噂というのは本人の預かり知らぬところでひっそりと広まっていくものである。
気が付いた時には既に遅く、それは取り返しがつかないところまで来ていることがほとんどで、今回もまた当事者に何一つ知らされることのないまま事態は思わぬ展開へと進んでいった。
「ねぇ、聞きまして? あの話」
そんな言葉から始まった今回の騒動は、正に宮中を大混乱に陥れたと言っても良かった。
「氷室っち!」
公務を終了して帰宅しようとしていた辰也を鋭い声が呼び止めた。
宮中ではあまり褒められた行為ではないが、それだけ彼の動揺が大きいのだと呼び止められた辰也はゆっくりと振り返った。
そこにいたのは黄瀬の君。
役職で言えば頭中将であり辰也と同じく従士四位の位を賜った公達だ。
烏帽子に直衣姿の彼は流石に眉目秀麗の誉れが高いだけあって凛々しい美しさに溢れている。
だが普段の優雅さをかなぐり捨てて辰也を呼び止めた黄瀬は、そのまま辰也の直衣を引っ張り物陰へと引きずり込んだ。
顔には「不満」とありあり描かれている。
はて、自分は彼に何かをしただろうかと思うのも当然だろう。
「どういうことなんスか?!」
「どういうことって、何がだい?」
「今更とぼけないでほしいっス! 俺があれほど黒子っちに求婚していたの知ってるくせに!」
「ちょ…、落ち着いて」
ぐいぐいと腕を引っ張る力は強くて痛い。
余程興奮しているのだろうと思えば強く振り払うのも躊躇われるが、やはり痛いものは痛い。
辰也はやんわりと己の腕を掴んでいる黄瀬の手に触れて離すように促した。
「あ、ごめん…」
「君が妹に求婚しているのは知っているよ。だけど、俺は手を貸すことはできないと何度も言ってあったはずだけど」
冷静に落ち着かせるようにゆっくりと告げれば、辰也の態度に毒気を抜かれたのか黄瀬がぽかんと辰也を見下ろした。
おそらく求婚者同士の間で何やら競争でもしていて、黄瀬以上にテツヤと懇意にしている人がいるとでも思い、それを辰也が協力したと勘違いしているのだろうと思っていたのだが、黄瀬のこの様子を見るとそういうわけでもなさそうだ。
そもそも辰也はテツヤに求婚してくる公達には総じて非協力を貫いている。
何せ中身は男なのだ。
女装を日々嘆いている可愛い弟を知っている以上、どれだけ良い人物であっても協力などできるはずがない。
だが黄瀬はそんな辰也を不思議そうに見ている。
「え………、もしかして氷室っち、知らないんスか?」
「何が?」
「何って……黒子っちの入内話っスよ」
「何、だって……?」
辰也の涼やかな双眸が見開かれた。
寝耳に水である。
黒子姫――基、テツヤが入内など出来るはずないことは辰也も良く知っている。
本人にその気がない上に、父である権大納言もその件に関しては頑として首を縦に振らなかったはず。
むしろ入内なんかしてしまった日には、一族郎党死罪間違いなしの大罪だ。
得るものなど1つもない。
どこがどうしてそんな事態になる可能性などあるのだろうか。
愕然としている辰也の様子を見て、氷室っちも知らなかったんスかとうなだれるのは黄瀬である。
「俺もつい先ほど聞いたんス。何でも宮中の女房連中には有名な話だとか。黒子姫と言えば当代2大美女と名高い姫。主上も入内に乗り気だということで勅使が下るのは時間の問題だって。弘徽殿女御と梅壷女御が戦々恐々としてるって言ってるっス」
「馬鹿な…あの子は入内なんて無理なのに…」
「俺、嫌っスよ。主上は良い方ではあらせられるけど、でも御年40歳っスよ。3人の女御と2人の更衣、それ以外にも数多の御手付き女房がいるじゃないっスか。皇太子はまだいないけど皇女も5人いるっていうのに、今更黒子っちまで入内させるなんて酷いっス」
だが断ることはできない。
今上帝の要請を拒否するということは政治生命の終わりを意味している。
まさに進退窮まった状態である。どうする。
「父上――権大納言様はどうした?」
「控えの間で噂を聞いたら慌てて飛び出していっちゃったっス」
「だろうな…」
良くも悪くも権力欲のない父である。
彼がこの件に関して無関係だったことは喜ばしい。
