「なあ、大我」
悪夢のような勤務時間が終わり、宮中で毎夜のように繰り広げられる宴も予定があると断って牛車に乗り込んだ辰也は、自宅である二条堀川へと差し掛かる道の手前で随身の名を呼んだ。
大我は黒子姫ことテツヤの乳兄弟だが、昼間は出仕できないテツヤの代わりに辰也の随身として辰也に同行することが多い。
というのもテツヤの住まう西の対は圧倒的に女性が多く、お世辞にも洗練されているとは言い難い大我にとっては居心地が悪いらしいのだ。
テツヤの身の回りの世話は基本的に大我の妹である小桃が行っているので問題はない。
武官として有能な大我をテツヤの警護だけさせておくのは忍びないという辰也の判断だ。
その甲斐あってか精悍な顔つきの大我は宮中でもそれなりに人気のある随身の1人である。勿論大我本人は気づいていないが。
大我は牛車の中にいる主へと視線を向ける。
「何だよ?」
宮中にいる時は言葉遣いや礼儀作法には厳しい辰也だが、一歩出てしまえば家族のような親密な関係を好むため大我が敬語を使うのを嫌う。
大我自身も敬語は苦手なので助かるが、名家の子息がそれで良いのだろうかとは常々思っている。
言ったところで無意味なのはわかりきっているから本人には言わないが。
このへんは本当に兄弟そっくりだ。
ぱちん、ぱちんと扇を開閉する音が聞こえる。
これは辰也の機嫌が悪い時の癖だ。
この後の行動がどうなるかは展開次第だが、大抵良くないことが起こる前兆なのだと、大我は経験上知っている。
ふぅ、と小さなため息。
辰也に焦がれる女性ならば一目で気絶してしまうほどの憂い顔をしているのだろうと推測する。
本当に外見は美麗なのだ。
憂いを帯びた優しい公達。
それが宮中での辰也の印象だが、中身が荒ぶる御霊の如く怒らせたら手の付けられない人物であることを知る者は少ない。
ちなみに大我及び権大納言家で働く者にはしっかりと骨身に刻み込まれてる。
『辰也に逆らうな』が権大納言家の暗黙の了解だ。
普段温厚な人物は、怒らせると本当に怖いのだから。
そんな、権大納言家の影の支配者とも言うべき辰也は、やがてゆっくりとその口を開いた。
「主上をなます斬りにしたら、流石に家は潰されるだろうか」
「物騒!!!」
やはりとんでもないことを考えていたと大我は目を剥いた。
主上とはこの世で唯一無二の存在であり、その姿は神の化身とも言われてる。
随身である自分には決して御目にかかれない雲の上の存在だ。
傷つけることはおろか、不敬なことを考えるだけで神罰が下るのではないかと思っているのは、何も大我だけではない。
この国が開闢してから千年以上、ずっと世を統べている高貴な血筋の、それも頂点に君臨する御方を害しようなど、絶対にあってはならない未曾有の事態だ。
辰也は決して不遜な人物ではない。
確かに己の美意識にそぐわない公達や、私利私欲にかられる公達や、可愛い可愛い弟に手を出そうとする不埒な公達には生まれてきたことを後悔させるくらいのことは平然とやりかねないが、だが流石に相手が主上では分が悪い。
家が潰されるだけで済めばもうけもの、単純に考えて一族郎党根絶やしにされてもおかしくないだろう。
ちなみに数百年前から続く名門摂関家の、しかも北家の直系である辰也がそのような愚行を犯せば、北家全てが潰されるだろう。
そして未来永劫帝を弑逆しようとした大犯罪者という汚名を着せられるのだ。
勿論、そうなった場合にはテツヤの首も飛ぶことになる。物理的に。
それがわからない辰也でもないだろうに。
弟を溺愛している辰也の言葉とは到底思えない。
「やはり駄目か?」
牛車の小窓から顔を覗かせてこてんと首を傾げる姿はあざとい程美しい。
だけど言ってることはとんでもない。
辰也に耐性のない牛飼い童など化け物を見るような目でこっちを見ているではないか。
若者の未来のためにも、『理知的で心優しい若君様』の理想像は砕かないでやってほしい、切実に。
「当たり前だろう! 当今様と言えば賢君と呼ばれた先々代の御嫡子で、即位当日から民の生活向上のために力を注いでくださってると昨日褒めてたばかりじゃないか。何でそんなおっそろしい考えになるんだ!」
「そんなの、主上が黒子姫に手を出したからに決まっているだろう」
「………………………………………………………は?」
「大我と姫を助けてくれたことに関しては感謝している。あの方が大我を助け姫を保護してくれたお陰で俺は大切な身内を喪わずに済んだ。それは良いんだ。だが、何でよりにもよって姫に手を出してくれたんだ。それさえなければ最高の主上だと何のわだかまりもなくお仕えすることができるというのに」
声は微かに震えている。
テツヤが都を飛び出したあの日、夜盗と戦い負傷した大我とテツヤを保護してくれた人がいるのは知っている。
