世間一般では休日と言っても、大会前の日曜日など青春にいそしむ少年にしてみたら、休日などほとんど意味を成さないものだった。
最も幼い頃から1日のほとんどをテニスに費やしてきたようなものだから、そのことに対して不満を感じたことはないが。
唯一気になると言えば、中等部に上がってから1つ年下の従妹と会う時間が格段に減ってしまったということだろうか。
テニスと比較できるようなものではないが、それでもやはり彼女に会えないのは寂しい。
最後に会ったのは春休みだから、もうどれくらい会っていないのだろうと、無邪気な笑顔を思い出しながら、彼は帰途に着く。
料理が得意な従妹は、新しいメニューに挑戦すると毎回持参してきてくれて、本人のセンスもあるのだろうが、それは大抵彼の味覚に合っていて、彼女が持ってきてくれる料理が密かに楽しみだった。
美味しいよと褒めれば、大きな目を嬉しそうに細めてふんわりと笑う。
その仕草が何とも言えず可愛かった。
そんな笑顔も見れなくなって久しい。
幼い頃から大切に大切に慈しんできた従妹は、彼女の両親の希望もあって同じ学校には通っていないために、いくら近所に住んでいるとは言っても部活動で忙しい自分と、帰宅部の彼女が偶然道でばったり会うという可能性も低く、意図しなければ会うことも難しい。
てっきり自分と一緒の学校に進むと思っていたから、彼女が別の学校に通うと聞いた時のショックは大きかったが、彼女自身がその学校への進学を希望していたものだから反対もできなかった。
メールのやりとりはしているものの、それでもやはり彼女の最大の魅力はくるくるとよく変わる表情で、文章にはその人柄がよく現れているもののやはりそれだけでは何とも味気なく、彼女の顔を見て話したいと思うのは無理のないことだ。
(そうだ、次の休みには一緒に遊びに行こう)
映画や遊園地、それともショッピング。
随分久しぶりだから、連れて行きたい場所は沢山ある。
そういえば以前にメニューが一新したという、彼女が気に入っている喫茶店に連れて行くのも悪くない。
甘いものには目がないから、きっと喜んでくれるだろう。
そんなことを考えれば、自然口元はゆるんでしまう。
可愛らしい笑顔を思い出しながら、彼はようやく見えてきた自宅の門をくぐった。
◇◆◇◇◆◇
「ただいま」
「お帰りなさーい。周助君」
ぱたぱたとスリッパの軽い足音とともに現れたのは、つい先程まで考えていた従妹で、彼――不二周助は思わず目を見開いた。
「…?」
「うん、お邪魔してます」
「あ、あぁ…いらっしゃい」
にこにこ、と相変わらずの無邪気な笑顔を向けているのは、間違いなく従妹のだった。
「実はね、お母さんの仕事関係の人から蟹が送られてきたの。うちだけじゃ食べきれないからおすそ分けに来ました」
「タラバ?」
「ううん、本ズワイガニ。すっごいの。これくらいの箱にびっしり入ってて。ちょっと怖かった」
「10尾くらい入ってたの?」
「20尾」
「…それは怖いね」
両手で箱の大きさを示しながら困ったように笑うのその変わらない様子に笑みを浮かべつつ、不二は彼女の背を促しながらリビングへ向かう。
著明な料理研究家でもある彼女の母親は、その仕事の付き合いからかかなり頻繁に品物が送られてくる。
それは彼女の職業上食料であることが多いのだが、夫婦と娘1人という家族構成を無視した量が送られてくるため、無駄にするのも申し訳なくて近所にある不二家までおすそ分けと称して持ってきてくれるのだ。
勿論それを断る理由などない。
リビングには姉の由美子の姿があった。
休日だというのに、珍しく自宅にいたらしい。
テーブルの上には半分ほど消費されたチェリーパイが置かれているから、もしかしたらの来訪を知ってわざわざ用意したのかもしれない。
自分と同様にを実の妹のように可愛がっている由美子ならそれもありえる話だ。
「お帰りなさい、周助」
「ただいま」
「今日は早かったのね、まだご飯の支度できてないのよ」
「大丈夫よ、母さん。ケーキがあるから」
「そうね。悪いけどそれ食べて待ってて。なるべく早く用意するから」
キッチンから顔を見せる母の手にはすらりと長い蟹の脚。
どうやら解体に手こずっているらしい。
手伝おうかと言いたかったが、生憎不二は料理は得意ではない。
そういうことは由美子かが適任だが、2人が揃ってティータイムを楽しんでいるということは、彼女達の助力は必要ないということだろう。
の母親に負けず、自分の母親も大層な料理好きなのだ。
血は争えないというやつだろうか。
「ちゃん、ケーキ残ってるわよ。食べちゃいなさいな。周助も、早く着替えてらっしゃい。ケーキなくなっちゃうわよ」
