面白くない。
辰也は小さくため息をついた。
最愛の弟を穢した不埒者の処罰を決めた辰也ではあったが、残念なことにそれは未だに叶っていなかった。
というのも男を捜索すべく手配しようとした正にその時、宮中にて大事が起こったということで急遽都へ呼び戻されたのだ。
父親直々の命令とあれば流石に無視できずに帰京した辰也に知らされたのが、まさかの今上帝の譲位である。
主上は確かに高齢ではあったけれどそれでも病の兆候はなく、それどころかテツヤを後宮に迎えようとしたり宮中の女房に手を出したりと一部分は傍迷惑な程に元気いっぱいだったような気がするのだが。
理由はすぐに明らかになった。
先帝の皇子の存在である。
辰也のように若手の公達には知らされていないことだったが、先帝が崩御した際にまだ幼かった皇子を即位させるのは不憫ということもあり先帝の異母弟である現主上が中継ぎということで即位したのだという。
皇子が元服し20歳を超えたら皇位を返納するという約定があったらしい。
現在その皇子の年齢は21歳。
つまり、今上帝は先帝との約定を反故にしようとしたのだ。
それに気づいた皇子が直々に乗り込み譲位を迫ったというのが事の顛末らしい。
とにかく帝の譲位となれば大事件である。
退位に相応しき日を選び、次いで即位する吉日を占うよう陰陽寮に依頼する。
そして一番面倒なのは宮中の整理である。
今上帝が住まう清涼殿は当然のことながら、数多の女御や更衣など先帝の妃だった女性たちは実家に戻るなり出家するなり宮中から去る準備をしなければならない。
つまりは引っ越しである。
基本的に女御は何もしない。
支度をするのはお付きの女房や実家の家人であり速やかに退去支度を始めたのは良いものの、それなりに人数も荷物も多いため進行状況はあまり芳しくない。
更には即位に際して主上の身の回りの品を新調しなければならず、当代一の作家などにより器や屏風などが大急ぎで製作されているところだ。
何一つ欠けてもならない身の回りの品は思ったよりも多く、時間もそれなりにかかる。
それらを逐一調べて即位の吉日までには全て滞りなく終わらせるよう尽力するのが辰
也の仕事である。
辰也の役職ならば本来そのような雑事に関わる必要はない。
だが何故か手が足りないという理由で知人などから援助を依頼されれば断るわけにもいかず、面倒だとは思いつつも己が仕える主のためとわかっているために手を貸さざるを得ないのだ。
勿論本来の仕事とて手を抜くわけにもいかず、現在辰也は連日貫徹に近い状態であり宮中から一歩も離れることができない生活を余儀なくされていた。
当然秘密裏に調べようとしていた「吉野の男」の捜索も手つかずのままだ。
面白いわけがない。
男の手がかりは多いようで少なかった。
わかっているのは、吉野に別邸もしくは住居を持っていることと赤い髪の20代前後の青年ということと、そして『征十郎』という名前だけだ。
吉野は主だった貴族ならば誰もが別邸を持つ場所だ。
その中でも権大納言家より大きな屋敷となると数は限られてくる。
調べればすぐにでもわかると思っていた辰也は、思わぬ足止めだけでなく困難する捜索にも焦りを感じていた。
自惚れるわけではないが辰也の捜査網は広い。
それこそ都の名立たる名家は全て熟知しているし、どの家にいくつくらいの子息がいるという情報とて当然耳に入っている。
そもそも該当する人物ならば宮中で顔を合わせていなければおかしいのだ。
だが辰也は宮中でそれらしき男の姿を見たことはない。
辰也と同年代ならば出世株だ。
テツヤが言うには『整った顔立ちの美丈夫』とのことなので、こちらも女房の噂に上らない方がおかしい。
宮中で働く女性の数は多い、その多くが将来有望な公達の御手付きになることを願っているような女性たちなので、顔も良く家柄も良い男が噂されないはずないのだ。
だというのに女性からの噂も聞かない。
これはもう官位を授かっていない地下人なのだろうと辰也が思うのも当然だ。
