その姿を見かけた瞬間、紫原の足が止まった。
宮中の中枢、内裏。
主だった公達が参内して与えられた仕事をこなすこの場所に彼がいるのは必然。
更にはその足が後宮へと向かうのもこれまたごく当たり前の光景だった。
内裏にあるだだっ広い後宮には、現在唯一の女御が存在している。
今上陛下が溺愛していると噂の弘徽殿の女御――――黒子姫。
赤司帝が「妻は彼女一人でいい」と断言するほどの寵愛ぶりは一部の心無い人たちから「楊貴妃のようだ」と囁かれるほど。
ただし弘徽殿女御は政治には一切口を出さず、それどころか必要最低限以外は弘徽殿から出てこないなど表舞台には全く姿を見せようとしないため、楊貴妃のような悪評は今のところ上がっていない。
それどころか多くの公達が今をときめく女御に近づこうと策を巡らせているのだが、そんなことは一切構わずに弘徽殿は数名を除いて男子禁制である。
そのため弘徽殿に向かう公達の姿は少ない。
紫原が知る限りで片手に届くか届かないかという程だ。
そんな弘徽殿に向かおうとしているのは、その数少ない例外である氷室の君。
弘徽殿女御の兄である彼は無条件で弘徽殿への訪問を許されているのだ。ある意味、夫である赤司帝よりも優遇されていると言って良い。
氷室の君――辰也が家族想いなのは有名な話である。
そもそも辰也の父親である左大臣は、大貴族だというのに側室も愛妾も持たずに正室一筋。結婚25年を経た今でも新婚よろしく愛妻家ぶりを発揮しているし、2人の子供との仲も良好で絵に描いたような幸せ家族である。
そんな両親を見て育った辰也が家族大好きになるのは当然だろう。
特に病弱な妹姫に対しては過保護というレベルだ。
最も有名なのは青峰の君よる『夜這い未遂事件』での惨状だが、その過保護ぶりはは妹姫の夫である赤司帝にも如何なく発揮されていて、ちょっとした想いの暴走から女御が瀕死の重傷を負ってしまったせいで赤司帝に対する辰也の対応は酷いものである。
何が酷いって、身分の差とか立場の違いとか全く無視した毒舌のオンパレードに、聞いていた年配者たちから「もうやめたげてよぅ」と泣きが入った程である。
否と言わせぬ眼力で帝を追い詰める姿は夢に出たとまで言われる始末。
尤も辰也に言わせれば「叩き斬らないだけ我慢していると思うよ」とのことらしいが、どちらにしろ他の人がやったら一族郎党除籍は間違いなしの重罪レベルであることは間違いない。
そんな針の筵のような毒舌も、最近ではなりを潜めて久しい。
理由は勿論、弘徽殿女御が健康を取り戻したからである。
倒れてから目を覚ますまで三日、熱が下がるまで更に一週間、ようやく布団から起き上がれるようになったのは実に半月かかった。
病弱という触れ込みは嘘ではなかったのだと誰もが納得する一方、妹姫溺愛の兄の怒りに触れることがどれほど恐ろしいことか思い知らされた事件である。
これは青峰の君が問答無用で斬りかかられたのも納得である。むしろよくぞ無傷で済んだと労いたい。
女御が快癒するまでの半月間、辰也の赤司帝に対する風当たりは、それはもう酷いものだった。
「主上は国の中枢であらせられますから、一女御の看病などといった雑事に御手を煩わせるわけには参りませぬ。ここは家族であり 生 ま れ た 時 か ら 世話を焼いていた私が行うのが最適かと。主上におかれましてはどうぞ、国家の民への御慈悲と深い情けで執務にお取りかかられますようお願い申し上げます」
と、まぁ響きは良いが、要は、
「可愛い可愛い妹姫の世話は俺一人の特権なんだよ。お前は国家国民のために馬車馬のように働きやがれ」
と言っているも同然だった。行間を読むことに長けている日本人には余裕で脳内変換可能だった。
笑顔でそんなことを言ってのける氷室の君恐ろしいと、最近では宰相中将最強説まで出てくる程だが、弘徽殿女御快癒と同時にそんな棘棘した空気も無くなり宮中は平和を取り戻した、ように見えた。
唯一、赤司帝と弘徽殿女御の逢瀬が制限されている以外は。
また帝が暴挙に及んで女御が体調を崩されてはたまらないというのが表向きの内容だが、その判断を下しているのが典医ではなく辰也である当たり、彼は着実に後宮で権力を手にしているようである(対赤司帝)。