「は〜い」
「わかったよ姉さん」
くすくすと笑いながら学生服姿の不二をたしなめる由美子に返事をしながら、不二は自室へと戻る。
階段を上る足取りがいつもより軽く感じるのは現金だろうか。
会いたいと思っていた相手が家にいる。
そんな単純なことがひどく嬉しかった。
◇◆◇◇◆◇
「だからね、チェリーは一度シロップで煮ちゃうの。そうすると缶詰独特の匂いが消えるの」
「あぁ、なるほど。だからあまり甘くないんだ」
「甘い方がよければ、そこに少し砂糖を足しちゃえばいいのよ」
「ううん、この味が好きだからいい。でもねぇ、何度教わっても、やっぱり由美ちゃんみたいな味にならないの。私じゃ由美ちゃんの味は再現できないのかも」
悔しいなぁと呟くの顔は、だが言葉とは裏腹ににこにこと楽しそうだ。
料理が好きで美味しいものが好きな。
人並み以上に料理上手なだが、何度挑戦しても由美子お手製のチェリーパイの味は再現できないらしい。
それでも十分の作るチェリーパイは美味しいのだが、彼女はそれでは満足できないようだった。
「かぼちゃカレーもやっぱり伯母さんが作ったものが一番美味しいし」
「あら、ありがとう」
「ちゃんの作る料理も十分美味しいわよ」
「ありがとう。でも、もっと色々作れたら楽しいのにな」
今でも大抵のものならプロ顔負けの腕前なのに、こと料理に関して彼女はひどく貪欲だ。
「はいいお嫁さんになるね、きっと」
向かいの席に腰を下ろすと、綺麗に切り分けられたケーキと淹れたてのお茶が出される。
そんな甲斐甲斐しい姿に思わずそう言えば、は嬉しそうに微笑む。
彼女の小さい頃からの夢は「お嫁さん」で、家事能力万端の彼女なら、きっと容易くその夢を叶えることができるだろう。
むしろ、不二にとってもは理想のお嫁さん像なのだ。
まあ、ちょっとばかり慌て者なところはあるのだが、それもまた彼女の魅力の1つだろう。
「周助君もいい旦那さんになりそう」
「そう?じゃあ結婚しようか」
「あら素敵。ちゃんが本当の妹になるのね」
「その時になって相手がいなかったらお願いしようかな」
くすくすと笑いながらそんな軽口を言い合うのは日常的なことで、残念ながら不二の告白を本気に捉えてもらったことは、今までに一度もない。
「ちゃんも一緒に食べていく?今日弥生いないでしょう」
「8時には帰ってくるって言ってたから戻ります。お家に残ってる蟹も早く下処理しておかないとだし」
送られてきたのは一般的な冷凍ものではなくて、茹でたて直送の所謂『活目』と呼ばれるものだ。冷凍ものとは格段の味だが、保存期間が短い。
の頭の中ではすでに残った蟹の調理方法が浮かんでいるのだろう。
何を作ろうか考えている時のは目をきらきらと輝かせて、とても楽しそうだ。
「そうだ、。今度の日曜部活休みなんだ。どこかに遊びにいかない?」
「え……」
いつもと同じようにそう切り出せば、帰ってきたのはどこか困惑した声で。
その様子が何か隠しているように思えて僅かに首をひねれば、が言いにくそうに上目遣いで不二を見上げてきた。
「えっと、ね…。周助君と遊びにはすっごくすっごく行きたいんだけど…」
何とも歯切れの悪い言葉。
まさか彼氏が出来て一緒に遊べないなんてと、思わず胸中で焦ったのだが、から発せられた言葉は予想外のものだった。
「実は、マネージャーすることになっちゃって…しばらくお休みはないかなぁ〜なんて…」
あはは、と乾いた笑いを漏らすの前で、不二はしばらく凍りついた。
以前野球部のマネージャーに勧誘された時、自分には無理だときっぱり断った。
その時の様子を思い出せば、どうやっても彼女がマネージャーになるとは考えられない。
「断ったんじゃなかったのかい?」
「野球部のは断ったけど、今回のは別の部活」
「何部?」
「……………テニス部」
「テニス部!?」
不二が青学のテニス部で、の通う氷帝とはライバル同士だということは、さすがのもわかっている。
青学の試合には何度か応援に行ったこともあるし、手塚や菊丸とも顔見知りだ。
冗談で青学テニス部のマネージャーをしないかと勧誘されたことも少なくない。
が氷帝テニス部のマネージャーになったということは、大会ではの声援はないどころか、ライバル校のベンチに座るの姿を見せることになる。
不二や手塚達から可愛がられている自覚があるだけにそれは申し訳ないと思うが、たとえ引き受ける時の状況がどうであれ、一度引き受けてしまった以上今更断ることもできないし、するつもりもない。
「何でテニス部に!?」
「成り行き…かな?」
「成り行きって…」
「うん、まあ…そういうことなんだけど…。でも、引き受けちゃったからね…」