だが、相手が地下人であったならテツヤ――――否、権大納言家にとって醜聞でしかない。
掌中の珠と慈しんでいた都で二大美女と噂される黒子姫が卑しい男に穢されたとなれば、権大納言家の家名にも泥を塗られたようなものだし、テツヤ自身も笑いものにされてしまう。
そうなる前に何とか男を抹殺――――基、抹消しなくてはいけない。
だというのに、相手の素性が掴めないどころか、当の被害者であるテツヤ本人が止めろと言うのだ。
乳兄弟の命を盾にテツヤに慰み者になるよう強要した最低最悪な男を、可愛い可愛いテツヤが見逃せと泣いて頼むのだ。
忌々しいことこの上ない。
その男に抱かれたせいで情が芽生えたのだろうかと思ったのは一瞬、すぐに
「お礼なら僕が自分で喰らわせてやります、えぇ」
と握り拳を固めて力説していたからそういうわけではないということがわかったが、だが辰也はその報復の機会すらテツヤに与えてあげるつもりはなかった。
どうして大事な弟を強姦魔に再び会わせることができるだろうか。
辰也が面白くないのも当然だろう。
(あぁ、どうせ相手に無理難題を言われて強引に穢されたに決まっているんだ。『助けて、兄様!』と泣きながら俺を呼んだんだろう。可哀相なテツヤ、不埒な男にあんなことやこんなことまでされて泣き寝入りなんて絶対許さない。相手の男には目に物見せてやるからな。2つにたたっ斬るか3枚に捌くか、それとも両手両足を牛に括りつけて東西南北に引っ張ってやろうか)
辰也は再度ため息をつく。
愁いを帯びた美青年が鮮やかに咲き誇る橘の花を片手に悩ましげなため息を一つ。
絵物語のような姿に几帳の陰から覗いていた女房たちから黄色い悲鳴が上がる。
「まぁ、見て。氷室の君よ」
「相変らず麗しい御姿。何て素敵なの」
「憂いのある眼差しが色っぽいのよね。あぁん、その瞳、私だけに向けてくださらないかしら」
憧れの君の姿にときめく女房たちは、その憂いを秘めた瞳の奥で見たこともない男をどう闇に葬るか思案していることは当然ながら知らないのである。
◇◆◇ ◇◆◇
季節が春から夏へと変わった頃、即位の儀は恙なく執り行われた。
表向きは先帝の出家による譲位。
事実を知る者は公達の中でもごく僅かだ。
思ったよりも時間がかかったと苦々しい顔をしたのは年配の重臣たちだけで、年若い公達たちは短い準備期間で何一つ不備なく済んだことに心から安堵していた。
「いやぁ、先の帝には申し訳ないことをしてしまいましたが、ようやく終わりましたな」
「なあに、先の帝も約定に従ってのこと。本来ならば昨年の内に行われていることなのですからお怒りもございませんでしょう」
「ようやく肩の荷も下りたことですし、今宵の酒は楽しく飲めそうですな」
「いやいや、恐らく明日から主上は様々な政策に乗り出されることと推察いたします。より一層忙しくなることでしょう」
「それは確かに。ですがこれも主上の御代の為、民のためでございますれば」
「そうそう、我らが忙しいのは国のためですからな」
ほっほっほ、といかにも嬉しそうな重臣たちの声を聞きながら、辰也は襲い来る睡魔を必死にやり過ごしていた。
重臣たちは忙しいといいつつしっかり自宅に帰ったり休暇を取ったりしていたが、辰也や他の若手公達はそういうわけにいかない。
物忌の日は流石に自宅に戻ることはできたが、それ以外は働き詰めの日々だったのだから安堵と共に気が緩んでも仕方ないだろう。
何とか平静を保ちつつも、辰也の意識は気を抜くと深い眠りの淵へと落ちていきそうになる。
それをぐっと堪えている姿も美しいとちらちら覗き見る女房の姿もあるが、今回ばかりは流石の辰也も気がついていなかった。
さらりと衣擦れの音がして、気が付いたら昼御座に根菖蒲の直衣に身を包んだ青年が姿を見せたところだった。
平伏しながらも辰也はその無視できない存在感に驚いた。
姿を見せただけ、言葉一つ発していないというのにその場は彼によって一瞬で支配された。
