世の中で何が一番怖いかと聞かれれば、ほとんどの姫君が「父親」だと言うだろう。
貴族の姫君にとって父親は自分にとって庇護してくれる対象であり逆らえない存在であり、つまりは1人で生きていく術を持たない無力な娘たちには絶対の存在である。
だがテツヤは同じ質問をされたら速攻でこう答えるだろう。
「怒った兄様」
と。
テツヤの兄・辰也はとても温厚で人当りの良い人物だと言われている。
憂いを帯びた繊細な顔立ちに優雅な物腰、甘い声と色香漂う笑顔は一目見れば恋に落ちてしまうと言われる程。
そんな柔和な外見に関して剣術の腕前は武家顔負けの実力で、武家の筆頭である源平両家ですら手合せで負けたと言われている。
今年になって出世してしまい第一線から退いたが、昨年までは右近少将として検非違使たちを指揮する立場だった頃には、都を騒がす盗賊を悉く捕縛し、噂では狐狸妖怪をも追い払ったと言われているが真実は定かではない。
おそらくは事実だろう、夜になると騒がしかった物の怪がここ数年パタリと静かになっているのが良い証拠だ。
そんな辰也が本気で怒ることは滅多にない。
名家の公達らしくいつも優雅でたおやかな笑みを浮かべた姿しか知らない者は、テツヤがいくら恐ろしいのだと言ったところで信じる者はいないだろう。
だがその言葉が嘘でないことは、権大納言家では良く知られている。
というのも辰也が本気で怒るのは、大抵妹――――基、弟が関わっている時だけなのだ。
弟が危険な目に遭った時、彼の本気が発動される。
記憶に新しいのは今から数か月前、都の二大美女と謳われる『黒子姫』ことテツヤに想いを遂げようとある公達が夜這いを仕掛けた時だ。
姫として育てられていようとれっきとした男であるテツヤが男の求婚を受けられるはずがなく、送られる恋文には全て拒絶の返事を送っていた。
誰の手にも手折られることのない高嶺の花、そう呼ばれるようになってから久しいテツヤを誰が落とすのか、宮中でもかなりの興味を持って噂されていた。
名立たる公達が名乗りを上げ、誰もが相手にされていないという事実に焦れた男が辰也の怒りに火をつけた。
男は青峰の君と呼ばれる右大臣家の嫡男で、身分を考えれば権大納言家の姫君の元へ妻問いするのはおかしくなかった。
だが、そのやり方が拙かった――――致命的に。
幾度も送っては断られる恋文に焦れた青峰の君は、ある夜権大納言家で催された宴の最中に宴席を抜け出し、自身の対の屋で眠っているテツヤに夜這いを仕掛けたのだ。
酒が入っているからという理由は通用しない。
青峰の君は強引に眠っているテツヤを組み敷こうとしたが、テツヤとて一応は男である。
あらん限りの力(とは言っても微々たるものだったが)で抵抗し、そうして叫んだのは誰よりも頼りにしている兄の名前。
最愛の弟の声を聞き逃す辰也ではなく、暴漢は一瞬で取り押さえられた。
斬り捨てる勢いで振り下ろされた刀は青峰の君の烏帽子を真っ二つに裂き、返す刃は彼の着ている直衣を引き裂いた。
更には動きを封じるために足元へと突き刺された刀は彼を衣服ごと床に縫い止めたが、まるで豆腐を切るかのようにざっくりと突き刺さった刃の深さに彼の本気を垣間見た。
幸い青峰の君に怪我はなかったが、それは辰也が手を抜いたわけではなく、青峰の君が持つ反射神経の賜物である。
他の公達だったらおそらく最初の一太刀で首と胴が離れている。
あの時の辰也の怒りはテツヤも忘れることはできない。
有難う兄様と喜んだのも束の間、あわやの大惨事に凍りついたのも懐かしい記憶である。
自分は直接あの怒りを受けたわけではないが、傍にいるだけでとんでもなく怖かった。
それはもう先ほどとは別の意味で泣いてしまいそうなほどに。
ちなみにその後青峰の君はお咎めこそなかったものの、辰也によって最重要注意人物と認定され権大納言家に近づくことは許されていない。
その怒りが、今、目の前で再現されようとしている。
勿論怒りの矛先が向かうのはテツヤではない。
テツヤの鎖骨に赤い所有印を刻み付けてくれやがった不埒者に対してだが、それでも怖いものは怖いのである。
所有印だけでこの怒りなのだ。
これでテツヤの純潔が奪われたとか妻になれと言われたとか言ったらどうなるか、想像だけで失神できる。
あの公達には正直良い印象を抱いていないけれど、それでも決断したのは自分だ。
辰也によって人生終了させてしまうのは流石に酷なのではないだろうか。
酷い目に遭った自覚はあるが、彼は言葉通り大我を助けてくれたのだし。
だがしかし、テツヤは怒れる兄を止めることはできない。だって怖い。
どうにかこうにか兄の怒りに触れないように言葉を選んで説明していくが、それでも交わされた取引のことは何をどう言い繕ってみたところで穏便に済むとは思えない。
「あ、あのですね、兄様……」
「続き」
「はい」
