水無月の吉日。
左大臣家の姫が今上帝の元へ入内した。
40人の女房と数々の調度品を抱えた随身が列を作って紫宸殿へと向かう様は正に圧巻の一言で、季節の花に飾られた豪奢な女車がゆっくりと内裏へ消えていく様を見て誰もが目を綻ばせた。
若く美しい帝の下に初めて女御が入内したのだ。
その相手が即位前から懇意にしていた姫君で、更に相手は宮中でも二大美女と評されるほど美しい姫君なのだから民が喜ぶのは当然である。
色とりどりの衣装に身を包んだ女房の美しさ、一向に途絶えることのない牛車の数、更には女御を警護する若き公達の凛々しさなど、絵巻物もかくやと言うほどの美麗さに、民は勿論、見学に来ていた多くの貴族もうっとりとため息を零した。
いつかは己の手に入れたいと願っていた高嶺の花が嫁ぐというのは寂しいものだが、帝が相手では反対などできるはずもない。
多くの公達が涙を呑み、それでも姫君の入内を祝おうと列を為している。
その中には求婚を断られた公達も多くいた。むしろ断られた公達ばかりである。
誰もが未練がましそうに姫の乗る牛車を見遣り、牛車から零れる鮮やかな衣の襲に姿さえ見ることの敵わなかった幻の姫を想って悔し涙にくれていた。
黄瀬の君もその一人である。
「黒子っち……」
実兄である氷室の君に護衛されながらゆっくりと進んでいく牛車を眺め、黄瀬の君は最愛の姫の名を呟いた。
数多の浮名を流した恋多き男と言われる黄瀬の君だが、黒子姫に対しては驚くほどに誠実で純情だった。
普段ならば既成事実を作ってしまえばこっちのものと、宮家の姫であろうと構わずに夜這いを仕掛けていたというのに、黒子姫にだけは一貫して真摯な態度を取り続けていたのだ。
理由は簡単、黒子姫が黄瀬の君の初恋の相手だからである。
黄瀬が黒子姫の噂を聞いたのは元服して数年が経過した頃のこと。
以前から病弱な姫の存在は聞いたことがあったが、どのような容姿をしているのか、どのような性格をしているのかまったく情報が入ってこなかったため存在を忘れていたのだが、兄である氷室の君が元服して出仕するようになり一度は消えた姫の存在が囁かれるようになったのだ。
憂いを帯びた涼やかな目元、絹糸のような漆黒の髪。
男であると分かっているのに思わずその色香に惑わされそうになるほど艶っぽい辰也の姿を見て、その実妹である黒子姫はどれほど美しいのかと公達は想像した。
母親が違えば似ていない可能性もあるだろう。だが、氷室の君と黒子姫は同母の兄妹である。
父親も当代一と言われた美丈夫で年齢を増して更に魅力的な壮年の公達の姿は年若い公達にとって憧れと言っても良い存在である。
そして母親は美貌の姫として名高い女性だった。
兄の辰也がこれほどの美貌の持ち主なのだから妹である黒子姫も同様だろうと、噂と憶測が勝手に膨らみ気が付けば黒子姫は当代二大美女と呼ばれるようになっていた。
だが黄瀬はその噂を信じてはいなかった。
美形の多い藤原北家の嫡子であるため醜女ということはないだろうが、果たしてそれはもう一人の美女として名高い桃井姫と比べるに値するのだろうかと思ったのである。
黄瀬は桃井姫と面識があった。
残念なことに逢瀬を重ねたことはないが、母が宮家出身であるため幾度か屋敷に赴いたことがあり、その際に御簾越しとはいえ幾度か対面したことがあるからだ。
薄い紗を隔てていても十分過ぎるほどに艶やかな雰囲気は確かに絶世の美女と呼んで差支えのない程だし、彼女以上に美しい女性がいるとは到底思えなかった。
だから二大美女などと称される黒子姫のことも最初は半信半疑だったのだ。
