自国の文字に翻訳してみたところ、図書寮でも難関過ぎて持て余していた書物らしく大層感謝された。
その後、「良かったらこれも翻訳していただけると有難いのですが」と古い文献が届けられた。
丁度翻訳の楽しさに目覚めていたテツヤは嬉々としてこれを快諾したため、図書寮と、図書寮を管轄する中務省では弘徽殿女御の評判はすこぶるよろしい。
翻訳された文章の読みやすさ、文字の綺麗さ、更には返却されてくる書物の扱いの丁寧さなどから中務省での女御の人気は更に上がっていく。ごく一部で囁かれる女御の批判なども中務省では一切見られない。女性が才をひけらかすことに批判が多い中でまさかの高評価に一番驚いているのは女御であるテツヤ自身である。
ちなみにテツヤが異国語に堪能なのは、引きこもり生活による鬱憤晴らしのために書物を読み漁った結果である。父も兄も語学に堪能なのが幸いして、今では日常会話すら余裕で出来る程だということはあまり知られていない。何せ完全引きこもり姫君生活だったのだ。今までは宝の持ち腐れだったのだが、これからは活用できそうで何よりである。
日中は読書と翻訳と時々執筆に時間を費やし、夜は赤司帝と仲睦まじい時間を過ごす。
そんな一日に疑問を持たなくなって久しいが、この快適な日常を送る上で犠牲になっている人がいることを忘れてはならない。
誰がと言えばたった一人しかいないだろう。
「やあ、敦。今宵は良い月夜になりそうだ。ちょっと一緒に夜盗狩りに行かないかい?」
「それ近衛府の仕事じゃないよね? 夜盗って凶暴だし危ないし、大人しく検非違使に任せなよ」
「そうか。最近女御と一緒に過ごせないから鬱憤が溜まっていてね。身体を動かして発散させられないとなると、女御に会うしか方法はないな。あぁ、でも俺の可愛い可愛い妹姫が俺以外の男と一緒にいるなんて不愉快だからちょっとばかり意地悪しちゃうかもしれ―――」
「あああぁぁぁ!! わかったから! どこでも付き合うからそれだけはやめて!」
「聞き分けの良い子は好きだよ。じゃあちょっと遠出して、吉野当たりの盗賊を殲滅してこようか」
「室ちん物騒! もうやだ、この人」
紫原の君である。
赤司の側近である紫原の君と辰也は接点が多い。
何せ辰也が溺愛する弟が赤司の妻なのだ。
赤司帝がテツヤに会いに来れば紫原も当然ついてくる。そして弘徽殿にはもれなく辰也がいる。
お前仕事はどうしたんだと言いたいが、それを言えば職務を放って弘徽殿にやってきている赤司帝にも同じことが言えてしまうためぐっと我慢である。
何せ紫原が辰也に嫌味の一つでも言おうものなら、その百倍となって赤司帝に降りかかるのだ。
入内当日の「女御瀕死事件」のせいで辰也に強く出られない赤司帝は雨霰と降り注ぐ辰也の暴言を甘んじて受けるしかない。
一度反論してはみたものの、辰也はテツヤの前で「主上に仕事をしていただきたいと提言したら怒られてしまったよ。俺は国家のために言っただけだったんだけどな……」とか寂しそうに笑って言ったらしく、その夜テツナ直々に「お仕事をしないで女御にうつつを抜かすのって良くないと思います。しばらく来ないでください」とか言われて盛大に凹んだのだ。
辰也はテツヤを味方につけているので赤司に勝ち目はないのだ。
そんなわけで紫原は辰也に逆らうことはできない。幸いなのは紫原自体が辰也と共に行動することを嫌だと思っていないことだろう。
たとえ連れていかれるのが都を騒がす凶悪な盗賊集団だったり、瀬戸内の海を荒らしまわる海賊集団だったり、百鬼夜行の一団だったりするのだが、日頃の鬱憤を発散するかのように斬って斬って斬りまくる辰也がとっても頼りになるので怖くはない。最近自身の常識が麻痺してきている気がしなくもないが考えたら負けである。
余談だが辰也は何も以前からこんな危ないことをしていたわけではない。
過去にも市井に下りて夜盗を退治したことはあったが、好んで盗賊退治に回っているのはここ最近のことである。
その原因が可愛い弟の入内にあるのか、それとも可愛い弟を奪われた赤司帝への恨みにあるのか、はたまた単に暴れるのって気分良いよねという感覚なのかは誰にも分からない。
とりあえず良い相棒見つけたぜと、夜な夜な悪者退治に赴いている謎の美形二人組は都でも結構な評判になっているらしい。
「あ、そうだ。吉野に言ったら大五郎に会わせてあげるよ。敦ならきっと仲良くなれると思うな」
「大五郎って、誰?」
「俺の部下。もうすぐ10歳になるツキノワグマだよ」
「本当に勘弁してマジで」
「大丈夫。大五郎は大人しいから。冬眠の邪魔をしたり空腹じゃなければ襲ってこないし、俺には絶対服従だから」
「………室ちんって本当に何者なの?」
◇◆◇ ◇◆◇
そんな感じで紫原の君がドナドナされていくとは露知らず、赤司帝は愛妻との甘い時間を過ごしていた。
宮中に慣れてきたのか徹底した健康管理の賜物か、最近ではテツヤが体調を崩すこともめっきり減って夜のお召しも断られる回数は格段に減ってきた。
とはいえ流石に毎晩コトに及んでいるかと言えばそうではない。赤司帝はともかくテツヤの体力が持たないし、何よりも兄が怖い。
現在では週に二回、もしくは三回程度の呼び出しが精いっぱいである。