だが、ここまで噂が広がっている以上、いくら父であっても防ぐことは不可能だろう。
辰也は落ち込む黄瀬を放置して自宅へと急いだ。
案の定、屋敷の中は大騒動になっていた。
事の大きさに驚愕しつつ右往左往している者がほとんどだが、母に仕える女房などは明らかに浮かれている。
「うちの姫様なら間違いなく主上の御寵愛をいただけますわ」
「姫様以上に美しい御方はございません」
「ようやくこの日が…私共は待ち草臥れてしまいました」
などなど、テツヤの性別を知らない者ならば喜んで当然だろうが、彼女達はテツヤが誕生した瞬間に立ち会っている。
つまり、テツヤの性別を熟知しているはずなのだが、母と一緒で綺麗すっきり記憶から抜け落ちているのだろうか。
入内などしたらとんでもないことになるのだが。
とりあえず彼女達は放っておくに限ると辰也は判断してテツヤの住まいである西の対へと足を運べば、そこは母の暮らす北の対とは比べものにならないほどの静けさだった。
テツヤに仕える女房の半数はテツヤの性別を知らない。
純粋に喜んでいる女房もいないわけではないが、それよりも事情を知る女房達の落ち込みが激しかった。
さて、我が愛する弟はどうしているだろうかとテツヤがいるだろう部屋へ足を踏み入れたたものの、そこは既にもぬけの殻だった。
彼女が普段愛用している脇息は無造作に倒れ、文机には返歌の書きかけた料紙が残されたまま、部屋の主の姿はどこにも見えない。
「姫……?」
事情を知らない女房がいる前でテツヤの名前を呼ぶわけにもいかずいつものように「姫」と呼んだのだが返事はなかった。
女装姿を見られることを良しとしていないテツヤだから来客の多い屋敷の中を歩き回ることなどないため部屋にいないという可能性を考えていなかった辰也は悪くない。
屋敷内の様子を考えると、テツヤが自身の入内話を聞いてしまったのは間違いない。
意外と行動力のあるテツヤのことだ。
どういう行動を取るか、長年兄をやっている辰也には想像がついた。
だがしかしあまりにも行動が早いんじゃないかと思うのは仕方ないだろう。
何しろ辰也が聞いたのもつい一刻前なのだから。
朝はまったく変わりがなかった弟の様子を考えると、事情を知ったのは辰也とほぼ同時刻と見て間違いがないというのに。
流石我が弟、やることが早いと見当違いの感心をしているのは、多分辰也は自分で思う以上に混乱していたのだろう。
だがしかし、そう呑気にしていられないのが現実で、辰也は申し訳なさそうに平伏している女房の1人へと視線を向けた。
年齢は30代前半。
だが見た目は20代後半という女房は幼いテツヤを母代りとなって育てた乳母である。
当然ながらテツヤの性別を知っている。
「芙蓉」
「はい、何でしょうか。若君」
「黒子姫はどこに行ったのか」
そう訊ねれば、彼女はどこか言いづらそうに視線を彷徨わせた。
辰也の瞳がすぅっと細められる。
答えられないということは、屋敷内にテツヤがいないことを表している。
「あの子はどこに行ったのかと聞いている」
「申し訳ありません。わたくしの口からはとても……」
「俺はどこにいるのかと聞いているんだ」
「姫様からは『勅使が来てからでは間に合わない。僕は逃げます』とだけ」
「それで、あの子はどこに逃げたんだ」
「さあ……」
「 芙 蓉 」
「吉野にございます」
普段怒らない辰也は怒るとこの上なく怖い。
特にテツヤが絡むと日頃の温厚さはどこに行ったのかと思うほどに冷酷になる辰也である。
女性に対して無体を強いることはないけれど、必要とあらば解雇でも放逐でも容赦なく行うだろう。
権力の行使とて吝かではない程には、辰也はテツヤが絡むと見境がない。
もっともそれだけ不憫な弟を大事に思っているからなのだが。
とりあえず声が低くなった辰也に逆らうのは自殺行為だと、屋敷に仕える女房は全員知っている。
テツヤ本人からは「内緒にしていてくださいね、特に兄様には」と念を押されていたのだけれど、こればかりは仕方ない。
可愛い若君の頼みは聞いてあげたいけれど、何と言っても我が身が大事である。