申し訳なさそうにそう言いながらも、の心がすでに決まっていることは長年付き合っている不二には分かりすぎるほどに分かってしまう。
意外に頑固で自分の言葉に責任を持つだから、一度引き受けてしまった仕事を放り出すことはできないのだろう。
そんなの生真面目さは好ましいところなのだが、だがそれでも…。
「僕は反対だな」
名門の子息子女が通う氷帝学園の中でもエリートと呼ばれるテニス部の正レギュラー達。
全国区の実力は誰もが認めるところだが性格に一癖も二癖もある連中と、他人を疑うことすら知らないのではないかというほどお人よしのを一緒にいさせておきたくはなかった。
きょとんと自分を見上げる黒目がちの瞳に、思わずきつい表情を向けてしまうのはそんな子供じみた独占欲の現れで。
「が氷帝のマネージャーなんて、無理だよ」
「周助君?」
「第一マネージャーは1人なんだろう?200人もいる部員の面倒なんて見れるはずないじゃないか」
「見るのは準レギュラーと正レギュラーだけだもの。無理じゃないよ」
「でも大変なのは目に見えてるよ。が務まるとは思えない」
マネージャーという仕事は思っているよりも力仕事が多い。
細々とした雑用がほとんどで、いくら面倒見がよくても小柄で細身のの体力が続くとは思えない。
更には氷帝の部長である跡部は傍若無人で有名だ。
可愛い従妹に、みすみす苦労するとわかっているマネージャー業務をさせたくないのは不二の心境からは無理のないことだった。
だが、この時の不二は冷静さを欠いていた。
そのため自分の言動が相手にどういう影響を与えるかを考えることができなかった。
普段の不二ならばもう少し言葉を選んだだろう。
それだけ動揺しているということだが、今回は特に相手が悪かった。
「…………何でよ………」
涙ぐんだ、それでいて怒ったような声が俯いたから聞こえた。
「あ………」
失言に気付いて慌てて口を押さえるものの、言ってしまった言葉は戻らない。
顔を上げたは案の定目に涙を浮かべており、それ以上に睨みつける眼差しには理不尽な言葉に反発しているのが明白で。
決してが無能だと言ったつもりではなかった。
むしろその反対で、彼女は細かいところに気がつくしどちらかと言うと世話好きだ。
間違いなく氷帝レギュラーに気に入られるだろうが、不二にとってはそれが面白くない。
自分の知らないところで彼女にちょっかい出す人間がいることが許せないのだ。
だが、は不二の心情などわからない。
頭ごなしに反対されて、納得するではないのだ。
「やってみてもいないのに…どうしてそんな風に言われないといけないのよ……」
「…あのね…」
大きな瞳がみるみる潤んでいく。
泣いている少女を前にうろたえる不二周助は、青学では珍しいものかもしれないが、哀しいことに不二家では珍しくも何ともない。
最もを泣かす原因を作るのはもっぱら弟の裕太で、不二は泣いているを一生懸命宥めるということがほとんどだったため、実際自分が泣かせてしまうと何を言ったらいいものやらわからない。
おろおろとを宥めようとしている不二を前に、姉の由美子は我関せずと言った態度で母親のいるキッチンへと姿を消してしまう。
下手に口を挟んで事態を悪化させないための賢明な手段なのだが、頼みの綱すらなくなってしまった不二はそんな姉の行動に頭を抱えそうになる。
このパターンには覚えがある。
確か前回は生まれたばかりの子猫を5匹も拾ってきた時だった。
どうやっても面倒を見れないのだから元いた場所に戻してくるようにと父親に言われて、それでもまだ親元を離れて生きていけない子猫をそのまま見捨てることができなくて困っていた小さなに、裕太が発してしまった不用意な一言。
あの時のの怒りはひどくて、裕太は一週間口を利いてもらえなかった。
ということは…。
おそるおそるを見ると、はきつい眼差しで不二を睨んでいた。
「いや…だからね…、僕も言いすぎ……」
哀しいくらいの既視感に天を仰ぎそうになりながらも、それでも何とか二の舞を防ごうとしたが、もはや何を言っても遅かった。
「周助君の馬鹿ぁ!嫌い!!」
そう言い捨てると、は不二家を飛び出していってしまった。
リビングに残されたのは、宥めようと伸ばした手を戻すことさえ忘れたように固まった不二周助。
日頃女子生徒に黄色い声援を浴びているとは到底思えないような情けない表情で固まっている不二の姿は、姉の由美子が見ても哀れと言うか情けないと言うか。
「あらまぁ、大変」
とりあえず慰めているのか追い討ちをかけているのかわからない台詞を吐くだけにとどめておいた。
- 06.08.29