「」
選手の配膳も終わり、御替り用のパスタとスープをテーブルの上に並べて、ようやく自分達の食事の時間を楽しめると思った矢先、少し離れた場所から名前を呼ばれた。
咀嚼していたパスタを飲み込んで視線を上げれば跡部の姿。
僅かだが眉間に皺が寄っているということは、あまり歓迎されるような事態ではないのだろう。
跡部は決して自分では認めないだろうが、部内の誰よりもに甘い。
勿論公私混同はしないが、それでもに余計な負担をかけないようにしているのは誰もが知るところである。
そんな跡部が苦虫を噛み潰したような顔をしながらもを呼ぶのだから、これは何かトラブルが起きたと見て間違いないだろう。
おそらくマネージャーに関する何か。
となれば思い浮かぶのはマネージャーとは名ばかりの2名の少女。
立海大の誰1人として昼食時の食堂にやってこないのだから、原因は推して知るべしというやつだろう。
不機嫌そうな顔をしたまま、だがについてくるようにと目線で指示する跡部に、は大人しく席を立った。
「さん?」
「ん。ちょっと呼ばれたから行ってくるね。みんなは食べてて。できたら食べ終えたお皿をシンクに入れておいてくれると嬉しいんだけど」
「そのくらいはやっておくから気にしないで。何か問題があるようならあたしもついていくけど?」
「跡部先輩がいるから大丈夫だと思う」
がテニス部のマネージャーになることに関して、が顧問を務める料理部の部長である朱夏がいくつか条件を出した。
そのうちの1つが、『テニス部ファンによるのいじめを回避させること』である。
幸いなことにこの件について学内でを批判する女性生徒は1人もいなかった。
それこそ『氷帝の胃袋を牛耳っている』と言われるだから、逆にの腕を独占しているテニス部員が女性生徒にちくちくと嫌味を言われるという摩訶不思議な事態が起こっているのだが。
ちなみにこの条件には『氷帝内』でという括りはない。
氷帝学園が全国区だということもあり、他校にも跡部達のファンは多い。
練習試合や全国大会などでがトラブルに巻き込まれる可能性もあるからだ。
合同合宿でのトラブルも当然ながら朱夏が出した条件にあてはまる。
律儀な跡部がそれを守らないはずがないのである。
不安そうな顔をする杏に軽く手を振っては食堂を出ると、廊下には跡部と手塚と、そして立海大の選手及び2人の臨時マネージャー。
泣いているように見えるが化粧が少しも崩れていないのが凄い。
あれほどの厚化粧なのにどんなウォータープルーフなんだと場違いな感想を抱くは、やはりどこまでいってもであった。
「食事中に悪かったな」
「いいえ。それより一体どうしたんですか?」
「まぁ、ちょっとばかり厄介なことになっちまったらしい」
「大体の予想は付きますけどね」
何しろ食事時間はあと30分ほどしかないのに、立海大の食事は用意されていないのだ。
立海大の責任者である真田の背後で恨めしそうな顔をしている彼らは、まず間違いなく空腹なのだろう。
人間空腹だと機嫌が悪くなるものである。
だが罵声は背後の少年ではなく、目の前の女子生徒から飛んできた。
「あの子のせいよ! うちらを厨房に入れさせてくれなかったんだから!!」
「ご飯作りたくたって、鍵が閉まってたら入れないもの! うちらが悪いんじゃないよ!」
きゃんきゃんと噛みついてくる少女2人には躊躇うように視線を彷徨わせた。
僅かに首を傾げて跡部を見上げる。
「あいつらが言うには、昼食の支度をしようと思って厨房に来たら鍵がかかっていて入れなかったそうだ。そのせいで部員の食事の準備が間に合わなかったと」
「あらまぁ」
勿論跡部は信じていない。
がそんなことをする理由がないからだ。
手塚も同様。
過去に何度か会う機会があるが、がそのような嫌がらせをするような性格でないのは重々承知である。
そうでなければあの不二周助が溺愛するはずがいないのだ。
「鍵をかけた覚えありませんよ」
「嘘よ! だって入れなかったもの!」
「どこ扉ですか?」
「ふざけてんの、あんた?! この扉に決まってるじゃない!」
「悪質な嫌がらせしておきながら知らんふりって、あんた最低」
あからさまな罵倒も気にならないのか、はう〜んと首をひねっている。
「お言葉ですが、この扉は食堂に入るためのもので、確かに厨房にも入れますが、他にも厨房に繋がる部屋は廊下にも外にも3つほどありますよ」
「えっ?!」
少女2人が目に見えて狼狽した。
ね、と同意を求めるように跡部や手塚に視線を向ければ無言で頷かれた。
食堂に入ればすぐにわかることだが、食事を作る場所と食べる場所は広いカウンターで隔てられている。
