家に帰り着いたは、泣きながら蟹の解体を行っていた。
涙が止まらないのは、不二の言葉に傷ついていただけではない。
普段は優しい不二が自分の意見を頭ごなしに却下するということは今までになかったので、誰よりも自分を理解してくれていると思っていた分落胆は大きかったが、だがそれよりも自分が不二に投げかけてしまったきつい一言を後悔していたからだった。
大嫌い、と告げられた時の不二の顔は、忘れたくても忘れられない。
今まで見たことのない、ひどく傷ついた表情だった。
自分が傷ついたからといって相手を傷つけていいわけではない。
それがわかっていながらも止めることのできなかった自分の浅慮が、今は呪わしい。
(あんな顔させたいわけじゃなかったのに…)
ボイルした蟹の身をほぐしながら、は思う。
大好きな従兄。
裕太とは同じ年ということもあってか数限りなく口喧嘩をしたことはあったが、兄の周助とはそれこそ些細な諍い1つしたことがない。
いつだってのことを優先して、の味方をしてくれていたのだ。
彼が自分の不利になるようなことは決してしたことはない。
あの時反対したのも不二なりの理由があるのだろうと今では思えるのだが、頭ごなしに反対されがショックが強かったためにそれすら考えることができなかった。
謝らなければと思うのだが、一体どうやって謝ればいいのか。
経験がないためにどうしたらいいものかわからない。
「ふぅ…」
途方に暮れたようにため息をついて、処理済みの蟹の殻をまとめていると、リビングに電話の音が鳴り響いた。
「はい?」
『あ、? オレ、裕太』
「裕太君!?」
受話器を取れば意外な人物からの電話で、は少なからず驚いた。
転校して寮に入った裕太とは頻繁にメールのやりとりはするものの、こうして電話で話すことは久しぶりだった。
「どうしたの? 何かあった?」
『そりゃ、こっちの台詞だよ』
「?」
『――お前、兄貴とトラブっただろ』
「何で…」
『さっき姉貴から電話がかかってきた。兄貴がとんでもなく落ち込んでるから何とかしてやってくれって。一体何やったんだよ?』
「………実は、ね」
呆れ果てた口調ではあったが、心配してくれているのだと声の調子から分かったは、主観的にならないように事態の説明をした。
何故不二が怒ったのかには理解できなかったが、裕太にならわかるかもしれない。
そう思った通り、話し終えると裕太のため息が電話口から漏れた。
『……』
「何?」
『兄貴の言葉も当然だって。あいつのお前に対する過保護ぶりってば、相っ当なもんだぜ。それくらいわかってるだろ?』
「う、ん…」
『ましてや兄貴はマネージャーって仕事がどれだけ大変かよくわかってるんだし、お人よしでぼけっとしてる上に運動神経のないお前がマネージャーになったって苦労するだけって思っても無理ないだろうが。オレだって反対する』
さらりとひどいことを言われて、は思わず受話器を睨みつける。
裕太はいつも一言多い。
悪気がないから更に性質が悪いのだ。
「お人よしでもないしぼけっとしてもいないし、運動神経だってなくないもん。ちょっと鈍いかもしれないけど…」
『それは50m走のタイムが10秒切ったら信じてやるよ。――じゃなくて、とにかくお前を猫っ可愛がりしてる兄貴としては、お前にそんな苦労させたくないだけなんだよ。マネージャーってお前が思ってるよりも大変なんだぞ。特に氷帝っつったら全国区だろ。部員数も半端じゃないし、癖のある連中ばっかりだって噂だしな』
不二が反対している理由の8割ほどは、に変な虫がつくのを懸念してのことなのだが、さすがにそれは自分が言うべきことではないだろう。
もっとも言ったところでが理解してくれるとは思っていないのだが。
同じテニスをする者として偉大すぎる兄は、裕太にとってかなり複雑な感情を抱かせる相手ではあるが、だが由美子の電話から現在の不二がどれほど凹んでいるか聞いてしまった以上、放っておくわけにもいかない。