弘徽殿に仕える女房は元々左大臣家に仕えている女房たちなので帝より辰也の命に従う。
つまり、赤司帝が帝の権力を行使して妻である女御に逢おうとしても門前払いなのだ。
あれ、これって良いんだろうかとか思いつつも、「女御様のお身体を考慮して」とか言われたら従うしかないのが前科持ちの哀しいサガである。
そんなわけで赤司帝は未だに初夜以外で妻に逢えないのだ。
昼間の対面は許可されている。几帳越しという制限がつくが。
あれ、これって良いんだr(以下略)。
ようやく手にした愛妻といちゃつけない赤司帝のストレスはこのところ酷い。
とはいえ政務に影響が出るような事態には陥っていないが、そろそろ女御との逢瀬を解禁にしてもらえないといらない場所まで被害が出るような気がしてならない。
特に青峰の君とか黄瀬の君とか緑間の君だとか、有能であるが故に赤司帝の側近となった若手出世頭の胃袋とか健康とか体調とかにである。
では、どうするか。
一番の解決は帝が女御と心置きなく逢えるための状況改善である。
白羽の矢が立ったのは紫原だった。
紫原は赤司帝の腹心だし幼馴染だしということで、赤司帝の側近改めキセキ世代から一任されたのだが、紫原だって好きこのんで引き受けたい役目ではない。
だって氷室の君怖い。
初対面で瞳孔の開いた笑顔を見せられた紫原は、実はちょっとだけ辰也に対してトラウマ的な何かを芽生えさせてしまったのだ。
野生動物の本能と言えば良いだろう、逆らったら最期と脳内で警鐘が鳴ったのを良く覚えている。
だからと言って役目を放棄するわけにもいかない。赤司帝に逆らっても人生が終わる。まぁ、紫原には激甘な赤司帝が罰を与えるとは思えないが、失望させてしまうのはいただけない。
ということで歩いている氷室の君に向かって根性を振り絞って男にしては白くて細い彼の手首を掴んだ。
「ねえ、ちょっと付き合ってくんない?」
我ながら頑張った。
だけどちょっとだけ言葉選びを間違ったのではないかなと思ったのは、振り返った視線が一瞬だけ不快そうに歪められたのを確認してしまったからだ。
骨は拾ってね、と脳内の赤司帝にお願いして、紫原は思ったよりも穏やかに後をついてくる辰也をある場所へと誘導したのである。
◇◆◇ ◇◆◇
辰也の腕を掴み、半ば引きずるような形で連れてきたのは、内裏の端にある宜陽殿の裏。
状況だけ見れば気に入らない人物を脅すような場面だが、当事者である紫原の心臓は今にも破裂せんばかりである。
だって相手は最強説すら出ている氷室の君。
初対面で恐怖を刻み込まれた紫原には荷が重い相手である。だが連れてきたのは自分なので逃げられない。
救いは彼が大人しいことだろう。
彼が赤司帝を弾劾していた時のような笑顔で「どいてもらえないかな」とか言われようものなら土下座で謝罪する自信はあるが、今のところその様子は見られないので何とか虚勢を保っていられる。
「それで、話って?」
柔和な笑顔で紫原を促す姿は流石当代一の公達と噂されるだけのことはある。
内裏で働く女房などはこの笑顔を見ただけで腰砕けになるのだろうとかどうでも良いことを考えていた紫原は、目の前に白い何かが通り過ぎ、それが己の額に触れるまで何が起こっているか分からなかった。
「……熱はないな」
「…………何、してんの?」
「ん? 熱をね、計ってるんだよ。君、ちょっと顔色悪いから」
紫原の額に右手を当て、反対の手で己の額に触れている姿は見たことがない。
顔色が悪いのは辰也のせいなのだが、多分言ったところでわからないだろう。今のところ彼は紫原に何もしていないのだから。
思っていたよりも低い体温が紫原の額に触れ、そして何事もなかったかのように離れていく。
それを茫然と見送った紫原は再び促されるまで己が何で彼を呼び出したかという重要なことをすっかり忘れてしまっていた。
手が触れた時に袖からふわりと薫る荷葉の匂いがあまりにも芳しかったからでもあるが、赤司帝の側近である自分に辰也が優しく接してくれるとは想像すらしていなかったからだ。
「それで、俺に話って何かな?」
「…あっ、あのさ、赤ちん――――主上のことなんだけどさ」
「―――うん」
