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異説・とりかへばや物語4


征十郎が目を覚ました時、隣はもぬけの殻だった。
随分前に抜け出したらしくぽっかりと開いた衣服の間はすっかり冷え切っており、腕に抱いていた時はあれほど温かかったぬくもりは既に消え失せていた。
残ったのは甘い梅香の残り香と、しっとりと張り付くような肌の記憶だけ。

「気配を消すのが上手いな」

思わず感心したように呟いた。
幼い頃の習慣から気配に聡い征十郎は、たとえ熟睡してようとも周囲で人が動く気配を見逃すことはない。
それは長年兄弟同然に育った随身であろうとも同様で、そのため護衛は1つ隣の室で寝ずの番を行うほどだ。
気配に聡いということは他人に心を許していないということで、どれほど親しくても征十郎は安心して背中を預けられるほど他人を信用したことがない。
それは勿論異性であろうと同様で、生理的欲求を解消するために通っていた相手の傍でも征十郎は眠ったことがなかった。
行為中も必ず手の届くところに刀を置き、突発的な事態に備えられるように服を脱がずに事に及ぶことがほとんどで、昨夜のようにお互い裸身になって幾度も身体を重ねるとなど、普段の征十郎ならば決してありえないことだ。
あまつさえ行為が済んだ後に裸の相手を抱きしめて眠ってしまうなど、我ながら驚きである。
油断していたわけではない。
いくら身体の相性が良くても、幼い頃からの習慣となっている警戒心を解すことなどあるわけがないのだ。
事実征十郎は己の下で喘ぐ痴態を愉しみながらも、頭の隅では冷静な自分がいたことをしっかりと把握している。
何が起きてもすぐに対処できるようにと周囲を警戒していた自分は確かにそこにいたのだ。
だからこそ征十郎を起こさずに逃げおおせたあの姫君の手腕に脱帽するしかない。

権大納言家の黒子姫と言えば、宮中だけでなく都でも知らない者がいないと言われる評判の美姫である。
興味はあったが他の公達と同じように恋文を送ったりはせず、傍観者の立場から今後の成り行きを見つめるだけのつもりだったのだが、どういう縁があってかその姫君が己の手の中に転がり落ちてきた。
女性は屋敷の奥深くに籠って親兄弟にすら顔を見せない現在では、たとえ美姫だという噂が出たとしても基本的に誰も信じてはいない。
絶世の美女だという噂の女性が、実は驚く程の醜女だということとて珍しくないからだ。
貴族の姫君ならば父親や兄弟の顔立ちからその美醜を窺うことができるが、それでも本当に美しい姫かどうかは直接その目で確認してみなければわからない。
権大納言家は渋みのある精悍な人物で、その嫡男である辰也は母親似らしく父親とはあまり似てないが艶のある美青年で宮中の女性に大人気だ。
しかもその辰也自身が妹姫の愛らしさをさり気なく自慢するものだから、噂程ではなくてもそれなりに愛らしい姫なのだろうと思っていたのだが、実物は噂以上の美しさだった。

全体的に薄い色素を持つその姿は、月光を浴びて淡く輝いているように見え、さらさらと音がするのではないかと思うほど長く見事な髪は月光か流水かと思うほど澄んだ水色。
長い睫に縁どられた大きな瞳も同色で、一瞬天女かと間違えたほどだ。
形の良い唇は小さく愛らしく、なるほどこれならば多くの公達がこぞって妻にと願うのも無理はない。
審美眼に優れた征十郎であっても見惚れるほどの美貌だった。
だからこそ男だということは驚いたが、生来病弱で幾度も死に掛けていたという情報を思い出せばその理由も納得できる。
病弱の男児を姫として育てれば健康に育つという迷信は、この都の中で決して珍しいことではない。
かくいう征十郎も下手をすれば同じ目に遭っていたかもしれない程の病を幼い頃に罹患していたのだから。
幸い征十郎の病はすぐに癒え、その後も健やかに成長していったために未然に防がれたが、それほどに男児を女装させることは珍しくない。