何しろ誰も見たことがない姫君だ。
兄である辰也がいくら美麗であろうともそれが妹姫の容姿と同じだとは限らず、更には病弱であるため肌も髪も艶のないみすぼらしい姿なのではないかと黄瀬が思うのも無理はない。
つまり、黄瀬は最初は黒子姫のことなど本当に何とも思っていなかったのだ。
誰が呼び始めたのか、『白霞の姫』などという大仰な呼称すら眉唾ものだろうと、彼が周囲に漏らしていたのは有名である。
そんな思いが一転したのは、ある花見の宴の時のこと。
権大納言家の藤が見事だということがあり、辰也と年の近い公達が招待された。
同年に元服した黄瀬の君も当然のように招待されており、親しくしていた黄瀬は当然のようにその宴に出席した。
頭上を覆い尽くす藤棚は正に圧巻の一言で、風流な権大納言らしい屋敷の佇まいだと感心しながらも、庭の外れに咲いている小さな花に妙に心を惹かれた。
決して目立たない、だがそれは小さな花だった。
白い花弁は可憐な様子でありながら藤の存在感に隠れるようにひっそりと咲いていた。
そんな姿が不思議と目について、黄瀬はその白い花が多く咲いている場所を求めて庭を歩いていたのだが、気が付いたら屋敷の奥深くにまで入り込んでしまっていたらしく、宴の喧騒がまったく聞こえなくなっていた。
貴族の屋敷はどれも似たような構造になっている。
黄瀬の勘が正しければここは北の対に近いのではないだろうかと推察した。
北の対は権大納言の正室が住まう場所だ。とはいえ彼は正室以外娶っていないので側室はいないのだが。
権大納言は愛妻家でも知られている。
彼に黙って北の対に近づくのは流石に拙いと気づかれないように踵を返した黄瀬は、屋敷の隅に淡い色彩を見つけて足を止めた。
そこにいたのは、小さな少女だった。
白撫子と呼ばれる白と蘇芳色の襲を纏った小柄な少女は、高欄に凭れるように腰を下ろして庭を眺めていた。
12〜13歳程だろうか、裳着を済ませていないのではないかと思う程に小さな少女は、だが恰好を見れば裳着は終えているらしい。もしかしたら幼く見えるだけで、年齢はもう少し上なのかもしれない。
あどけなさを感じる容姿は何とも言えず愛らしく、驚く程に色が白かった。
肌だけでなく髪の色も淡い水色で、何ともいえず存在感が希薄だ。
まるで幽鬼のような――――だがそれにしては清純な空気を纏っているため天女か花精かと見紛う風体に、黄瀬は戻る足もそのままにその場に縫い止められた。
姫君だと思わなかったのは、御簾の外へ出てくるような姫君を知らなかったからである。
少女はぼんやりと庭を眺めていた。正確には庭に咲く白い花を。
儚げなその様子はたった一輪だけ離れた場所に咲いてしまった白い花の化身のようで、見ているだけで胸が締め付けられる寂しさを纏っていた。
少女が花精ではなく人間だと気づいたのは、少女の口から咳払いが聞こえたからだ。
こんこんと辛そうな咳が小さな口から発せられる。
よくよく見れば白い頬はほんのりと上気しており、髪と同色の瞳もうっすらと潤んでいるように見える。
体調が悪いのだろうかと思えば脳裏をよぎるのは、この屋敷に住まう病弱な姫の存在。
季節の節目になると身体が気温の差についていけずに寝込むのだという噂はあながち間違いではなかったのだ。
その証拠のように少女は動くのも億劫そうにくったりと欄干に凭れたまま。
吐息は徐々に荒くなってきている。
このままでは体調は更に悪化するに違いない。だけど姿を見せる勇気は黄瀬になかった。
あまりにも細く儚いため、姿を見せたら消えてしまうのではないかと思ったのだ。