辰也に溺愛されているテツヤだって辰也の怒りが怖いのだ。
それは当然のことながら芙蓉にとっても同様である。
むしろ使用人である以上、嫡男の言葉に逆らっては職か命かどちらかを失うことになる。
芙蓉の天秤があっさりと傾いたとて誰が責められるだろうか。
吉野と聞いて辰也の表情がほんの僅かだが緩んだ。
吉野はテツヤにとって縁の深い土地だ。
生まれてからほとんど屋敷から出たことのないテツヤが、唯一足を運んだことのある場所なのだ。
テツヤは毎年夏になると、都の暑さから逃れるように吉野へ避暑に赴いている。
身体の弱いテツヤに都の暑さは大敵だったからなのだが、そのせいか他の土地に比べて吉野はまだ土地勘があると言っても良いだろう。
尤も土地勘があるとは言っても、せいぜい別邸の周辺しか知らないので危険なことに変わりはないのだが、それでも見ず知らずの土地へ行くよりはましである。
吉野にある権大納言家の別邸に務める者たちもテツヤのことを良く知っているから、面倒を見る者がいなくて体調を崩すということもないはず。
とはいえ、今上帝からの勅使が来るというのに当人であるテツヤが屋敷にいないというのは問題がある。
入内の宣下が下されてしまえば一貫の終わりではあるけれど、勅使を怒らせてしまっても同様だ。
幸いテツヤの身体が弱いことは都中に知られていることだから、体調が悪くて臥せっていると言えば数日は時間稼ぎが可能だろう。
だがそのためには替え玉がいる。
病床の姫君の臥所まで勅使が足を運ぶような無作法をするとは思えないが、何しろ相手は帝の勅使である。
どのような無礼もまかり通る相手なのだから対策は万全に練らないといけない。
さてどうしようと思った辰也の視界に入ってきたのは、テツヤの乳姉妹である小桃の姿。
芙蓉は乳母として屋敷に上がる際に、生まれたばかりの小桃と、前年に生まれた長男を連れてきた。
幼い頃からテツヤの乳兄妹として育った芙蓉の子供たちはそのまま権大納言家に仕えるようになり、現在兄の大我は辰也の随身を務めたりテツヤの護衛を務めたりしている。
そして妹の小桃はテツヤの身の回りの世話を行っているのだ。
いつでもテツヤの傍に控えている兄妹ではあるが、今回は妹だけ留守番になってしまったらしい。
不満そうな顔をしているところを見ると、相当不本意だったのだろう。
小桃の主への献身ぶりは屋敷内でも評判になる程、彼女はテツヤを主として慕っている。
淡い恋心かと思いきや、理想の姫君として憧憬を抱いているというのでテツヤとしては若干複雑らしいが。
そのようにテツヤを理想として育ったせいか、小桃は完璧な立ち居振る舞いを備えていた。
テツヤのような線の細さはないが、それでも姫として身代わりにしても十分に通じる程愛らしい外見でもある。
小桃に勅使を騙せるほどの演技力があるとは正直思えないが、時間がないのも事実。
その証拠のように母屋が騒然としてきている。
おそらく勅使が到着したのだろう。
辰也は涼やかな視線を弟の乳姉妹へと向けた。
「小桃」
「は、はい」
「今すぐ女房装束を着替えなさい。姫が行方知れずの今、勅使に悟られるわけにはいかない。お前には黒子姫のふりをしてもらう。『折角の申し出ではございますが、生憎体調が優れぬためすぐにお受けすることは敵いません』と、丁重にお断りするように。決して替え玉だと悟られてはいけないよ」
「えぇっ?!」
「芙蓉、彼女の着替えを」
「承知いたしました。さぁ、小桃――いえ、黒子姫様。御仕度を」
「え? えぇっ?! 若様! 母様! 本気ですか?!」
「俺が偽りを言ったことが?」
「………………………ありません」
うなだれる小桃を芙蓉が奥の部屋へと引っ張っていった。
(これで時間は稼げる。後は――――)
どうにかして今回の件を白紙に戻すか。
それが最大の難関だった。
◇◆◇ ◇◆◇
ガラガラと、轍の音が静かな空間に響く。
牛車の中には1組の男女。
お互い無言なのは険悪だからというわけではない。
「………なぁ」
「……………」
「こんなことしても何の解決にもならないぞ」
「……………」