だというのに黒子姫―――基、テツヤはその事実を表に出すことなく姫としての人生を甘受している。
本人に女装趣味でもあるのかと思った征十郎は悪くないだろう。
だが、そう考えてすぐに思い出す。
権大納言家の北の方の性格を。
一途で従順で、だがとても信心深いという北の方。
嫡男が健やかに成人したのも神仏の導きあってのことと豪語する程だというだから、病弱な次男を必要以上に思うのも当然だ。
そして純粋な母心故に、テツヤは嫌だと言えなかったのではないだろうか。
見るからに真っ直ぐな性根を持っていそうな少年だ。
己の成長を祈る母を無下にできなかったとしても無理はない。

征十郎は最初から黒子姫を娶りたいと思っていたわけではなかった。
評判の美姫は誰の手に落ちるのかと、ほんの少しの好奇心と退屈凌ぎで成り行きを見ていただけだ。
征十郎はある筋からの情報で件の姫が男であることを知っていた。
権大納言家が必死に求婚を断る姿も面白く、姫として育てられた少年がどう生きていくかも楽しみではあったが、それはあくまでも傍観者の立場としてだったのだが、縁があってこの手の中に落ちてきたのならば手放す理由は征十郎にはない。

何故なら、征十郎にとってもこの特殊な姫君は都合が良いのだ。

征十郎は女性に興味がない。
それは偏に自分の周囲に禄な女性がいなかったからなのだが、とにかく女性が苦手なのだ。
嫌悪していると言っても良い。
征十郎の周囲にいる女性と言えば高価な衣装に身を包み、派手な化粧で己を隠し、そうして笑顔の裏に傲慢な欲望を抱いているような女性ばかりなのである。唯一の例外と言えば母親だったが、母はそんな女達の陰謀によって幼い頃に殺されてしまった。
残された幼い征十郎はそんな女達に囲まれて育ったようなもので、だからこそ「女」という性別を持つ者全てを忌避するようになったのだ。
化粧の匂いを嗅ぐだけで気分が悪くなり、媚びた笑みを見るだけで背筋に怖気が立った。
偶然を装って抱きついてこようとする女にも、玉の輿を狙って寝所に忍び込んでくる女房も辟易していた。
母の後を追うように病死した父に代わり親代わりを務めていた叔父には、それならば特定の姫を選べと、暗に妻を選べと言われたのだが、女嫌いの自分が妻を娶るなどできるはずもない。
理想が高いから無理だと幾度もかわしてきたものの、元服し成長していけばそれも通じなくなっていく。
何よりも己の身分が独身でいることを許さない。
もういっそ隠棲して仏門にでも入ってやろうかと思ってやってきたのが今回の吉野行の目的だったのだが、最後の最後で思わぬ拾い物をしたものだ。

黒子姫は都でも名門摂関家の一つである権大納言家の姫である。
中身は男性でも表向きは姫である以上、征十郎が妻問いをしても何ら問題はない。
名門の姫だから正室にできるため他の側妾を設ける必要もない。
何よりも蒲柳の質だという姫ならば子供ができなくても問題はないのだ。
散々妻を娶れと五月蠅かった叔父も、名家の姫を妻に迎えるとなれば文句を言うこともないだろう。
妻を娶るつもりなど皆無だったのだが、相手がテツヤならば話は別だ。
儚げな見かけに反して性格は大胆で剛毅。
そういう人間は嫌いではない。
本来ならば弱みを握って形式上の婚姻に持ち込むだけのつもりだったのだが、手を出してしまったのは魔が差したとしか言いようがない。
テツヤにとっては良い迷惑だっただろう。
だが、今更逃がすつもりは征十郎には毛頭なかった。

「敦」

単衣を羽織りながら、征十郎は睡眠を妨げる原因となった随身の名を呼んだ。
彼が征十郎の室前に控えたから、征十郎は目を覚ましたのだ。
己の警戒心が少しも衰えていないことを自覚しつつ、征十郎は屋敷の警備を司る男へと声を掛ける。

「あの姫はどこへ行った?」
「ん〜、大我、だっけ? あの男を連れて陽が昇らないうちに出ていったよ」
「…お前が見逃したのか?」
「だって、俺の仕事は赤ちんの警護だもん。見ず知らずの姫と従者がどうなろうと知ったことじゃないし」