「流石にちょっと参っているっていうか、奥さんに逢えなくて寂しがっているって言うか、俺としてもちょっとやり過ぎなんじゃないかって思うんだよね」
「……それで?」
「女御も元気になったんだから、ちょっとくらい夫婦の会話っての? させてあげてもいいんじゃないの?」
紫原がどうにか逆鱗に触れないように言葉を選びながら話している間、辰也は懐から取り出した扇子を開いたり閉じたりしている。
一応話は聞いているみたいだけれど、真剣に対応するつもりがないのが見え見えでちょっとだけ悲しくなる。
先程見せていた優しい笑顔も今は貼り付いた社交辞令のような表情になっているのも紫原にとっては面白くない。
とはいえ辰也が満面の笑みを見せる時は弘徽殿女御の前だけなので高望みはしないが。
徐々に声が小さくなっていき背が丸くなっていく姿を視界に入れて、辰也は扇子で隠した口元にひっそりと笑みを浮かべる。
紫原が辰也を呼び出した理由は最初からわかっている。
そもそも彼と自分の接点はそれしかないからだ。
どうせ女御との接触を解禁してやれとかいうんだろうと思いつつも彼の誘いに乗ったのは、個人的に紫原に興味があったからだ。
平均的な身長よりも頭一つ大きい彼は一見すると威圧感があるものの、行動や話し方などは非常に緩くむしろ愛らしさすら感じる。
特に今のようにおどおどと話す姿が大きいのにまるで小動物みたいで、何この可愛い生き物と辰也は脳内で叫んでいた。
実は辰也は無類の動物好きだ。
動物なら種類は問わず、手のひらサイズの雲雀から月の輪グマまで幅広い。
その中でも特に好きなのは小動物だ。
だからそんな愛らしい小動物を彷彿とさせる人間も実はかなり好きである。
弟であるテツヤは気紛れな子猫みたいだし、従者の中で一番気に入っている大我も、あの体格なのに中身は大食漢な栗鼠のよう。大我の妹である小桃は見るからに子兎だ。
そんな彼らに負けず劣らず、目の前の紫原も大きな体躯に反して中身は小動物そのもの。
彼を動物に例えると何だろうとか考えている辰也の態度が聞く姿勢には相応しくないもので、そのせいでしょんぼりしていく目の前の姿は何とも言えず可愛い。
そういえば以前手懐けた野生の熊がこんな状態だったなとか考えている辰也には、おそらく紫原の気持ちはまったく伝わっていないだろう。
ちなみに野生の熊は手懐けたというよりは自然界の摂理に従って物理的に上下関係を叩き込んだだけである。
金太郎さながら熊にまたがって遊んでいた辰也の姿を見て、目を輝かせたのはテツヤだけだったとだけ伝えておく。
――話が逸れたが、つまり辰也は紫原をお気に入りに認定していた。
なので聞いていないようでもしっかり話は聞いているし、多少の我儘程度なら叶えてあげようかなぁと思ってもいた。
だが、物には限度があるのである。
そして辰也の堪忍袋を結んでいる紐は意外と脆い。
つまり、と辰也はまだ何やら言い募ろうとしている紫原の言葉を断ち切って静かに問いかけた。
「つまり、君は俺に女御とは金輪際会うなと言いたいのかな」
「そっ、そこまでは言ってねーし。ただ、女御はもう主上の北の方なんだから、いくら兄君だからって御簾も几帳も隔てないでいちゃつくのはおかしいって言って――――っ?!」
言いかけた言葉が喉の奥で凍りついた。
柔和な笑顔を浮かべていた表情はそのまま、ただその瞳がすっと細められたと思った瞬間、紫原の喉元には先程まで辰也が弄んでいた扇が付きつけられていた。
武術には自信があったはずなのにまったく反応できなかったどころか気づきもしなかった己の失態に驚くと同時に、まるで暗殺者並みの素早い行動に改めて恐怖が背筋を這いあがってくる。
ひたり、と硬質な感触を与える扇子は的確に紫原の急所に添えられていて、これが短刀であったなら紫原はこの瞬間に絶命している。
「ねえ、紫の君」
「………っ、な、何?!」
「俺はただ病弱な妹姫が心配なだけなんだ。家族とはいえ嫁いだ妹姫と一対一で会うのがよろしくないことくらい重々承知さ。俺だってそんな非常識な真似はしたくないよ。だけどさ、仕方ないだろう」
大切な妹を殺されそうになった挙句、殺人未遂犯と2人きりにさせる身内がどこにいるんだい?