不二の最大の弱点はだと知っているために、2人の関係を修復させないことには不二の復活はありえないとわかっているのだ。
だから、かなり不本意ではあるけれど、こうしての元へフォローの電話を入れているのだ。
もっとも、この貸しは後で返してもらうつもりではあるけれど。
『だからさ、許してやれよ。確かに言いすぎって気もしなくもないけどさ、結局のところお前のことを考えてのことなんだからさ』
「……………うん」
が頷けば、電話の向こうで安堵したように息をついたのが聞こえた。
ここ数年はあまり良いとはいえない兄弟仲だったが、やはり兄思いなのは変わっていないのだと、思わずの口元が緩む。
「ありがと、裕太君。やっぱり優しいね」
『ばっ………! そんなことねーよ!!』
いきなり怒鳴られたために慌てて受話器を遠ざけるものの、それが彼なりの照れ隠しであることは長い付き合いから知っている。
『笑うな!』
「えへへ」
『!!』
嬉しそうにくすくす笑うに、裕太の不機嫌な声が聞こえた。
「ちゃんと仲直りするから。ありがとね」
『――後でショコラタルトな』
「チーズケーキもつけようか?」
『おう。――じゃな』
「うん、お休みなさい」
受話器を置いたは、まだ楽しそうにくすくすと笑っていた。
ぶっきらぼうで口は悪いが、裕太も不二に負けないくらい優しい。
由美子に言われたからと口では言っていたけれど、本当は自分が心配だったのだろう。
素直になれないだけで、裕太は自分の兄を尊敬しているのだから。
そしてそれはも同様なのだ。
「だって、大好きなお兄ちゃんだもんね」
そう言うと、は先程とは正反対に軽い足取りでキッチンへと戻っていった。
◇◆◇ ◇◆◇
朝から様子がおかしかった。
いつもなら絶えずにこやかな顔をしているくせに、今日は朝からどんよりと暗い顔で。
朝練の時ですらどこか心ここにあらずという感じで手塚の怒りを買うこと数回。
授業中ぼけっとしていて教師に注意されること数回(最もこれは注意されたことすら気付いていなかったようだが)。
更には放課後の練習時にはこの世の終わりかのようにベンチにうなだれていた。
そんな友人のあまりの変貌ぶりに、さすがに見過ごすことができなくなった英二は、練習終了間際に手塚の許可を取り不二を部室に引っ張り込んで説明を求めた。
規律に厳しい手塚があっさりと許可を出したのは、今までにない不二の変貌ぶりを心配したということもあるのだが、彼の様子に他の部員達が気になって練習に手がつかなかったせいでもある。
何しろ相当凹んでいるのは明白なのに、誰かがそれについて訊ねようものなら、それこそ射殺さんばかりの眼差しで睨みつけるのだ。
最初の犠牲は桃城だった。
「あれ? 不二先輩何かあったんすか? もしかして、失恋?」
余計な一言があったせいもあり、桃城は不二の氷の眼差しを受けて撃沈。
次いで不用意な発言をした荒井も、現在は保健室のベッドの中。
事態の悪化を防ぐために、手塚も二つ返事で了承した。
意外にも失言の多そうな英二ではあるが、不二の怒りを買わずに話を切り出すことができるのは英二だけなのだ。
さすが級友というべきか、それとも猫科の生き物の持つ本能の成せる業なのか。
「で? 一体何?」
遠回しではなく、直球勝負。
不二をベンチに座らせ、英二は足元に座り込んで不二の顔を覗きこむ。
じろりと睨まれても英二には効き目がない。
むしろきつい眼差しで睨み返されてしまい、不二は小さくため息をついた。
「………に嫌われた」
「はあ? ありえないっしょ、それ」
それこそ天地がひっくり返ってもありえない展開に、英二が目を丸くする。
という人物を、英二は知っていた。
ものすごく親しいというわけではないが、1年のころから不二が何度か部活に連れてきたこともあるし、去年までの話ではあるが合宿の際に臨時のマネージャーを務めてもらったこともある。
不二が猫っ可愛がりするだけあって、まるで小動物みたいな少女。
