…何だかねぇ。
あたしが一体何をしたって言うの?
あ〜、いい天気。
うららかな陽射しを全身に浴びながら、あたしはベランダで優雅にティータイムなんてしてますよ。
ちなみに現在午前10時半。
もちろん平日である。
よい子の皆は学校で勉強に励んでいるというのに、何故あたしがどこぞの有閑マダムよろしく平日のこんな時間に、マイセンのティーカップを片手に洋書なんか開いているのでしょう?
その答えは昨日まで遡る。
記憶喪失になったあたしが自宅の場所を覚えているはずもなく、跡部君に自宅まで送ってもらうことになった。
最初は全員で送ろうとしてたんだけど、自分よりもはるかに長身の美形集団に囲まれて自宅に戻るのもアレなので、さすがにそれは断った。力ずくで。
あたしの肩に手を回して車までエスコートしようとした眼鏡を、一本背負いで再び地面に沈めて「来ないでね」とにっこり微笑んだら、皆は快く納得してくれた。
何だ、物分りのいい人たちじゃん。
どうしてもついて来ると言ってきかなかったジロー君は、樺地君が首根っこを引っ掴んで連れていった。
跡部君に送られて自宅に来ると、何だかとっても静まり返っていた。
綺麗なデザインの家だ。
周囲の分譲住宅らしき家とは明らかに違うその造りは、結構あたしの好みかも。
ここがあたしの家ねぇ…。
表札には『』と書いてあるから、多分そうなんだとは思うんだけど。
なんだか綺麗なモデルハウスを見ているような感じ。
本当にここに住んでたんだろうか。
う〜ん、やっぱりわからないや。
「お邪魔しま〜す」
まるで他所の家に勝手にお邪魔しているような感覚で家の中に入ると、家の中には誰もいなかった。
変わりにリビングのテーブルの上に一枚の手紙。
『愛しのちゃんへ
パパの有給が取れたので
パパとママは今日から10日間タヒチへ旅行に行ってきます。
当然のことですが、連絡は一切つきません。
ちゃんはしっかりしてるから10日間くらい留守番してても
大丈夫よね?
ちなみにお姉ちゃんはサークルの合宿とかで
帰ってくるのは来週です。
寂しかったら景吾君の家にでも遊びに行っててね。
P.S.
お土産期待してて。
貴女のパパとママより』
……。
何ですか、この頭の悪そうな文章は?
意外と家族と話したらあっさり記憶戻ったりしないかなぁなんて楽観的な希望を抱いていたもんだから、能天気さのにじみ出てる文面を見たら一気に脱力した。
娘が記憶喪失なのに、呑気に旅行ですか!?
しかも連絡一切つかないのですか!?
つーか景吾君って誰?
それにさ。気のせいじゃなければ、あたしってば中学生だよね。現在義務教育真っ只中だよね。
年頃の女の子だよね。
そんな女の子1人放って、夫婦で海外旅行するなよっ!
しかもタヒチ!