思わず眠気も吹っ飛んだ。
成程、これは格が違うと辰也は心中で一人ごちた。
先の帝は恐れ多くも凡庸という印象が拭えなかった辰也だが、先帝の甥というこの新帝は明らかに人の上に立つ資質に溢れていた。
それが民のために使われれば良いのだがと思っていた辰也は、開口一番に彼が発した民への救援策に舌を巻いた。
それは貴族が治めている領地の贅を軽くし、民の暮らしへ還元するようにというものだった。
民は貴族を支えるために働いて当然という考えにどっぷりと漬かっていた貴族には驚くものだったが、市井を良く見ている辰也にとっては嬉しいものでしかない。
ここ数年の民の貧困ぶりは目を瞠るものだったのだから。
「で、ですが、そうすると我々の暮らしが――――」
「お前が身に着けている着物は誰が作っている? 毎日食べている米は? 野菜は? 民に頼らなければ生きていけない我々が贅を尽くし、汗水流して働いてる民が日々の食事にも事欠く様というのに何も思わないのか?」
「い…いや、そういうわけではありませぬが……」
「では問題あるまい。己の財が減ることなど、朕の大事な国民が飢えることに比べてどれほど瑣末なことだろうか」
御簾越しに厳しい叱責を受けた左馬頭は恐縮して床に頭を擦り付けている。
その後も財政についての改革や都の治安向上のためのいくつかの方針を打ち出し、反論や動揺を見せる重臣を小気味良い程の言葉で切り捨てていく―――――その様の何と見事なことか。
(流石、名君と名高き先々帝の皇子ということか)
鮮やかな手腕と有無を言わせぬ存在感で次々と重鎮たちをやり込めていく姿は圧巻の一言だった。
辰也の中で目の前の新しい主上に対する好感度がぐぐっと上がる。
辰也にとって良い主君とは大人しい人物ではなく、深い慈愛を持って民を慈しみ救う人物に他ならない。
この僅かな時間でそれを体現してみせた新帝を気に入らないはずがないだろう。
そうして帝が交代して初めての朝議が滞りなく終わるかと思われた頃、本日何度目になるかわからない玲瓏とした声が議場に響いた。
「それから、先の帝が希望していた権大納言家の一の姫輿入れの件だが――――」
ぴくり、と辰也の眉が揺れた。
辰也が先帝に対して唯一不満があるとすれば、それは新帝の言うように『黒子姫』の入内を希望していたことだけだ。
何よりも大事な弟を複数の妃を持つ人物の元へ嫁がせることなど許容できるわけがない。
帝が本格的に動く前に退位してくれて良かったと心底思っていたのにまだ諦めていなかったのかと瞳に剣呑な色が浮かんだ。
出家したんだから色欲くらい抑えて見せろや、と何とも不敬な発言を心の中で呟いた時、御簾の向こうの人物がくすりと笑った。
辰也の心の声が聞こえたのだろうかと僅かに顔を開けたその時、御簾の向こうから鋭い視線を感じたような気がした。
「黒子姫は既に朕の妻である故、その願いは叶えられないと伝えておいた」
その瞬間、辰也の脳内で全ての符号が重なった。
吉野に別邸を持つ貴族の公達。
20代前後の赤い髪の美丈夫という特徴も一致する。
何よりも辰也が見覚えのない人物となれば、それはもう本当に一握りしかないのだ。
分かりやすく言えば皇族――――それも滅多に表に出てこない皇子や宮家の人物。
『征十郎』という名前は知らないが、そもそも皇族の名は一般に知られることはほとんどない。
況してやそれが隠棲していた皇子の名前ならば当然だ。
そして皇族ならば吉野に別邸を持っていても不思議ではない。
涼やかな瞳が見開かれる。
彼が表舞台に姿を現わしたのはつい先日。
それまで隠棲していたのは―――――。
ざわり、とどよめいた室内に気高い声が響いた。
その口元が笑っているように見えるのは辰也の気のせいだろうか。
「権大納言家にはすぐにも入内に良き日を選び、我が妻を寄越すように」
よろしい、ならば戦争だ。
辰也の脳内で戦闘のゴングが高らかに鳴らされた。
- 13.06.12