「殿や若君に助けてもらった方が良かったんじゃないのか。大体お前1人で家を出て何が出来るんだよ」
仕える家の姫君――基、若君に言うには不遜すぎる言葉遣いで従者である大我は目の前で憮然としているテツヤに声を掛ける。
至極常識的なことを言っているはずなのに、目の前の美姫から返ってきたのは不機嫌極まりないという表情と冷たい一言。
「五月蠅いですよ」
ぷいと顔を背ける姿は可愛いが、生まれた時から一緒にいる大我には通用しない。
むしろ男だとわかっているからこそ容赦がない。
つんと横を向いている白くて滑らかな頬をぎゅっと抓んで引っ張ると、餅のように柔らかい肌は面白いほどに伸びた。
「ひひゃいでふ、らいらひゅん」
「やかましい。親切で忠告してやってるのに五月蠅いとは何だ」
「らっへ……」
ぐにぐにと引っ張られて言葉が上手く話せない。
手加減はされているのが地味に痛い。
先程からの言葉遣いといい今の行動といい、とてもじゃないが主君に対するものでないのはお互い承知だが、これはテツヤが望んだことなのでテツヤも咎めるつもりはない。
生まれた時から一緒に育っただけでなく、同じ女性の乳で育ったということもあり、テツヤは兄の辰也の次にこの大我に懐いている。
そのため身分で言えば天と地ほどの差があるというのに、テツヤは大我に敬語を使わせない。
勿論他人の目がある時は通常の主従として接しているが、2人きりもしくは小桃や辰也がいる時はただの友人として接するように頼んだのだ。
当然だが大我は猛反対した。
それもそうだろう、権大納言家と言えば実は名門中の名門だ。
権大納言の父は関白左大臣。
しかも左大臣は現在高齢のため病床にあり、近い将来権大納言が左大臣に就任するのは確実なのだ。
当然嫡男である辰也は将来国の中枢を担う人物になるし、テツヤとて男に戻れば出世間違いなしの有望株だ。
そんな名家の姫であり、しかも都で一・二を争う美姫と噂されるテツヤに不遜な態度を取っているのが露見すれば、大我は速攻で解雇間違いなしなのだから。
だがそう言えばテツヤは怒った。
「僕と大我くんの間に身分なんて関係ありません。友達――むしろ兄弟じゃないですか」
言う台詞は涙が出るほど有難いものだった。
だが大我は別の意味で泣いた。
というのも台詞と同時に抉るような拳が大我の脇腹に繰り出されたからだ。
年頃になったテツヤが無頼の輩に襲われるかもしれないという危惧から辰也が教えた渾身の一撃である。
非力なテツヤでも威力のあるものをと教えた攻撃をこの時初めて喰らったのだが、大我が予想していた以上に攻撃力があった。
あまりの衝撃に床に沈みこんだあの日を大我は生涯忘れられないだろう。
そんな哀しくも懐かしい記憶に想いを馳せた大我ではあったが、思考が脱線しているのに気づいて慌てて軌道を修正した。
「で、帝の勅使から逃げて吉野くんだりまでやってきて、その後はどうするつもりなんだよ」
「……………………………………どうしましょう?」
「あぁ、もうっ」
困ったようにこてんと首を傾げられて大我は頭を抱え込んだ。
この状況、下手をすれば姫に横恋慕した大我が身分を顧みずに黒子姫を拉致したと取られてもおかしくないのだ。
権大納言家の牛車を使用していることや逃亡先に権大納言家の別邸を選んだということは理由にならない。
勅使から逃げたテツヤや権大納言家を守るには、不埒な想いを抱いた大我の犯行とするのが最も都合が良いのだ。
名門の家とたかが乳兄妹である大我。
テツヤの父である権大納言がどちらを守るかと言われれば答えは簡単だ。
テツヤ以上に大我の方が進退窮まっているのだが、屋敷の奥深くで生活していたテツヤは当然ながらその事実に気付いていない。
何しろ帝が勅使を立ててテツヤを入内させるかもしれないという情報を聞き入れたと同時に大我の腕を引っ掴んで牛車に飛び乗ったのだ。
無計画も良いところである。
「だから、若君が戻るのを待てば良かったんだ」
恨めしそうにそう言ってしまう大我は悪くないだろう。
何せ命がかかっている。
テツヤ大事の辰也がこの事態を放置するとは思えないのだから、大人しく辰也が帰宅するのを待てばこのような行き当たりばったりな状況になど陥らなかったはずだ。