タヒチって言ったらフランス領で水上コテージでポリネシアンダンスじゃないの(意味不明)。
畜生、あたしも行きたかった…。
「おい、。何固まってんだよ」
いつの間にか部屋に上がってきた跡部君が、あたしの背後からそう訊いてきた。
はっ、そうだ。跡部君がいたんだ。
ごめん、意識が海を越えて遠い南の島に行ってたから、君の存在をすっかり忘れてたよ。
「これ……」
「あ〜ん?」
あたしが手紙を差し出すと、彼は訝しそうにそれを見た。
そしてそれを右手でくしゃりと握りつぶすと、あたしを見てにやりと笑った。
……あ、何か嫌な予感。
斜めにあたしを見下ろすその姿は確かに格好よかったけど、どう考えてもさっきの笑顔は何かを企んでいる笑顔だった。
そろり、と一歩後ずさろうとすると、それよりも先に彼があたしの腕をがしっと掴んだ。
「な、何!?」
「何、じゃねえだろ。行くぞ」
「行くぞって…何処に?」
「俺様の家に決まってるだろうが」
「ええぇっ!!?」
とまあこういうわけで、あたしはそのまま自分の家を後にして跡部家に連れてこられたというわけ。
跡部家は、都内には非常識な広さだった。
美術館みたいな家だし、庭にはプールがあるし、テニスコートもあるし。
そして、執事さんとメイドさんが当然のようにいる。
物腰が優雅だから多分いいとこのおぼっちゃんだろうなとは思ってたけどさ、ここまでだとは思わなかった。
感心していいのか呆れていいのか、微妙なところだ。
「様、風が出てきましたよ。お寒くありませんか?」
「大丈夫です。気持ちいいくらいです」
「では、何かありましたらお声をかけてくださいませ」
「はい、ありがとうございます」
メイドさんが丁寧なお辞儀をして去っていくのを見送って、あたしは小さくため息をついた。
跡部家の予想外の大きさとか、メイドさんという職業が本当にあるんだとか、何であたしは自分の家に帰れないんだろうとか不思議に思うことは色々あるけど、最も驚くべきことは、当然のようにあたしの部屋が跡部家に用意されていたことだろう。
…跡部、あんた仕事早すぎだよ。
そんなきっちりしなくてもいいじゃん。どこかの引越業者じゃあるまいし。
「何不機嫌な面してんだよ」
あたしの頭を軽く小突いて姿を現したのは、この家のぼっちゃん跡部君。
あたしを強制的に休ませて自分は学校に行こうとしてたから、無理やりサボらせた。
だって1人で何していいかわかんないじゃん。
それに、どうやらお母さんの手紙にあった『景吾君』は、跡部君のことだったらしい。
何でお母さんが知ってるのか聞いたんだけど、自分で思い出せって言って教えてくれなかった。
「まだ何にも思い出せねえのかよ」
「そう簡単に思い出せたら、世の中に記憶喪失者はいないと思うよ」
しかもまだ1日しか経ってないし。
「ったく、だせえなぁ…」
そう言いながらもどこか楽しそうに、彼はあたしの頭をくしゃりと撫でた。
何でか知らないけど、あたしが病院を退院してからずっと機嫌がいい。
病院で見せた不機嫌な顔は一体どこへやらというにこやかさだ。
まあ笑顔のほうが一緒にいても楽しいから、文句はないけどさ。
「悪かったね」
メイドさんが用意してくれたダージリンを飲みつつそう答えると、跡部君は面白そうに笑った。
「跡部君さぁ」
「『跡部君』だあ?」
「何よ」
ちらりと見上げると、彼は眉を顰めていた。
「気色悪い。止めろ」
気色悪いとは失礼な。一応の礼儀じゃん。
「じゃあ、何て呼べばいいのよ。跡部?それとも景吾君?」
「…景吾でいい」
「んじゃ、景吾君」
「君付けするな!」
「仕方ないじゃん。前はどうか知らないけど、今のあたしにとってあんたは初めて会う人と変わんないんだからね。呼び捨てになんてできるわけないでしょ。それにどんな関係だか知らないのに、気安く呼び捨てになんかしたら彼女に恨まれるじゃん。嫌だよそんなの」
ただでさえ跡部家にお世話になってしまったというのに、これ以上誤解を招く行動は慎んだほうがいいと思う。
「…じゃあ、教えてやるよ」
声のトーンが少し落ちたような気がして彼の顔を見上げると、真剣な顔がそこにあった。
綺麗な瞳がじっとあたしを見つめている。
うわっ!ヤバイ!!
何だかムードを出してる彼の瞳に吸い込まれそうになって、あたしは慌てて視線をそらそうとして…できなかった。
彼の右手があたしの頬に添えられる。
「…」
そっと囁かれ、唇を塞がれた。
……。
………。
…………。
フリーズすること数秒。
現実に戻ってきたのは、彼の唇から解放されてからだった。
驚いて声もでないという言葉は、今のあたしの状況にぴったり。
抵抗とか反撃とか制裁とか、その時はまったく頭に浮かばなかった。
……なにしたの、今?
キス……したよね……?
なんで?
「何で?」
景吾君はあたしの腰に手を回したまま。
まったく動じた様子もなく。
「お前が俺の女だからだ」
と、あたしの耳元に囁いた。
- 04.05.12