他人を疑うことすら知らないんじゃないかと思う、とても優しい子だった。
不二を兄のように慕っていて、およそ喧嘩するようなことはないと思っていた。
「ないない。そんなの」
「嫌いって言われたんだ」
「それってどういうシチュエーションで?」
「………言いたくない」
普段から想像もつかない、あまりにも女々しい級友の姿に、英二は思わずため息をついた。
可愛がっていただけに、よほど「嫌い」と言われたのがショックだったのだろう。
少し考えれば本気じゃないとわかりそうなものなのに。
まったく恋は盲目というか、親馬鹿というか兄馬鹿というか。
「やれやれ…………ん?」
不意に飛び込んできた視界の先、ほんの少し開かれた窓の向こうの景色に、英二は目を瞠る。
青学一の動体視力を誇る英二は、その視力もまた青学一で。
豆粒ほどしか見えないその姿を認識すると、慌てて部室を飛び出していた。
◇◆◇ ◇◆◇
料理部を早退させてもらってがやってきたのは、青春学園中等部。
不二の通う学校である。
善は急げと言わんばかりに早々にやってきたではあったが、おそらくは部活中だろう不二にどうやって会えるだろうかと、コートの前でしばし逡巡していた。
何しろテニス部は人気が高い。
コートの周辺にファンがびっしりと詰め掛けているのだから、小柄な――しかも部外者のがおいそれと近づけるはずもなかった。
ましてやの知り合いはほとんど3年生で、今練習している1,2年生はほとんど知らない人ばかりなのだ。
いくら人見知りしないとは言っても、さすがに他校の――それも見知らぬ生徒に声をかけるほど度胸は据わっていない。
念のために私服に着替えてから来たのだが、制服だらけの中で私服姿のは嫌でも浮いて見えた。
うろうろとコートの入口を彷徨って、誰か見知った人はいないだろうかと中をのぞきこんでいたは、背後に迫っていた人物の姿に気がつかなかった。
「見学?」
「それとも偵察っすか?」
「うきゃあっ!!」
いきなり声をかけられたは不意を突かれたことと緊張していたことで、文字通りその場で飛び上がった。
そのまましゃがみこみそうになったところをフェンスを掴んで何とか堪えて背後を振り返ると、そこには2人の少年がいた。
「あんた他校生?」
「え? いえ……ええと………はい…」
「ふぅん。…大丈夫?」
「あ…はい。大丈夫です。少し驚いただけで…」
じんわりと浮かんだ涙に気付いたらしい小柄な少年が、ぶっきらぼうながら気にかけてくれたことに慌てて首を振る。
別に驚かせるつもりはなかったのだ。
こちらが過剰に反応してしまっただけで、むしろの反応に驚いていたのは目の前の2人組のほうだった。
相変わらずフェンスにしがみついているままのの姿にどこか微笑ましいものを感じたのか、少年達の視線がほんのわずかだが優しくなった。
「何? アンタ先輩達のファンとか?」
「コートは部外者立ち入り禁止だぜ?」
「あ…えぇと、ファンではないんですけど、3年の不二周助君に会いたくて…」
がそう言うと、2人は目を見開いて慌てて首を振った。
「駄目駄目、やめとけ。つーか無理」
「え?」
「いつも駄目だけど、今日は特にヤバイ。部長に怒られるだけじゃすまないし」
「今会ったら殺されるっすよ」
「あの…」
「な。悪いこと言わないから帰ったほうがいいって」
「えと…でも…」
ぐいぐいと背中を押されてコートから追いやられていくのに、が驚いて反論しようとした時――。
「待って〜〜〜〜〜!!」
怒涛の勢いで駆け寄ってくる少年の姿があった。
「菊丸先輩!?」
「英二先輩!?」
「菊丸さん!?」
3人が不思議そうに首を傾げる中、息も切らせずやってきた英二は、
「久しぶりちゃん。ちょっと来て」
と言うなり、を横抱きにして再び走りだした。
「え? えぇ!?」
後に残されたのはの不思議そうな声と、そして取り残された2人組――桃城と越前の呆然とした姿であった。
- 06.09.19