少なくとも大我の身の危険はなかった。
外はすっかり夜になっていた。
都を飛び出したのが陽も傾いた時刻だったのだ。
のろのろと進む牛車での移動なのだから無理もない。
とはいえ牛車より速い移動と言えば馬しかなく、どこからどう見ても深窓の姫君であるテツヤを乗せて馬で移動なんかした日には、間違いなく誘拐犯である。
身分のある女性は決して素顔を晒したりしないのだから。
そしてテツヤの体力を考えてもそれは却下だった。
馬の移動は想像以上に体力を消耗する。
ただ乗っているだけでもかなり疲れるのだから、非力なテツヤを伴って移動すれば別邸に着くと同時に倒れて人生何度目かわからない生死の境を彷徨うことになるだろう。
健康になったとは言ってもテツヤの体力は常人のそれとは比べものにならない。
この分ではあと半刻ほどで別邸に着くだろう。
突然やってきても不備のないように整えられているはずだから、別邸に到着してすぐに寝かせれば熱を出すこともないだろうと、とりあえず今後のことに頭を巡らせていた時、牛車が車輪を軋ませて停止した。
そして聞こえてくる複数の足音。
「―――――何だ」
大我は己の腕にテツヤを引き寄せて守りながら、外にいるであろう牛飼い童に誰何した。
ややして震える声が返ってきた。
「人が……っ、夜盗です!」
「くそっ」
都の治安もそれほど良いとは言えないが、都から一歩出てしまえば治安の悪さは想像を絶する。
往来では盗賊の類が横行しているし、中には徒党を組んで貴人を狙う者も少なくないのだ。
そういう理由もあって女車ではなく比較的身分の分かりづらい網代車にしたのだが、それでも盗賊達は身分ある者を見つけるのが上手い。
生憎こちらは金目のものなど持っていないが、金がなくても見た目だけは極上のテツヤがいる。
このご時世、女は高く売れるのだ。
しかも貴族の姫君と言えばどれほどの値がつくことだろう――生憎テツヤは男なのだが。
足音から推測するに、敵は5人。
手練れかどうかはわからないが、人を襲うことに慣れている連中だと思って間違いないだろう。
一応武術の嗜みはある。
権大納言家に仕える武士から直々に手ほどきを受けているのだ。
だが、身を守る術を持たないテツヤを守りながら戦い切れるかと言われれば正直難しい。
しかも牛飼い童は2人より年下の13歳。
こちらも武術の嗜みなどないものだから、大我は実質2人を守って戦わなければいけないのだ。
どうしようかと悩む間もなく、大我はテツヤを腕に抱いたまま牛車から飛び降りた。
ほぼ同時に外から刀が突き刺されたのを横目で確認し、大我はそのまま片腕でテツヤを抱きしめたまま刀を一閃させた。
声もなく地に伏せた男の人数は2人。
突然の反撃に他の男は驚いたようだが、大我の腕の中にいるテツヤを認めて男達の目がギラついた。
「その姫さんを置いていけば命は助けてやるぜ」
「そうそう、男には興味ないからな」
「身ぐるみ剥がれるけど、死ぬよりはマシだろう」
下卑た笑い声を発する男達を睨みながら、大我は目線で牛飼い童を呼び寄せた。
怯え震える牛飼い童にテツヤを押し付け、そのまま己の背後に続く道へと促す。
「―――逃げろ」
「えっ、でも……」
「お前ら守って戦うのは無理だ。こっちだって実戦は初めてなんだ。この道を進めば別邸があるんだから、そこまで自力で走れ」
「嫌です、大我くん!」
ぐい、と背中を押され走り出そうとした牛飼い童に腕を引かれながらテツヤが叫んだ。
夜盗に襲われるとは思ってもいなかったのだろう、月夜に照らされた瞳には涙が浮かんでいる。
相手は屈強な体格の大人3人。
対してこちらは大我1人だ。不利なんてものではない。
己の突発的な行動が乳兄弟の命を危険に晒しているという事実にテツヤの瞳から透明な涙が零れた。
だが大我は安心させるように笑った。
「大丈夫。俺は強いからな。だけど人を守りながら戦うなんて器用な芸当できないから、お前らがここにいる方が正直つらい。屋敷に逃げて応援を呼んできてくれよ」