やがて少女は聞こえてきた衣擦れの音に反応したように御簾の中に姿を消した。
時間にしてわずか数分の出来事だろう。
たったそれだけの時間で黄瀬はその少女に魅せられた。
あの少女が『白霞の姫』だと知ったのはそれから半刻ほど後のこと。
その日から、黄瀬の長い片恋が始まったのだ。
文を贈り、滋養のつく食物を贈り、姫に似合いそうな衣を贈った。
結果は惨敗。それでもめげずに求婚を続けたのだが、黄瀬の心を奪った少女は今、こうして他の男の元へ嫁いでいく。
哀しいけれど止める方法はない。
彼女を妻にと願ったのが今上帝である以上、黄瀬にはどうやっても彼女を奪うことはできないのだから。
(黒子っち……)
賑やかな祝福の声に包まれる中、黄瀬の初恋が終わりを告げた。
◇◆◇ ◇◆◇
後宮に入ってはい終わりというわけにはいかないのが婚儀というものである。
とはいえ女御となって何をしなければいけないという決まりはないため、無事に弘徽殿へと入室を済ませたテツヤは脇息に凭れてようやく安堵の息をついた。
「疲れました……」
テツヤは終始牛車に乗っていただけだが、周囲から浴びせられる好奇の視線にテツヤの精神は疲弊する一方だ。
ただでさえ女装姿に羞恥心しかないというのに、今日は更に飾り立て磨き立てられてしまった。
周囲は、やれ絶世の美姫だの傾国だの囃し立てるが、中身が男であるテツヤにとって決してそれは褒め言葉ではない。
一体何の苦行だと言いたいけれど、これから先の人生の方が遥かに苦行なので言葉にするのは止めておいた。――――本気で洒落にならない。
だって、女御である。
女御ということはつまり妻というわけで、当然のことながら夫が存在するのである。
幸いにも夫となる人物は黒子姫の正体を知っている人物だけれども、だからと言って安心できるかと言われれば答えは否だ。
何しろ相手は男であるテツヤを手籠めにした人物である。
妻として嫁いできたテツヤがどのような目に遭うか余裕で想像できてしまう。
女装して男に嫁ぎ、同じ男に妻として抱かれるとか流石に勘弁してもらいたいのだが、おそらくそんなことは言ったところで無駄だろう。
女御の役目は子供を産むことである。
閨の申し出を断れるわけがない。断ったら家が潰れてしまう。
どれだけ励んだところでテツヤでは子供を孕むことができないというのに、それがわかっていて尚このような方法でテツヤを入内させた帝には本気で怒りが湧いてくる。
えぇい、本気でどうしてくれようとか思うのだけれど、仮にも帝に対して何かしでかしたら家が潰れてしまうので我慢するしかない。何て不幸なのだろう。
とりあえず入内して即初夜ということはないはずなので、それまでにどうにかして対策を練るしかない。
幸いにもテツヤは病弱という触れ込みになっているし、幾度かは体調不良で断ることができるだろう。
後は慣れない環境で心が塞いだとか何とか言い繕って実家に戻ったりする方向で行くのも良いかもしれない。
どうせ男の嫁などすぐに飽きるのだ。
何しろテツヤは男を喜ばせる柔らかな胸もなければ子供を孕むこともできないのだ。
帝である彼には後継者が必要だから、少しすれば新たな女御が何人も入内してくるはず。
そうなれば紛い物の姫など不要になるし、ほとぼりが冷めた頃を見計らって尼になると言えば反対されないだろう。
その後は吉野にある実家を譲り受けて隠棲生活を送ればよい。
父も兄も全面的に協力してくれるだろうし、困った時は大我に頼れば良い。
何て素敵な隠棲計画とか脳内で絶賛現実逃避を行っているテツヤは、その人生設計はものの見事に打ち砕かれることになることをまだ知らない。