翌日には家を出てきてしまったので大我は命の恩人の顔を知らない。
だが丁寧な治療をされたのだということくらいは大我にも分かった。
この時代、薬は高価だ。
たかが従者である随身に使うには勿体ないと思われる程貴重なものなのに、大我の身体にはそれこそ傷ついた箇所全てに薬が塗られていた。
それこそ頬の小さなかすり傷にさえも軟膏が塗られていて驚いたほどだ。
全身に負った刀傷は深いものから浅いものまで無数にあり、全ての治療だけでも驚く程高額になったことだろう。
尤も大我にしてみれば治療のお陰で傷の治りも早く、自分でも驚くほど短期間で仕事に復帰できたので助かったのだが。
その治療してくれた人物がテツヤに手を出したということは聞いていた。
己の救命の対価でテツヤが身を差し出したのだと思った大我は思わず切腹しかねない勢いで謝罪したのだが、テツヤは大我の命が助かるためなら安いものだと言ってくれた。
何とも申し訳ないと思うものの、そこまで大切だと言われて嬉しくないわけがなく、そのため大我は更なる献身を見せようと決意したのは記憶に新しい。
その相手が、おそらく即位前の主上――――赤司帝だったということか。
成程、辰也の懊悩も納得だ。
テツヤの身を穢した男は殺しても飽き足らないほど憎い。
だが大我とテツヤの命を救ってくれたことに関しては大いに感謝している。
恩人であり仇である相手に対してどうしたら良いか分からないのだろう。
そんな風に解釈する大我は、実はこの日の昼に喧嘩を売られるように弟の入内を宣言されたとは流石に知らない。
知っていたら良くその場で斬りかからなかったと褒めていただろう。
それほど辰也の弟愛は揺るぎない。
(だがまぁ、主上ねぇ……)
テツヤの純潔を奪った男の正体が主上で良かったのかもしれない。
何しろ相手は国で最も地位の高い人物だ。
辰也であっても容易に手を出せない相手なら、辰也が暴走することはない。
それに、もし仮に辰也がその人物を処罰でもしようものなら、テツヤが悲しむだろう。
そう、大我は知っていたのだ。
己の乳兄弟兼主人の1人が、件の人物に対して憎からぬ印象を抱いていることを。
はっきりと言葉にしたわけではない。
だが、大我はテツヤの口からその人物に関しての悪い言葉を聞いたことがないのだ。
青峰の君に夜這いされた時なんて、あのガングロだの下半身の欲求だけで生きている男だの散々な言われ様だったというのに、未遂どころかしっかりがっつり喰われてしまった相手に対しては何も言わないのだ。
それどころか、時折思い出したように真っ赤になって転げ回っている姿を見たこともあるし、脇息に凭れかかって物思いに沈んでいる姿も見ている。
そして、これは本当に時々なのだが、相手から贈られたという文を赤い顔で読み返していたりするのだから、これはもう完璧に落ちたと大我は見ている。
男だというのに益々艶っぽく美しくなっていく乳兄弟が恋をしているのは明白。
特殊な生い立ちからまともな恋愛など出来ないだろうと思っていたテツヤが幸せになってくれるのならば、これほど嬉しいことはないだろう。
まぁ恋愛の相手が同性という時点でまともかと言われると微妙なのだが、この際細かいことは目を瞑ろう。
要はテツヤが笑っていられればそれで良いのだ。
大我は牛車へと視線を移す。
道はまもなく権大納言家の門へと到着する。
どうしよう、闇討ちは不可能だし、いっそ忍び込んで…とか思い切り物騒な暗殺計画を立てているもう1人の主人の声を耳に拾ってしまった大我はひっそりとため息をついた。
辰也ならばテツヤの幸せを邪魔しないとは思うが………何となく不安を隠せない大我であった。
◇◆◇ ◇◆◇
黒子姫の入内決定。
とはいえそう簡単に進まないのが宮中のしきたりというものである。
まず入内に相応しい日を決めなければいけない。
陰陽寮では主上の最初の妃が入内するための最高の日程を占い、その中で候補に挙がった日から更なる選出を行う。
万が一にも凶事が起こらないよう、それはそれは慎重に吟味を重ねているので、一向に日が決まらないことなど珍しくない。
次いで妃が住まう部屋の選定。
身分に応じて妃の住む部屋は決められている。
黒子姫は女御として入内することが決まっているが、父親の身分は権大納言。
低いわけではないが、左右の大臣に比べれば格下なのは事実。
左大臣はテツヤの祖父という立場もあってか入内には肯定的だが、右大臣には年頃の姫がいるため、その娘たちがいずれ入内した時に使わせたいと言い出した。
そのため七殿の中で最も格の高い弘徽殿と、五舎の1つで帝が住まう清涼殿に最も近い飛香舎(藤壺)の使用が反対された。
格下の娘が自分の娘より格の高い部屋を使うのが耐えられないという顕示欲である。