まるで自然の摂理かのように言い放つ辰也に、紫原は言い返すことができなかった。
「実家に連れ戻さないだけでも俺は我慢していると思わないかい?」
紫原はこくこくと頷いた。
確かにこの件に関しては全面的に赤司帝が悪い。
病弱で嫁がせたところで世継ぎを産むことなどできないと言われているほどの姫を無理やり入内させただけでも印象悪いのに、相手の体調を気遣うことなく無体を強いたせいで生命の危険にすら及ばせてしまったのだから。
尤もテツヤは姫として育てられてはいるもののれっきとした男性なので、どんなに健康だろうと世継ぎを産むことは物理的に不可能なのだが。
妹姫を溺愛していると公言している辰也が怒るのも当然だろう。
この件に関してはテツヤに片恋をしていた青峰の君や黄瀬の君からも批判的な意見が出されている程だ。
どこをどう頑張っても赤司帝が一方的に悪いのだから家族思いの辰也の怒りもごもっともなのだが、それにしてもちょっと忠告しただけで殺気を飛ばされるとか何これ本気で怖い。
下手に反論でもしようものなら扇子でもあっさり殺されてしまうのではないかという殺気に紫原は涙目だ。
だから嫌だって言ったじゃん赤ちんの馬鹿馬鹿、と脳内で良い笑顔を浮かべる主君兼幼馴染の赤司帝に八つ当たりをしながら、それでも何とか最後の矜持を振り絞って崩れ落ちるという醜態だけは晒さずにいたいところである。
それにしてもこの人の殺気本気で怖い。
柔和な貴公子って誰が言ってたんだろう、目線一つでどんな凶悪な強盗団だって一網打尽にしてしまいそうだ。
実際辰也の眼力及び殺気は野生の熊ですら逃げ出す程度なので紫原の感想はあながち間違っていない。
蛇に睨まれた蛙、もしくは猛禽類に獲物認定された小動物の如き心境で、紫原は辰也を見下ろす。
相変らず綺麗な笑顔、だが浮かんでいる殺気は先程はなかったものだ。
少し離れた場所で辰也を見て頬を赤らめている女房がいるが、羨ましいとか言うなら交代して欲しい、いやマジで。
「まぁ、俺も鬼じゃないんだ。横暴な上司に無理難題を言い渡された可哀相な側近を甚振る趣味はないんでね、このくらいにしてあげるよ」
「横暴な上司って――――」
一応この国の最高権力者なんだけど、という言葉は呑み込んだ。賢明な判断である。
辰也は紫原の頸動脈に当てていた扇子を引くと、口元に当てて優雅に微笑んだ。
殺気は綺麗に消えている。本当に見事なほどに。
「今日は君の尽力に免じて引き下がってあげよう」
「え? ほんと?」
「あぁ」
「ありが――――」
「ただし」
頑張った、俺頑張ったと心の中で号泣しながら感謝の言葉を紡ごうとした紫原の言葉を、辰也の声が遮った。
向けられる瞳に強い光が宿っているのを見つけて肩を揺らした紫原に、甘く蕩けるような声で辰也は彼の耳にそっと囁いた。
「こんな拙策は二度と通用しないと、君のお友達たちにきちんと告げておくんだね」
凍りついた紫原の頭を優しく撫でて艶然と笑う辰也に、、これキセキ終了のお知らせ?とか思った紫原は悪くない。
紫原に辰也を足止めしておいて、弘徽殿に一人でいるテツヤの下に赤司帝がお忍びで出かけていることなどお見通しだったらしい。勿論手引きしたのは紫原以外のキセキである。
確かにここは宜陽殿の外れ。後宮からはかなりの距離がある。
清涼殿から弘徽殿に向かおうとしていた辰也を引きずって連れてくるには少々どころではなく遠いため不自然と言えば不自然だ。
特に紫原と辰也はそれほど親しい関係ではないため、その意図がどこにあるかなんて辰也にはお見通しだったのだろう。そもそも紫原は赤司帝のため以外には動かない。
直衣を翻して去っていく辰也の背中を見送って、紫原は大きくため息をついた。
間違いなく、今日だけで寿命が半年は縮んだ。
何あの怖い生き物、と紫原は小さく呟く。
身長だって平均よりは高いけれど紫原より遥かに小さく、体格も決して恵まれているとは言えない細身。
貴族の公達らしいと言えばこれ以上ない程に雅やかだったくせに、目線一つで武士にも負けない迫力を出すなんて。
悪鬼顔負けの迫力のくせに、見た目は天女の如く美しいとか、本気で反則である。
あんなに怖かったのに、それでもまた話をしたいと思う自分が不思議だった。
男も女の狂わせる人たらし、氷室の君。
彼がそう呼ばれる本当の意味を、ようやく理解した。
「……室ちんの、馬鹿」
どうやら自分もあの人たらしにすっかり参ってしまったようである。
- 13.08.13