それは配膳をするためと、客が間違えて厨房内に立ち入るのを防ぐためだ。
厨房と食堂を繋ぐのは職員用の扉があるが、厨房の入口だけなら他にも裏口や勝手口などいくつかある。
入口は1つではないのだ。
建物の見取り図を見ていればすぐにわかることであるはずだが、彼女達は知らないという。
呆れるほどに杜撰な言い訳である。
「だ…だって、入れなかったのは嘘じゃないもの…」
少女の言い訳が小さくなる。
それでもどうしても認めるわけにいかないのは、昼食が用意できていないからだ。
「作らなかった」のと「作れなかった」のでは状況が大きく違う。
「それはとりあえず置いておくとしましょう」
食堂に鍵がかかっていたかどうかはは知らない。扉に触っていないのだから。
もしかしたら本当に鍵がかかっていて、が知らないうちに杏や桜乃達が気づいて開錠したのかもしれない。
だからは他の疑問を投げかけた。
「ちなみにこちらに来たのは何時頃ですか?」
「11時30分よ」
つん、とふてくされた様子なのは、おそらくと話したくないからだろう。
だが答えないわけにはいかない。
何故なら真田が凄い形相で睨んでいるのだから。
「昼食のメニューは?」
「おにぎりと卵焼き」
「げっ…」
背後の少年が顔色を変えた。
朝からハードな運動をしたのに昼食がおにぎりと卵焼きだけというのは確かに勘弁してほしいかもしれない。
それでもないよりはましだと思ったのだろうか、複雑な表情でこちらを見ている。
「それなら、どちらにしても昼食は間に合いませんでしたね」
「何でだよっ!」
「だって、10人分のごはんを準備するだけで30分なんてすぐに経っちゃいますし、その後30分は水に浸しておかないとだし、炊き上がるまでに1時間はかかります。予定通りに準備してもまだお米炊けてませんよ」
「………」
この年頃の少年なら2合は軽いだろう。
おにぎりなら1人5〜6個くらい食べてしまう。
それだけの量を準備するとなれば米をといで水に浸すだけで相当の時間がかかる。
だからは昼食をパスタにしたのだ。
おそらくこの中の誰よりも時間配分が上手いであろうが米を炊くことを却下したということは、不慣れな彼女達では米をとぎ終わるかどうかすら怪しい。
「ちなみにおにぎりの具は? 海苔は? お味噌汁とかも作ろうとか思いませんでした? ただの塩むすびだけだったら皆さんお夕食まで持ちませんよ。そして夕食は何を作るつもりだったんですか?」
静かに淡々と質問するは悪気ゼロだが、仕事らしい仕事をしていない彼女達について思うところはあるのだろう。
いつもは春の陽だまりのようにほんわかとしている表情が心なしか固い。
は基本的に寛容だが、自分の責務を果たそうとしない人に厳しいのは一部では有名だ。
今回助っ人という形でやってきた2人の少女。
彼女達は部員が気持ちよく練習できるようにサポートするためにやってきたというのに、が知る限りで彼女達は仕事らしい仕事をしていない。
不慣れなために効率が悪くなるのは仕方ない。
それを思っての共同作業だったのだが、相手に拒絶されれば手を貸すわけにもいかず、結果は現在置かれている通りだ。
上手くできませんでしたすみませんと部員に謝罪するならともかく、それらの責任を全部に背負わせようとした。
勿論このメンツの中でそんな言い訳が通用するわけがなく、全員の厳しい視線が少女達に向けられてることから彼女達の作戦は完全に失敗しているといえよう。
更にはからの簡単な質問にすら答えることができず、目の前の少女達の顔色はどんどん悪くなってくる。
昼食すらまともに用意できない彼女達が夕食を準備できるだろうか、結果は火を見るよりも明らかだ。
1食ならまだしも2食も食いっぱぐれるのは育ちざかりの少年にはかなりきつい。
昼食抜きですらどんな罰ゲームなんだと思う。
マネージャーとして呼ばれたのだから最低限の仕事くらいしてもらいたいものだが、彼女達はドリンクすら準備する気配がなかった。
彼らは水分補給をどうしたのだろうか。
そしてその間彼女達は一体何をしていたのだろうか。
疑問を感じればきりがないが、質問する前に目の前の少女達がキレた。
「う…っ、うるさい! 何よ偉ぶって!! 何様のつもりよ!!」
「うちらが焦ってるの見て笑ってたんでしょ!!」
何かもうチンピラなみの言いがかりである。
会話のキャッチボールができていない。
まぁ最初からに全ての責任を押し付けようとしている彼女達の言い分が、と交わるわけがないのだが。
あまりの暴論に目を丸くするに、綺麗にデコレーションされた爪が迫ってきた。
状況把握ができないに手塚が顔色を変えたが、それはに届く前に誰かの手によって止められた。