それならば承香殿はどうだという話になり、今度はそこはうちの娘を入れたいと内大臣が難色を示した。
たかが居住区と言えどもそこにはれっきとした権力争いが存在する。
特に宮中は身分の差が如実に現れる場所で、だからこそ位の高い人物が反対の意を示せばどれほど順調に進んでいた会議だろうと頓挫してしまうのだ。
主上――赤司帝は黒子姫以外の姫は娶らないからどの部屋でも構わないとは言っているものの、表立って口を出せば依怙贔屓だと後々後宮で居心地の悪い思いをすることになってしまうために成り行きを見守るしかない。
ようやく凝花舎(梅壷)で良いだろうということで案がまとまりかけたのだが、それから数日の後、更に事態を混乱させることが起こった。
かねてより高齢により引退を申し出ていた関白左大臣が病で倒れたのである。
関白左大臣と言えば人臣の位で最上級に位置する人物であり、先々代からずっと献身的に仕えてくれた忠臣だ。
そしてテツヤの祖父でもある。
テツヤの父である権大納言は関白左大臣の嫡男であり、当然のことながら、祖父が重篤な病ということもあり入内は延期されることになった。
幸い左大臣の容態は回復に向かったが、出仕して公務に携わるには不安が残るということで引退を表明。
関白の位は帝に返上し、己の官職であった左大臣の座には嫡男を指名した。
そんなわけでテツヤの父・権大納言は左大臣へと昇格したのである。
それに伴い、テツヤの居住区に変更があった。
天下に並ぶ左大臣家の姫を凝花舎に押し込めるのは宜しくない、現在では主上の寵愛を受ける唯一の姫君なのだから最高の住まいにするべきだという声がどこからともなく上がり、結果としてテツヤは女御が住まう七殿の中でも最高位に位置する弘徽殿に住まうことが決定した。
これは別に若い公達たちの「弘徽殿なら近いから偶然を装って足を運ぶことができるし、運が良かったら都の二大美女の1人を拝めるかもしれないし」という邪な思惑がなかったとは言い切れない。
相手が人妻だろうが女御だろうが、綺麗な人は一目なりとも見てみたいと思うのが男心なのだ。
だがしかし、実行しようものなら赤司帝の怒りを買うことは間違いないだろう。
そんなわけでようやく入内の日取りが決まり、住む場所も決定した。
後は明日を待つばかりである。
入内に伴い同行する女房の選定や荷物の準備は危機として母が行っているので、入内して恥をかく心配はないだろう。
室内にこれでもかと増えていく調度品や衣の数を見て頬をひきつらせていたのは最初のうちだけだ。
すっかり室を埋め尽くす家財道具を見ても何も思わなくなったのは、何かもう思い切り諦めたからだったりする。
「とうとう明日ですか………」
きゃっきゃうふふと笑い合う女房たちの姿を見て、テツヤは他人事のようにそう呟いた。
あれほど嫌がっていた入内が現実のものとなったのに、前のように家を飛び出す気にはなれない。
逃げても無駄だというのも勿論だが、入内する相手が違うというのが大きい。
「まさか、あの時の公達が、ねぇ」
テツヤを救い、弱みに付け込み、そして男である自分を妻にすると宣言したあの男。
『征十郎』としか名乗らなかったあの人物が、まさかその数日後に帝として即位するなど、一体誰が思うだろうか。
そして宣言通りに自分を妻として入内させることを決めた。
宮中で宣言されてしまったその辞令に、無力なテツヤが逆らえるわけがない。
だというのにそれを嫌と思わない自分がいるのが不思議だった。
あの日から毎日のように届く文が原因なのかもしれないし、テツヤが宮中で居心地良く過ごせるようにと心を砕いてくれているからかもしれない。
頻繁に贈られてくる文はたった一文の和歌しかない時もあれば、簡単な日記のようなものもある。
時折綴られる些細な一言はテツヤの身を案じてくれるものだったりするので、そんなものを毎日届けられて絆されてしまったのかもしれない。
男の身で女装して男の下に嫁ぐことになるなんて、少し前だったら到底考えられない。
羞恥と屈辱に耐えられず速攻で自害していただろう。
だが―――――。
テツヤは先程届いたばかりの文を見返す。
そこにはたった一言、こう書いてあった。
『早く逢いたい』
何の捻りもない率直な言葉。
だからこそ偽らない本音なのだろうと推測できる。
彼は一体どういう顔でこの文を書いたのだろう。
そう思えば頬が熱くなるのを止めることができない。
男の自分を妻に迎えたいなどと言う酔狂な人。
強引で我儘で、だけど子供っぽい一面があるということをテツヤは知っている。
「明日――――」
テツヤは宝物のようにその文をそっと胸に抱いた。
仄かに薫る移り香は、あの日の彼の匂いと同じだった。
- 13.06.12