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異説・とりかへばや物語3


目を開けた時、視界に広がったのは高い天井だった。
それがあまりにも見慣れた自室のものと酷似していたものだから、テツヤは最初ここを都にある権大納言家だと錯覚した。
違うと感じたのはすぐ後、視界の端に映る几帳の柄が自分が愛用しているものと違ったからだ。
テツヤの室にある几帳は季節によって多少は変えられるものの、基本的に濃紺や紫などを使用した、どちらかと言えば涼しげな色合いのものが多い。
姫君の部屋としてあまりにも寒々しいと芙蓉に嘆かれるため、時々は「普通の」姫君が好む淡い赤や桜色の几帳も使うことは使うが、それでも好む色は藤色が多い。
だが、今視界に映っている几帳は鮮やかな紅色を基調としたものだ。
裾に桜の刺繍が施されていて趣味の良さは文句なしだが、はて、自分の室にこのような几帳があっただろうかとテツヤは首を捻った。
そうして思い出される昨夜の出来事。
着崩れた狩衣に身を包んだ、あまり良い印象を与えない無精髭の男達。
抜身の刀を手に厭らしい視線をテツヤに剥けていた複数の男と、テツヤを守るように立ち塞がった大我の姿が脳裏に甦った。

「――――――っ」

慌てて飛び起き、そうして思うように動かない身体にふらりとよろめいた。
テツヤはあまり朝が得意ではない。
起き抜けに身体を動かすと貧血を起こすのだが、今朝も例に漏れず血が足りていないらしい。
何とか床に沈むことは回避したものの、ぐらぐらと回る視界を堪えるように目を伏せて眩暈をやり過ごした。
そうして自身の体調をゆっくりと分析する。
痛む場所はないか、寒気はないか、身体のどこに異常がありどこに異常がないか、深呼吸をする間に冷静に探すのだ。
これはテツヤが幼い頃から行ってきた習慣で、朝起きた時にかすかにでも感じた異常を放置しておいたために生死の境を彷徨う羽目になったことが幾度もあったから、健康になった今でも毎朝欠かすことはない。
自分の身体が弱いことは重々承知している。
ここ最近は寝付くことも少なくなってきたのは健康体になったというより、小さな異変も見逃さないようにすることにより症状を最小限で食い止めているからなどだとテツヤは良く理解していた。
掛け布団代わりの袿にくるまりながら、テツヤは己の身体を動かしてみる。
身体が鉛のように重いのは、おそらく急激に動いたから。
ミシミシと全身の関節が鳴るような錯覚を覚えるこれは、おそらく以前に大我が言っていた「筋肉痛」というやつだろう。
日頃動かしていない場所を動かすと身体が驚いて悲鳴を上げるのだと言っていたのだが、成程、確かに悲鳴を上げるという比喩はぴったりだ。かなりつらい。
他にはないだろうかと思ったテツヤは、足に感じる違和感に気が付いた。
袿から少しだけ足を出してみれば、テツヤの小さな足を覆うように白い布が巻かれてあった。
薬草の匂いがすることから傷の手当をされたのだろうと推察する。
そういえば牛車から下りたテツヤは裸足で逃げたのだ。
普段でさえほとんど歩くことのない足の裏は柔らかく、逃げている最中は気づかなかったが舗装されていない砂利道だったために幾度か小石を踏んだような気がする。
触れるとかなり痛いのでその記憶は間違っていないらしい。
誰が手当をしてくれたのだろう。
普通に考えれば乳母の芙蓉か乳姉妹の小桃だが、2人共ここにはいないはず。
別邸の管理を任せている老夫婦だろうかと思ったテツヤは、そこでようやくこの室内が別邸とも違う事実に気が付いた。

権大納言家は裕福な家だが、別邸はそれほど大きくない。
というのも自宅の大きさに辟易していた先々代の当主――テツヤにとっては曽祖父に当たる人物が隠棲する名目で作らせた屋敷なので、部屋数もそれほどなくひっそりとした佇まいが印象的な邸宅なのだ。
だが、テツヤが今いるこの室は、テツヤの実家程とまでは言わなくても、それなりの広さを持つ屋敷だろう。
テツヤに宛がわれた室の広さもそうだが、テツヤ以外の人の気配を感じさせないのだからかなりの豪邸だということが推察できる。

(一体、ここはどこなのでしょう)

テツヤは屋敷に運ばれた記憶がない。
道中で人と出会ったことまでは覚えているが、その後の記憶がぱったりとないのだ。
大我を助けることしか考えていないから、青年の言葉に安心して気が抜けてしまったのだろう。
テツヤはあの青年に自分の身分を告げてはいない。
大我と合流できたなら大我が話したかもしれないが、ここが別邸でない以上それも怪しい。
果たして大我は無事なのだろうかと袿を羽織り痛む足で立ち上がろうとしたのだが、その途端さやさやと衣擦れの音がして狩衣姿の赤髪の青年が姿を現わした。
テツヤは慌てて几帳の陰に身を隠した。