幼馴染兼乳兄弟兼護衛の男――敦は征十郎の質問にのらりくらりと返答した。
敦の重要事項は征十郎の身の安全であり、彼が戯れで助けた女や傷だらけの男がどうなろうが興味はない。
早朝ということで夜盗も出ないだろうし、男の傷も塞がったようだったので自分の家に帰ることくらいはできるだろうと判断したからでもある。
だが、征十郎の双眸がすうっと細められた。
瞬時に貼り付いた空気に、慣れているはずの敦でさえも息を呑んだ。

「敦。僕はいつ、あの姫を逃がせと言った?」
「え…だって用が済んだ女を追い返すのなんて珍しくなかったし」
「僕が追い返せと一言でも言ったか?」
「う…だって、その…ごめんなさい」

ごつん、と床に頭を打ち付ける音が響いた。
おそらく勢いよく土下座をしたため頭をぶつけたのだろう。
痛い…という声が聞こえて、叱責しなければいけない場面だというのに思わず吹き出しそうになってしまった。

敦の行動の原因は征十郎にある。
それほど征十郎が女性に対して誠実ではなかったということだ。
あの姫は特別なのだと言っても俄かに信じないとしても無理はない。

征十郎は臥所に転がっていた扇で己の手を叩く。
ぱしん、という音が静かな室内に響いた。

「姫と従者が無事に屋敷に帰ったかの確認を。――それから、後で文を届けてくれ」
「はーい。って………文?」

のそりと紫色の髪が几帳の影から除いた。
相変らず身分も礼儀もなっていない行動だが、敦が相手なので征十郎も怒るつもりはない。
どうにも自分はこの乳兄弟に甘すぎる。

征十郎はきょとんと首を傾げる乳兄弟に艶やかな笑みを浮かべた。



「後朝の歌は常識だろう」



あらら、ご愁傷様という声は聞かなかったことにした。








     ◇◆◇   ◇◆◇








体力に自信があるとは言っても、体中に刀傷を負った青年を動かしたのは流石に無謀だったかもしれないと、テツヤは臥所で眠る乳兄弟を前に項垂れていた。
青年――征十郎の理不尽な要求を呑んだとは言っても本気で妻になるつもりはなかったし、又、向こうも本気ではなかっただろう。
どうせ女装した男が珍しくて悪戯心を起こしたに過ぎないのだ。
一度抱かれてしまえば興味はなくなるだろうと、一夜の悪夢と割り切って身を捧げたテツヤは、夜が明ける前に寝所から抜け出して傷の癒えていない大我を叩き起こして屋敷に帰ってきた。
テツヤも足を怪我していたが、怪我の程度で言えば大我の比ではない。
しかも大我はテツヤが足を怪我していることに気付いてテツヤを背負って帰路を歩いてきたのだ。
主家の姫君に対する態度としては当然のことだが、負傷した大我が屋敷に到着するなり失血と疲労で倒れるのは当然、用意させた臥所で昏々と眠り続ける姿を見てしまったテツヤは申し訳なさで一杯である。
とは言ってもあのまま彼の屋敷にいるわけにいかなかったので、選択肢は「帰る」以外になかったのだが。

身体の汚れを落とし怪我の手当てを済ませたテツヤは、しばらくして目を覚ました大我から軽い説教をもらった後、緊張の糸が解けてようやく眠りについた。
昨夜は結構な無体を強いられていたため実はかなりの疲労が蓄積していたテツヤは、今度は大我が呆れるほどにぐっすりと眠ってしまい、目が覚めた時に笑顔で怒っている兄の姿を見て凍りついた。

「おはよう、テツヤ。良く眠れたみたいで何よりだ」
「に…兄様…」

にこりと花も恥じらう笑顔を浮かべる辰也だがその瞳は笑っておらず、ついでに言えば麗しい目の下にはうっすらと隈もできている。
辰也にしてみれば吉野に向かった弟が一昼夜行方知れずだと知らされてから生きた心地がしなかったというのに、夜を徹して馬を走らせて来てみれば自力で戻ってきた挙句に熟睡していると聞かされたのだから怒って良いものやら安堵して良いのやら複雑なところだ。
袿の裾から覗く小さな足に布が巻かれていなければ、おそらく頭を叩いていただろう。
権大納言家の愛の鞭は意外と激しいのだ。
そして気になることはもう1つある。
辰也は几帳を押しのけて半身を起こしているテツヤの腕を取った。
寝相が悪いわけではないのに柔らかい髪質のせいか乱れやすい髪を手櫛で整えて、すべらかな頬を優しく撫でる。