跡部の手だった。
「破綻した言い訳はそれでしまいか? 不利になったら暴力だなんてクズそのものだな」
「あ……」
跡部はちらりと視線を真田に向ける。
真田は先ほどから無言だ。
それは彼女達の言い分を信じているというよりも、成り行きを見守っているように見えた。
事情も知らずにをなじらなかったのは褒めてもいいが、責任者でありながら傍観者のような態度はいただけない。
「真田よ、お前の学校にはもう少しましな人材はいなかったのかよ。こんなのなら近所の小学生の方が使えるぜ」
「む…」
「ミーハー気分で練習を見学してて昼食を作り忘れてました。怒られるのが嫌だから他校のマネージャーに責任をおしつけよう。あわ良くば被害者ヅラして選手と仲良くなろうって魂胆が見え見えじゃねえか。こんな女にちやほやされて喜んでるようじゃ、全国3連覇なんて無理なんじゃねえの」
「返す言葉もないな」
跡部の言葉に返事をしたのはの見知らぬ部員だった。
雰囲気が乾に似ている。
少女達の顔色が変わっていく。
自分達に不利な状況にようやく気付いたようだ。
そもそも最初から不利だと思っていなかった方が可笑しいのだが、どうやら彼女達は自分に都合の良いように解釈するのが得意らしい。
すると、背後に立っていた赤い髪の少年が少女の肩を引いた。
一瞬庇われるのかと表情を輝かせた少女は、だが自分を見下ろす冷ややかな視線に瞬時に凍りついた。
「――お前ら、いらねえわ。今すぐ帰れ」
「え……」
「練習道具も用意できない。ドリンクも用意しない。挙句の果てには食事の支度もできてませんでしたってか? 猫の手にすらなってねえだろぃ」
「だって、それは……」
「お前らがコートから全然動かなかったことくらい、ここにいる全員が知ってるぜぃ。飯なんて作れる時間、そもそもなかったじゃねえか」
「手伝ってほしいって言ったのはそっちじゃん! うちらは親切で…」
「お前らのどこが手伝ってんだよ」
個性的な髪型の少年も不機嫌そうに言い捨てる。
最早完全に孤立無援である。まぁ最初からではあるが。
「な……、あんたたち最低! こっちは善意で授業休んでついてきてやってんのに!」
「やってらんない! 言われなくたって帰るよこんなとこ。ばーか!!」
いっそ見事なほどの逆切れで少女達は足音も荒く去って行った。
などは初めて見るタイプに、ある種の感動すら抱いてしまったほどである。
氷帝には決していない。
少なくともの周囲には存在していない。
いても困るのだということはこの際無視だ。
それよりももっと気になることがある。
「あの、そろそろお昼休憩終わっちゃうんですけど、皆さんの食事はどうします?」
自分が今どんな状況に置かれていたのか理解しているとは到底思えない呑気な声に、立海大の部員は不思議な生き物を見るような眼差しをに向けた。
あれだけの暴言を吐かれていたのに、まったく気にした様子もない。
見た目は大人しそうな小動物で、ちょっとつつかれればすぐに泣いてしまいそうだというのに。
はこてんと首を傾げて跡部を見上げた。
とりあえず自分の学校の部長であるため質問しやすかったというのもあるし、単純に目の前にいたからというのもある。
決して真田の顔が怖かったからではない。
「今から何か作れるか?」
「ポトフも少しなら残ってるし、ミートソースは大目に作ってあるから余裕ありますよ。パスタを茹でる時間をいただければ用意できます。他の方が召し上がった量より少なくなっちゃうかもだけど、パンもあるし我慢できない量じゃないと思います」
「…だそうだ。お前ら、それでいいか」
跡部が振り返れば、少年達が大きく頷いた。
昼食抜きより余り物であっても少しでも腹に入る方が助かる。
育ちざかりの少年はいつでもお腹が空いているのである。
「じゃあ頼んだぜ」
「はい、任されました」
にこりと笑っては食堂に戻っていった。
最初から何となく予感があったのだろう。
人数分以上の量を用意しておくあたりが流石だ。
どうせ必要なくなったとしても他の料理にアレンジするつもりだったのだろう。
本当に頼りになる。
自分の学校のマネージャーがで本当に良かった。
間違ってもあの2人じゃなくて良かった。
そうして少し遅れて昼食にありつけた立海大の部員達は、余り物とは到底思えない料理に舌鼓を打った。
食事が終われば人数分のタオルとドリンクを渡され、休憩時には一体いつ作ったのだと聞きたくなる手作りクッキーが用意されているのを見て、あの小動物をどうにかして自分の学校にお持ち帰りできないかなと真剣に悩むことになるのだが、彼らの願いが叶うことはないだろう。
- 12.04.27