「目が覚めたと聞いたので。女性の寝所に先触れもせずに悪いね」
「いいえ、こちらこそご無礼をいたしました」

青年がテツヤの前に腰を下ろすなりそう告げてきたので、テツヤは頭を下げたままそう答えた。
扇が手元にない以上顔を上げることができない。
外見上ではテツヤは姫ということになっているので、相手に自分の顔を見せるのはよろしくないのだ。
昨夜のうちにしっかり顔を見られているという事実はこの際置いておく。
一応2人の間に几帳があるとは言っても、几帳は薄いので心許ない。
特に陽当たりのよいこの室内では、薄布でしかない几帳はあまり役に立たないのではないのだ。
そんな事情を知ってか知らずか、目の前の青年はテツヤが頭を上げないことに気付いてほんの少し表情を緩めた。
テツヤはその姿を上目遣いで見る。
月夜で見た時も思ったことだが、とても品の良い顔立ちをした青年である。
白と紫の衣を重ねた白躑躅の衣装が端整な顔立ちを引き立てている。
泰然とした佇まいといい優美な身のこなしといい、とても吉野の田舎に住む人物には見えない。
おそらくは都人――それも、名のある人物に違いない。
何故なら、目の前の青年は兄である辰也に似た雰囲気を持っているし、何よりも他人を従えて当然という雰囲気は余人にはないものだ。
彼が都人ならテツヤの素性がばれてしまうのはあまりよろしくない。
というか、女装した姿を見られること自体テツヤにとっては耐えられないことなのだ。

平伏したままのテツをどう思ったのか、青年は興味深そうにテツヤを見つめている。
何とも居心地の悪い時間が2人の間を流れる。
先に根負けしたのは青年の方だった。

「――君が助けを請うたあの従者だが」
「っ」
「命に別状はないようだよ」
「…ありがとうございます」

じんわりと浮かんだ涙を袖で拭い、テツヤは深々と頭を下げた。
自分の我儘のせいで大我を失うようなことになればテツヤは立ち直れない。
芙蓉にも小桃にも申し訳ないし、何よりも大我自身に対して申し訳が立たない。
大我は辰也が認める程の男だ。
いずれは自分の腹心として育てたいと言っていたくらい彼を気に入っているのだから、辰也に対しても取り返しのつかないことをしてしまうところだ。
本当に良かったと安堵していると、至近距離で衣擦れの音がした。
ふと目線を上げると、そこには几帳の向こうにいるはずの青年がいた。

「っ?!」

一体いつの間にという疑問は当然浮かんだが、それよりも何よりもこの距離が大問題だ。
何しろテツヤは見かけだけは深窓の姫君。
同性の小桃とてこれほどの近距離に近づかれたことはないし、異性ならば尚のことだ。
唯一の例外と言えば辰也や大我だが、彼らは実兄と乳兄弟なので問題外。
そうなるとテツヤの記憶にある限り、他人の男にこれほど近寄られたのは青峰しかいない。

テツヤが慌てて後ろに下がろうとするのを片腕を掴んで引き止めた。
瞬時に袖で顔を隠そうとするので、もう片方の手で顎を掴んで強引に顔を上げさせた。
色違いの瞳がテツヤを見下ろしている。
吐息が触れるほどの距離で。

「………………………っ」
「―――姫?」
「…………ぁ」

その距離がテツヤの忌々しい記憶を引きずり出した。

いきなり屋敷に忍び込んできて「以前からずっと好きだった。どうか自分を受け入れてくれ」と眠っていた自分に覆いかぶさってくるなり唇を奪われたあの悪夢が甦ったのだ。
この青年が青峰と同じことをするとは思わないが、あの日の恐怖は骨身に刻み込まれている。
大きな腕でテツヤの身体を拘束し、嫌だと泣く声すら無視して強引にテツヤを自分のものにしようとした青峰の欲に濡れた顔は忘れることができない。
同じ男だというのに圧倒的な力の差に打ちのめされたあの記憶は、テツヤの男としての矜持を砕け散らせると同時に「女」としての身の危険を痛感させた。
それ以来テツヤは男性が苦手だ。
送られてくる文すら下心の塊としか思えなくなり、それまでは頻繁に返していた返歌も滞りがちになったのだ。
青峰以外の数多の求婚者にとってはとんだとばっちりである。