頑張ったが無理だった。
とりあえず最低限の言葉だけで説明するしかない。
『夜盗に襲われた自分と大我を助けて貰った恩人に求婚され、断るに断れない状況だった』
とにかく自分と大我にとって命の恩人であることを強調しておいた。
大我のことを弟のように可愛がっている辰也なら少しは怒りを鎮めてくれるのではないかと思ったからだ。
そしてテツヤから事情を聞いた辰也はおもむろに頷いた。
「つまり、瀕死の大我の命を盾に取ってテツヤを凌辱したということか」
「何でそう解釈するんですか?! 等価交換ですよ!!」
何で自分が強姦魔を庇う羽目になっているんだと疑問に思いながらテツヤは叫んだ。
あの男を庇うつもりなんてないのに、ここでテツヤが少しでも被害者面したら間違いなく辰也は彼を抹殺するだろう。
瞳孔の開いた笑顔で躊躇なく刃を振り下ろす辰也の姿が脳内で再生されてしまい、テツヤは涙目になりながら辰也に縋り付いた。
おかしい、自分は紛れもなく被害者なのに、なんでこんなに苦労しているのだろう。
それもこれもあの男が無理難題を要求してくるもんだから、えぇい次に会ったら覚えていろよとか思うけれど、実際に逢ってしまえばお互い大変なことになるので二度と逢わないことを切に願うばかりである。
◇◆◇ ◇◆◇
吉野の桜が葉桜へと変わる頃、都はすっかりと新緑に覆われていた。
宮中では連日宴が催されており、公達は飲めや歌えやの大騒ぎにそろそろ疲れが見え始めていた。
とは言え、宴に出席しないと今後の出世に響くと言われるほど公達にとって宴は欠かすことのできない社交場であり、そのため二日酔いだろうが寝不足だろうが這ってでも参加するのだが。
そんな連日の宴で若者はまだしも高齢の部類に入る重鎮たちは正直つらそうだ。
重役にあればあるほど外すことのできない宴は増えていく。
時には自分の屋敷でも宴を開かなくてはならない時もあり、そうなると主催者であるため最後まで席を外すことはできない。
つまりは、毎朝の朝議に参加する重鎮たちは本気でお疲れモードなのである。
「こう毎日宴続きでは身体を壊してしまいますなぁ」
「本当に。いや、若い者は元気で羨ましい限り」
「そういえば先日の宴では、中納言殿のご子息が初めて出席されてましたなぁ」
「元服されてすぐということもあってか、物慣れない様子が愛らしいことでした」
「我々の息子たちもそんな時期がありましたなぁ」
「ほんに、そのようなこともありましたなぁ」
主上が未だ姿を見せないために朝議は始まらず、そうして持て余した時間で何をするかと言えばいつの時代も同じで他愛のない雑談が誰ともなく始まっていく。
本日の議題は何だっただろうかと気にする者はいない。
朝議とは言っても毎朝行われるものであり、特にここ最近は目立った行事もないために簡単な報告などが行われて終わるだけだ。
その後は夜まで時間を潰してどこかの屋敷で行われる宴に参加する。
そんな毎日の繰り返しである。
仕事がないことは平和の証拠だと大臣たちは口を揃えるが、そうだろうかと首をひねるのはテツヤの父である権大納言だ。
確かに世の中は平和だ。
水害や飢饉に見舞われることも少なく、米は毎年豊作が続いている。
だがそれは各地の荘園でのことで、都の民は重税に喘いで餓死する者もいると聞く。
自分たちが豊かなのだから民も豊かだと言い切る声に疑問が浮かぶものの、そう唱えているのが他でもない主上なのだから一大臣である自分が不満など唱えられようもない。己の荘園では税を軽くしているものの、彼の領地以外では民がどのような生活を送っているかわからないため不安は募る。
そしてもう一つの不安は、皇族の後継者問題だ。
現在の主上は御年40歳をいくつか超えている。
この時代では高齢の部類に入る。
だというのに男児はなく、現在東宮の座は空位のままだ。
後継問題は早急に解決しなければならない憂慮であるが、主上に焦りの様子は見られない。
そもそも東宮となるべき皇子は主上にはいないが、皇族に該当する皇子がいないわけではない。
主上の甥――つまりは先帝の忘れ形見である。
皇子の年齢は御年21歳。
万世一系の高貴なる血を持つ正当な後継者である彼が何故皇位に就いていないのかと言われれば、それにはきちんとした理由がある。
賢君の誉れ高い先帝が崩御した時、彼の皇子は僅か5歳という幼さだった。
後ろ盾となる母后も既に亡くしていた彼は、皇位に就くには幼すぎるという理由で皇位継承者という身分を剥奪され、代わりに先帝の異母弟である今上帝が皇位に就いた。
特に珍しいことではない。
皇統を維持することが第一である以上、幼く弱い少年帝を擁するのは厳しいのだから。
そうして皇位は今上帝へと移り、先帝の皇子は皇位継承権第一位という立場にいるものの東宮として任命はされていないという不自然な状況が起きている。