「兄様……?」

繊細な指が頬から首へと辿り、そして鎖骨へと到達する。
丁度単衣の合わせ目から微かに見える場所だ。

そこに咲いている、赤い所有の印。



「―――これ、誰に付けられたんだい?」



その瞬間ぞくり、と背筋に走ったのは昨夜のものとはまるで違う。
これは紛れもなく悪寒である。
テツヤの兄はとても温厚で滅多に怒ったりはしないけれど、そんな彼が怒るとそれはもうとんでもなく怖いのだ。
にやりと笑う兄からどう逃げようかとテツヤは逃走経路を探したが、そんなものを残してくれる兄ではないことを、他でもないテツヤ自身が良く知っている。
それでもきょろきょろと視線を彷徨わせるテツヤの視界に、1人の女房の姿が入った。

「失礼いたします」

辰也の怒りを知ってか知らずか、女房はしずしずとテツヤの室へとやってきて1通の文と一抱えほどある桐箱を差し出した。
薄紅色の料紙は一目で高級品だと分かる。
仄かに薫る香は昨夜嫌というほど嗅いだ匂いだ。
蕾のついた吉野桜の枝に結ばれているそれが恋文の類であることは明白。
そしてテツヤにとってはそれ以上の意味を持つ文でもある。

正直受け取りたくない。
だがそんなテツヤの願いは虚しく、辰也が女房からそれを受け取ってしまった。
結ばれていた枝を無造作に放り投げ、辰也は表情を変えないままそれを広げる。
年頃の姫に届けられた文を家族が目を通すことは珍しくはないが、これは拙い。色々と拙い。

案の定、辰也の眼差しが剣呑に細められた。
無言で差し出されるそれを受け取らないわけにはいかない。
広げられた文には見事な蹟で歌が詠まれていた。



『夜桜の 姿に酔えば 一夜夢
    芳しき香を 愛しく想ふ』



思い切り後朝の歌である。
昨夜に何があったか丸わかりの内容に、テツヤの顔が瞬時に朱に染まった。
差出人の名は書かれていないが、テツヤには丸わかりだ。
一体なんて歌を送ってきやがると思わず文を握りつぶしそうとしたテツヤの前で、辰也は桐箱の蓋を開けた。

「………………………………」

そこに入っていたのは白い単衣だ。明らかにテツヤのものより大きい。
後朝の歌と男物の単衣。

うん、もう、完璧に婚姻の手順通りだよねと意識が遠のきかけたテツヤは悪くない。

この時代、男女が関係を結ぶことは珍しくないが、婚姻となるとそれなりの手順を踏むことになる。
まず夜を過ごした後は後朝の歌を送るのが常識だ。
ぶっちゃけると『昨日の夜は楽しかったよ』というあからさますぎるものなのだが、これが届かないと相手が自分に満足しなかったという不名誉な噂が立つので結構重要である。
そして単衣の交換。
これは事が済んだら行われるものなのだが、テツヤが逃亡してしまったためにご丁寧にも送りつけてきたのだろう。
本来なら自分の分も送らなければいけないのだが、送ったら婚姻を認めることになるので激しくお断りしたいところだ。
その後は3日続けて夜を共に過ごして三日夜には2人で餅を食すことになるのだが、もしかしてこれも実行しなければいけないのだろうか。
そうなるともう最後なのだが。

確かに青年はテツヤを妻にすると言ったけれど、それは一夜だけのことだと思っていた。
相手が本気だとは欠片も思っていなかったのだが、あの状況では無理のないことだろう。
命を助けてもらった礼に伽の相手をしろと言われて、どうして求婚だと思うだろうか。
あれだけ見目麗しい相手ならば婚姻相手などより取り見取りだろうに。
どちらにしろ相手が紛れもない本気だということがわかったテツヤはどうしようかと首を捻り、そうして目の前の兄の形相がとんでもないことになっているのに気づいた。
辰也の持っている桐箱がミシミシと不穏な音を立てている。
桐箱って結構簡単に割れるんだなぁと、テツヤは遠い目をした。


「テツヤ」
「……………に、兄様」
「どういうことか、説明してくれるよね」
「……………………………………………………はい」



兄の顔が般若に見えたと後にテツヤは語った。


  • 13.06.04