「…すまない」
「…………いえ」

瞬時に青ざめたテツヤを見て何を思ったか、青年は手を離してテツヤから距離を取った。
とは言っても几帳の内側に入り込んでいるためその距離は決して離れているとは言えない。
テツヤは袖で顔を覆ったまま、自由になった手で震える己の身体を抱きしめた。
女装姿を見られることも情けないというのに、同性に手を取られたくらいで震える身体が情けなくて仕方ない。
おのれガングロとテツヤは忌々しい記憶の元凶である色黒青年に呪いの言葉を吐いて、落ち着くように深呼吸をした。
目の前の青年は命の恩人。
テツヤは勿論、大我の命の恩人でもあるのだ。
青峰と一緒にしては失礼だ。
ようやく落ち着いてきた鼓動を確認して、テツヤは幾度目になるかわからない青年へと頭を下げた。

「こちらこそ失礼を致しました。恩人である貴方様に度重なる非礼、どうぞご容赦くださいますよう」
「やめてくれ、僕は何もしていない」
「ですが、家人をお救い下さったのは貴方様でございますれば」
「その家人だが、まだ薬で眠っているが顔を見たくはないか」
「っ、よろしいのですか?!」

思わず顔を上げてしまい、面白そうにこちらを見下ろしている双眸と目があってテツヤは羞恥に顔を赤らめた。
相手の思惑にはまったようで何やら悔しい。
だが、大我が心配なのは事実。
顔を見たところで何ができるとは思えないが、それでも無事だということを一目なりとも会って確認したかったのだ。

「では、案内しよう。――あぁ、その足では歩くのに障りがあるね」
「何を――――ひゃっ」

青年が一歩近づいたと思う間もなく、テツヤの身体は床から浮かび上がった。
青年に抱き上げられたのだと気づいたのは、至近距離にある双眸が悪戯っぽく瞬いたからだ。

「やっ、下ろして―――っ!」
「あぁ、ほら危ない。暴れると落ちてしまうよ。――そうそう、しっかり僕の首に手を回しておくんだ、いいね」
「……………」

身をそらせば手の力を緩められて、テツヤの身体がぐらりと傾いた。
落ちると思った瞬間に抱え直されて咄嗟に青年の首にしがみついたのだが、どうやら青年はその体勢に満足したようで、その後は悪戯されることなくテツヤを別室へと運んでくれた。
狩衣に焚きしめられた香は、やはり辰也と同じ荷葉だった。
甘みが強い辰也と違い、薄荷の香りが若干強いそれは、もしかしたら自分流に調香したものかもしれない。
凛とした青年にはとても良く似合っている。
とはいえ名前も知らない見ず知らずの男性に密着していることに恐怖を感じないことがテツヤには不思議だった。
青年の持つ雰囲気のせいだろうか、流石にいきなり腕を取られた時には嫌な記憶が甦ってきたが、こうして抱き上げられてしまえば感じるのは羞恥心のみだ。
勿論油断できない人物だということは分かっている。
だが足を怪我しているテツヤは歩くことができないので、移動しようと思えば誰かの手を借りなければならないのは当然で、この場に青年と自分しかいない以上彼に頼る以外に方法はないのだ。仕方ない。
頬が熱いのは気が付かないふりをしておくことにした。







   ◇◆◇   ◇◆◇







テツヤに宛てがわれていた室より少し劣る室に大我はいた。
貴人であるテツヤと従者である大我では待遇が違って当然だが、それでも客人として認知されたのか単なる従者に与えられるには十分過ぎるほど立派な室内だった。
その中央に大我は寝かされていた。
胸元や腕に巻かれている布はじんわりと赤い染みが出来ており、その傷の深さをテツヤに教えている。
薬で眠っているというのは鎮痛の目的もあるのだろう、それほどに大我は満身創痍だった。
精悍な顔にも幾筋か傷痕があり、テツヤの怪我など比較にならないほどに治療した痕があった。
頬に触れると指先にぬくもりを感じ、ようやく安堵したように息をついた。
病人の傍にいるのは穢れが移るからと言われてすぐに室に戻されてしまったが、ほんの僅かな時間であっても大我の様子を知ることが出来たのは嬉しい。
大の大人3人を相手にしても一歩も引けを取らなかったということもそうだが、何よりも彼が無事であったという事実がテツヤには重要だった。
来た時と同じく青年に抱きかかえられて室に戻ったテツヤは、青年と相対していた。

「従者の命を助けていただき、ありがとうございました」

深々と頭を下げるテツヤに青年は良いと言わんばかりに扇を振った。

「困った人を助けるのは当然のことだ。礼を言われるようなことじゃないよ」
「ですが、貴方様に逢わなければ従者は勿論、私の命もなかったことでしょう。どうお礼を申せばよいか……」