今上帝に皇子が生まれれば皇位継承権が移るために東宮位に任命できないのだ。
これは完全に大人の思惑だが、それに振り回されて隠棲を余儀なくされている皇子はどう思っているだろうか。
元服して以来一度も殿上してこない皇子の様子を知る者はほとんどいない。
後見人であった先代の内大臣が急死してしまったために、顔を知っている人物すらいないのではないだろうか。
主上は悪い人物ではないのだが如何せん政治能力が乏しい。
それを補佐するために自分たち大臣がいるのだが、彼らも市井の暮らしを知らない。
権大納言が市井の暮らしを知っているのは、意外とお忍び好きな長男の報告があるからだ。
彼が市井に興味がなければ自分もおそらく知らないままだっただろう。
どうにかしなければ。
そう思うけれど解決する術を権大納言は持っていなかった。
だが、それから数日後。
意外な形で彼の憂慮は解決することとなる。
◇◆◇ ◇◆◇
いつもと変わらぬ朝議の席に、思いもよらぬざわめきが近づいてきた。
――――せぬ、………は……
―――よ、……ぞ
朝議の場に緊張が走った。
宮中でも奥にあるこの席に無頼の輩が侵入するという事態は考えられない。
そもそも殿上を許されていない者が昇殿すれば即座に切り捨てられることになっているのだ。
考えられるのは貴族たちが手出しできない身分の誰かがこちらに向かっているということである。
主だった大臣はこの場にいる。
他に手を出せない身分となれば皇統に連なる者しかいない。
宮家で勢いがあるのは兵部卿宮だが、彼は高齢で病に伏していると聞いている。
他に誰がいるだろうかと悩む大臣たちの前に姿を見せたのは、直衣姿の赤髪の青年。
背後に長身の青年が付き従っているが、頭一つ大きい青年よりも目の前の赤い髪の青年が放つ威圧感の方が恐ろしかった。
端正な顔に表情一つ浮かべることなく、青年は慇懃に朝議の席へと乱入してきた。
非難の声を上げようとする右大臣を一瞥するだけで黙らせた青年に見覚えはない。
だが、視線一つで他者を従わせるほどの覇気と存在感。
何よりも異彩を放つ色違いの眼差しは、長年臣下として仕えている彼らは良く知っていた。
あの眼差しが自分に向けられることが誇らしく、そしてそれが満足そうに細められるのを見ることが無上の喜びだと感じていたのは16年も前のこと。
まさか、と誰かが呟いた。
彼らが覚えているのは幼い姿のみ。
その髪色から『赤司の君』と呼ばれていた小さな皇子。
父帝に良く似た面差しだとは思っていたが、16年ぶりに見たその姿は正に先帝が即位した頃と瓜二つ。
その事実に気づいた大臣が1人、また1人と動きを止めた。
彼らをゆっくりと見渡し、青年―――赤司の君はふわりと微笑んだ。
強い光を持つ双眸がかすかに細められ、整った顔が柔和な色に彩られる。
その笑顔まで先帝と同じで、誰もがうっとりとその姿を見上げた。
「皆、久しぶりだ。息災そうで何よりだよ」
「赤司の皇子様………」
初めて発せられた声すら亡き帝を思い出させる。
彼らが初めて殿上したその日、主上直々に声をかけてもらった喜びが昨日のことのように思い出された。
過去に名君は何人もいたとは記憶している。
だが彼らにとって名君とは今は亡き先帝であり、賢君とは彼の主君しか存在しない。
そう言われる程に臣下の心を掌握していた先帝が亡くなり、幼い皇子に皇位を継がせることを憂慮して異母弟である今上帝が後継となったのだが、こうして目の前に比べてしまえばその資質の違いは歴然としている。
「みっ、宮?! 朕は其方の殿上を許してはおらぬぞ?!」
明らかに動揺を含んだ目の前の君主が一瞬で色褪せてしまうほどに。
凡庸だが善良な人物と認識していた。
贅を好むでも淫蕩を好むでもなく、ただ日々を安寧に生きていた人物。
物足りないと思っていた日々が記憶から薄れたのは今上帝が即位してから1年が経過してからのことだった。
それから長い年月をかけて慣れてきたつもりだったが、こうして目の前に現れた皇子を前にしてしまえばどうしても違いは目についた。
知性と威厳を眼差しに湛えた若き王者を前に、その色は随分と希薄に見えてしまう。
赤司の皇子は呆けたように己を見つめる臣下へと再度笑みを見せてから、御簾の向こうで狼狽えている叔父へと視線を動かした。
まっすぐ射るように向けられた眼差しに、御簾の向こうでガタ、と立ち上がった音がした。
一歩、皇子が前に進む。
御簾の向こうで後退する音がした。
更に、一歩。
逃げ場を失ったのだろう、ずるずると座り込む音が耳に届く。
「叔父上」
「み…宮……」
縋るような声に赤司の皇子は口角を吊り上げた。
そうして告げる。
異論は許さないというように。
「大人しくその座を明け渡してもらいましょうか。そこは本来、僕のいるべき場所だ」
反対する声はなかった。
- 13.06.04