それは若干強張っているものの、テツヤの足を動かすには十分過ぎるものだった。
「っ、わかりました。絶対無事でいてくださいよ!」
そのまま後ろを見ずに走っていく小柄な2つの後ろ姿を見送り、大我は目の前の男に対峙した。
正直勝てるかわからない。
武術は学んでいるし筋は良いと言われているけれど、こうして敵と直接対峙するのは初めてだからだ。
だが、負けるつもりはさらさらない。
何せ自分が死んだらテツヤが悲しむのだから。
「主の命を守るのが俺の仕事なんだ。悪いが全力で邪魔させてもらおう」
そうして大我は辰也から下賜された刀を構えた。
◇◆◇ ◇◆◇
走って、走って。
一体どれほどの時間が経ったのかテツヤにはわからない。
ただ、言われるままにテツヤは道を走り続けた。
夜の闇も濃くなり、人の気配は全くない。
身一つで逃げているテツヤにとって頼りになるのは月の光だけだ。
今日が満月なのが幸いして足元に不安はないが、果たしてあとどれだけ走れば別邸に辿り着けるのだろうか。
牛飼い童とは逃げている途中ではぐれてしまった。
恐怖で我を忘れている少年の走る速度にテツヤがついていけなかったのだ。
牛飼い童を責めるつもりはない。
渋る彼を無理やり屋敷から連れ出したのはテツヤで、生まれて初めて出会う夜盗は魑魅魍魎の如く恐ろしい存在だっただろう。
彼が先行して警護の兵を少しでも早く大我の元へ遣わせることができればそれで構わない。
(とにかく、急がないと…)
息も絶え絶えになりながらテツヤは走る。
生まれてからこのかた運動らしい運動をしたことない身体は悲鳴を上げているが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。
生まれて初めての我儘が大我の命を危険に晒してしまったという事実がテツヤの足を止めないのだ。
息苦しさと後悔からテツヤの瞳からはとめどなく涙が流れている。
それを乱暴に手で拭ってテツヤはひたすらに前を見ながら走り続けた。
酸欠と体力の限界と、裸足で走り続けてきたために痛む足がテツヤを苛む。
だが、大変なのはテツヤよりも大我なのだと、折れそうになる心を何とか繋ぎ止めながら、少しでも前へと身体を動かし続ける。
「――――ぁっ!」
足元にあった石につまづいたテツヤの身体が大きく前に傾いた。
疲弊しきった身体は上手く動かない。
そのまま倒れると思ったテツヤは、衝撃に耐えるようにただ目を瞑ることしかできなかった。
だが、すぐに訪れるかと思った衝撃はなく、代わりに大きくて柔らかいものに包まれているのを感じて目を開いた。
「大丈夫か?」
月光の光に照らされたのは、見たこともない青年だった。
大我と同じような髪色と、心の奥底まで見透かすような眼差しが特徴的な美丈夫。
明らかに貴族然とした品の良さそうな青年が、倒れそうになったテツヤを抱き留めていたのだ。
一体いつの間にこのような距離にいたのか、テツヤは全く気付かなかった。
前を見て走っていたつもりだったのだが、あまりの疲労に視界が狭くなっていたのかもしれない。
青年は息も絶え絶えなテツヤを安心させるように、ゆっくりと背中をさすっている。
見ず知らずの男性に触れられているというのに嫌だと思わない自分が不思議だった。
おそらく緊迫した状況だったからそんな余裕などなかっただけなのだが、その時のテツヤにはわからないまま、ただ不思議そうに目の前の青年を見つめるしかできなかった。
「何があった。説明できるな」
「は、い………。夜盗、が……連れを……」
何とかそれだけを告げ、今まで走ってきた道を指さす。
それだけで青年は状況を察したのだろう。
背後に控える背の高い男性に目線をやり、紫髪の男性が心得たように走っていくのが見えた。
「もう大丈夫だ。あの男は武術に長けている。安心するといい」
「ほ、んと……です、か…?」
「僕は嘘は言わない」
その言葉で張りつめていた緊張が一気に解けた。
青年の衣から漂ってくる兄と良く似た香に安堵したというのもあるのだろう。
誰とも知らぬ青年の腕の中、テツヤの意識はそこで途切れた。
- 13.05.21