テツヤがそう言えば青年の口角がほんの少し持ち上がった。
そうすると猫のような印象を与えるのだとテツヤはその時に初めて気づいた。―――否、猫というよりは猛禽の類か。
瞬時に感じた悪寒の正体に気付かずテツヤが首を捻った。
色違いの瞳がテツヤの双眸を射抜く。

「見返りが欲しくて助けたわけではないが」

扇で口元を隠し、青年がくすりと笑う。
外は日が落ち、室内の灯りは先程用意された燭台の小さな光のみ。
微かな風に揺れて形を変える炎のせいでその美貌が妖しいもののようにテツヤには見え息を呑んだ。
青年の手元で弄ばれていた扇がピタリとテツヤに向けられる。

「礼というなら今宵の伽でも務めてもらおうか」
「――――」

告げられた言葉の意味を理解できなくても無理ないだろう。
何しろテツヤは箱入り。
貴族の嗜みとして物語はほぼ全て熟読しているが、その姫君と自分が重なることはなかった――今までは。
「伽」という言葉がどのような意味を持つか理解するのに数秒、そして何を言われたのか言葉の意味を把握するのに更に数秒。
赤から青へと変わっていく顔色を青年は楽しそうに眺めている。
揶揄われたのだと理解したテツヤは、痛む足のことなど忘れて立ち上がった。

「私が世間知らずなのは自分でも存じております。ですが、このように揶揄われる謂れはございません」
「揶揄うなどとんでもない」
「なら、尚のこと酷うございます」

親切な青年だと思ったのに、このような品のない戯れを仕掛けてくる相手だとは思わなかった。
深窓の箱入りであるテツヤは恋愛の手練手管を知らない。
知っていても同じ行動を取っただろう。
何しろテツヤは男だ。同性である青年と恋の駆け引きなどするつもりはない。
怪我をした足で、同じく怪我をした大我を連れてどうやって別邸まで帰るかという現実的な問題は頭になかった。
根性を出せばどうとでもなるだろうと思っていたし、実際どうにかするつもりでもあった。
再び夜盗に襲われたら最後ということすら頭になかっただろう。
テツヤは頭に血が上ると他のことは考えられなくなってしまう一面もあるのだ。

「短い間ですがお世話になりました。このお礼は後日家を通じてさせていただきたく存じます」

明らかに社交辞令とわかる態度で礼を告げると、テツヤはそのまま大我がいるであろう部屋に向かって歩き出した。
若干足に違和感があるが歩けないほどではないのが幸いだ。
そのまま青年の脇をすり抜けようとして――不快そうに眉を顰めた青年によって身体を拘束された。
先程は怯えたが、同じ行動が2度も通用するはずがない。
何よりもテツヤは怒っているのだ。

「お離しください」

キッ、と青年を睨みつけるが、青年が堪えた様子は見られない。
それどころか更に面白そうに目を細めてテツヤを見据える。

「嫌だと言ったら?」
「大声を出します」
「ここは僕の屋敷だよ」
「っ、それならば暴れます」
「それも良いね。――でも」



男だということが世間に知れても良いのかな。



耳元で囁かれた言葉にテツヤの息が止まる。

「な、ぜ…それを……」

自分で言うのも何だがテツヤの外見はどこからどう見ても女性だ。
外見も仕草も、そして成長しきっていないテツヤの声も少し聞いただけでは女性と間違えられるほどだ。
単衣姿のテツヤに抱きついた青峰でさえ、テツヤの性別には気づかなかった。
不本意だが病弱で細身な女性としか思われないテツヤの外見を、一目で見抜いた相手は今までいなかったというのに。
意識がない間に裸を見られたのかと思ったが、目覚めた時のことを思い出せばその可能性も低い。
では、抱き上げられた時に女性の柔らかさがないと気づいたのだろうか。
それにしては、目の前の青年の態度は一貫して変わらなかった。

驚愕に見開かれた空色の瞳に青年が満足そうに笑った。
こんな時だというのにそれはとても艶やかで美しい。

「僕の目を誤魔化せると思わない方が良い。最初から気づいていたよ」

くつくつと面白くてたまらないと言った様子で笑う青年にテツヤは何と答えて良いか分からなかった。
自分の性別を見誤らなかったことは正直嬉しいが、この状況ではとてもじゃないが喜べない。
というか女性の自分に手を出そうとしていたのならともかく、男であるとわかっていて伽を命じようというのは物凄く悪趣味だ。

「さて、権大納言家の黒子姫。このまま僕に抱かれて北の方となるか、女装の若君として都で笑いものになるか。君はどちらを選ぶ?」
「卑怯な…っ」
「何とでも」

人の顔に拳をめり込ませてやりたいと思ったのは生まれて初めてだ。



テツヤは近づいてくる双眸を睨みつけたまま、理不尽な要求を突き付けてきた男の唇を受け入れた。


  • 13.05.21