小桃が用意した薬湯を飲み終えた頃、さやさやと衣擦れの音が聞こえてきた。
おそらく今後の生活について尚侍あたりが挨拶に来たのだろうとテツヤは小桃に器を戻して脇息から身を起こした。
本人が望んだ入内ではないとはいえ、後宮に入ってしまえば実家の威信を背負う立場にあるため立ち居振る舞いには十分に気を付けなければいけない。
テツヤの一挙一動に周囲の目は厳しく光っているのだから。
几帳と扇があるため顔を見られることはないだろうけれど、念のため化粧が崩れていないか確認をして使者を迎えるべく居住まいを正す。
ややして聞こえてくる先触れの声――――と思いきや、聞こえてきたのは女房の悲鳴だった。
「な、何ですか?」
「さぁ……」
辰也が選んだ40人の女房は左大臣家でも優秀だと言われている女人である。
それこそどのような公達がテツヤの寝所に忍び込もうとも、1人を除いて全員撃退するほどに警戒心が強く、多くの公達からの恋の駆け引きもさらりといなす才女たちばかり。
宮中での作法は当然完璧であるはずなのだが、そんな彼女たちが悲鳴を上げるような事態とは一体どういうことかと訝しむテツヤの前に、1人の女房が大慌てで駆け込んできた。
「まぁ、何ですか。姫様の前でみっともない」
眉を顰めたのはテツヤの乳母である芙蓉だ。
彼女は女房達の筆頭格であり、礼儀作法には誰よりも厳しい。
駆け込んできたのが若年の女房ではなくそこそこ年季の入った中堅だったため咎める視線も鋭い。
だが、そんな芙蓉の視線など気にならないのか、女房は息も荒くテツヤの前に膝をつく。
「そ、それどころではございませんっ。姫様―――いえ、女御様! 一大事にございます」
「一大事、ですか?」
「はっ、はい。ただいま――――あぁ、もう、すぐそこまで!」
顔を赤くさせたり青くさせたりと大忙しの女房の声に交じって何やら声が聞こえてくる。
「なりませぬ」だの「ご容赦くださいませ」だの一体何が起きたのかと首を傾げるテツヤの視界に、ちらりと赤い色が映る。
女房たちよりも頭一つほど高い場所にあるその色は乳兄弟のものと良く似ているけれど、彼にしてはその位置は少し低い。
テツヤの知人に赤い髪は少ない。というかそもそも都に赤い髪を持つ人物は珍しいのだ。
大我よりも鮮やかな「赤」を纏う人物をテツヤは一人しか知らない。
そして、彼はこのような無礼を行う権利がある唯一の人物である。
今上帝、赤司の宮、征十郎。
テツヤの夫でありこの国で最も尊い存在である彼は、女房の制止の声に聞く耳も持たずに廊下を歩いてくる。
御簾越しに色違いの瞳と目が合った。
驚愕に目を見開くテツヤとは逆に、相手はにやりとその瞳を細め、そうして御簾を押しのけて室内に乱入した。
咎める声はない。
この国で絶対の存在である帝の行動を止めることなど、一介の女房には許されていないのだ。
「やぁ、黒子姫」
「……ごきげんよう」
「相変らずだね、そのつれない態度。だが、それが良い」
言うなりテツヤの腕を引くなり、帝は紅の引かれたテツヤの唇に己のそれを重ねた。
しっとりと重なり離れると、淡い色合いの紅が男の唇に移る。
ペロリとそれを舐め取った赤司は、突然の暴挙に言葉も出ない新妻を抱き寄せた。
ふわりと鼻腔を擽る荷葉の香と温かい腕に、数か月前の記憶が呼び起こされる。
「逢いたかったよ……テツヤ」
耳元にひっそりと呟けば、瞬時に朱に染まる姿が可愛らしい。
わたわたと視線を彷徨わせるテツヤの頬を挟み、周囲の喧騒を綺麗に無視して帝は再度その愛らしい唇を奪った。
- 13.08.13