それ以上はテツヤにも負担以上に紫原の負担が大きい。
テツヤが後宮に上がってから辰也と紫原が捕らえた夜盗盗賊謀叛人の数は両手で数え切れない。
この調子で行けば都どころか国中から悪人はいなくなるのではないだろうか。
「そうだ、テツヤ。これをあげるよ」
そう言って渡されたのは一枚の直衣だった。
表地が白、裏地が赤の所謂「桜重(さくらかさね)」と呼ばれる色合いは、春に着用する色だ。
他に下袴と指貫や烏帽子もついており、きちんとした貴族男子の正装一式が揃えられていた。
何よりも男物である。正真正銘の男児であるテツヤだが今のところ一枚も持っていない衣装にテツヤが不思議そうに首を傾げる。
テツヤに贈るのならば女性用の袿か十二単ではないかと思っているらしい。
自分は男だと自覚しているのに男物の衣装を貰って違和感を感じることが可笑しいことには気づいていないようである。
赤司はくすりと笑ってテツヤの手から直衣を取り上げると、単衣姿の肩にそっとそれを羽織らせた。
春の色彩の中でも明るい色彩を選んだせいか、色白のテツヤには良く似合っている。
白い直衣に空色の髪が映えて、己の見立ては間違っていないと自画自賛した。
「うん、良く似合っている」
「あ、ありがとうございます。でも、これは……?」
「君も年が明ければ17歳だ。そろそろ本来の姿に戻る練習をしても良いだろう」
そう、テツヤは来年になれば17歳になる。公達として立派に働いているのが当然の年だ。
貴族の子弟は大抵10代前半で元服をする。稀に遅い者もいるがそれでも14〜15歳で元服を済ませ出仕するのが常識だ。
17歳ともなれば縁談話の一つや二つ起きても不思議ではない。
赤司の同年代の公達たちは20歳を超えるというのに結婚している者は稀だが、これは異例中の異例であって貴族の子弟ならば身分の釣り合う姫君の一人や二人と結婚していても可笑しくないのだ。
尤も彼らが総じて独身なのは、左大臣家の黒子姫――すなわちテツヤに求婚していたからに他ならないのだが、それはそれである。
赤司帝はテツヤを女御として迎え入れる際に条件を出していた。
それは数年女御の座についていてくれればテツヤを本来の性―――すなわち男として人生を送れるように手配してくれるというものである。
この申し出でテツヤは入内を承諾した。
実は帝の威光を嵩に着た入内ではなく、ギブアンドテイクの関係であったのだ。
とはいえ赤司帝がテツヤを気に入ったという前提の下で出された条件なのだが。
女御として過ごして半年弱。
まだ先は長いけれどテツヤを一人前の公達に育てるにはそろそろ準備が必要である。
特に宮中での作法とか公達としての立ち居振る舞いとか。
見本としては兄である宰相中将がいるが、彼をそのまま見習っては大変なことになるため確かに赤司の言う通り練習は必要だ。
そのための直衣なのだろう。
言われるまま袖を通してみる。
姫君の衣装と違い戸惑ったが赤司に教えられるままに身に着けたそれは、自分で思う以上にテツヤに似合っていた。勿論赤司が似合うものを選んでくれたということもあるのだろうが、女顔だと思っていた自分でもきちんと男物の衣装が似合うことが証明されたのだ。――ただし、髪が長いため姫君の男装だと言われてしまう可能性は否定できない。
立ち上がっても尚床にうねる己の髪を見遣り、テツヤは小さくため息をつく。
この時代女性の髪は長いのが当然で、自分の背丈以上の長さがあるのは普通だ。
公達はそこまで長くない。結ってある髪を解いたところで背を覆う程度が関の山だ。
テツヤが公達の恰好をするには髪を切るしかない。だがそうすると姫には戻れない。女性の髪が短いのは出家した場合だけなのだから。
女御であるテツヤが出家するわけにはいかない。女性が出家を選ぶのは世を儚んだ場合か、配偶者が亡くなった時くらいのものである。
髪を切っただけで赤司帝に対する不満があると見なされ、下手をすれば罪人として処刑されるし、最悪の場合は一家断絶になる。女御が突然出家するのは大問題なのだ。
テツヤとしては長くて重い髪などばっさり切ったところで何の未練もないが、そういう理由から髪を切るのは躊躇われる。
さてどうしたものかと首を捻るテツヤの目の前に赤司帝の手が伸びてテツヤの髪をさらりと撫でた。
「切るには惜しい美しさだが」
そう言って感触を確かめるように絹糸のような髪に指を絡め、絡むことなく流れる髪に口づけを贈る。
「後で髢を作らせよう。この長さなら人に見られても違和感ないものが作れるだろう」
髢(かもじ)とは付け毛のようなものだ。豊かな髪に恵まれない女性が他人の髪の毛を買って地毛のように装うことがあることは物語に描かれているのでテツヤも知っていた。
テツヤの髪は毛艶も量も上質だ。正確に測ったことはないが、おそらく己の身長の三倍はあるのではないだろうか。
これだけの量があれば傍から見て不自然でないものが作れる。それこそ他の誰にも悟らせないだけの精巧なものが作れるだろう。
「来年の春から少しずつ始めよう。まずは後宮を抜け出して都の市を見物に行くというのはどうだろう」
「それは良い提案ですね」
深夜の帳が下りた頃、そう言って2人は悪戯を企む子供のように顔を見合わせて笑った。
- 14.06.14