政宗が「あちらの世界」にいたのは、およそ半年である。
春先に流され、秋が深まる頃に戻された。
たった半年。だが、政宗にとってはかけがえのない期間だった。
に会い、家の息子として育てられ、多くの愛を与えてもらった。
実母によってつけられた深い傷は、から与えられる無償の愛によって綺麗に癒された。
触れるぬくもり、向けられる笑顔。
欲しくて欲しくてたまらなくて、だがどうあっても実母から与えられることのなかったそれは、によってこれでもかというほどに政宗に与えられた。
だから政宗がを母として慕うのは当然。
そんな政宗が、たとえ自身が生まれた世界に戻ってきたとは言え実母である義姫を母として慕うことなど到底無理で、あの日から政宗の母と言えばしかいない。
は良くも悪くも政宗――梵天丸に甘かった。
甘やかされるだけでは子供は駄目になるとの夫であり梵天丸のもう1人の父である葵は苦笑していたが、彼もまた幼い戦国武将にはとことん甘かった。
それだけ甘やかしても梵天丸は何かに怯え遠慮しがちだったことを考えれば、幼い梵天丸がどれだけ傷ついていたかが容易に推察できるというものだ。
何をしていても嫌われないか不安を抱いていた頑なな心を開かせたのは、偏にこの優しい夫婦の尽きることのない愛情のお陰だと政宗は思っている。
蹲り目と耳を塞いでいた梵天丸に、広い視野を与えてくれた。
前に進めば良いことがあると、背中を押してくれた大きな手。
一緒に歩く相手がいると教えてくれた柔らかい手。
たった半年とは言え、あの日々がなければ今の自分は存在していないと言い切れるほど、政宗に与えた影響は大きかったのだ。
どうして戻ってきたのかはわからない。
気が付いたら梵天丸は見知った部屋にいて、酷く憔悴した小十郎が目の前にいた。
小十郎が言うには、梵天丸が消息を断っていたのは僅か2日。
崖下で気を失っているところを発見され、それから3日意識を失っていたらしい。
政宗があちらの世界に滞在していたのは半年。
だが小十郎の言葉が事実だとすれば、あれから僅か5日しか経っていない。
どのような仕組みかはわからないが、少なくとも半年行方不明ではなくて良かったと思う。
半年も嫡男が行方不明でいれば、あの母ならばさっさと死亡扱いにして次男を後継に据えていたはずだ。
それはその後も幾度となく送られてきた刺客の数が証明している。
以前の梵天丸ならそこまで母に疎まれている自分を恨んだものだが、あの世界で愛された記憶が梵天丸を強くしてくれた。
義姫の視線が気にならなかったのは、瞼の裏にの温かい笑顔があったからこそだ。
いつでもどんな時でも、その笑顔は政宗の心を支えてくれた。
だからなのだろうか。
がこちらの世界にやってきたのは。
だって――会いたかったのだ。
夢でもいいからもう一度あの優しい両親に会って、感謝の気持ちを伝えたかった。
2人のお陰で自分はこうして生きている。
伊達家嫡男としてというより、家の息子として恥じない人間でいられると。
そう報告したかったのだ。
それが叶ったのだから嬉しくないはずがない。
ただ、彼女が持つ位牌が気がかりだった。
そして彼女の傍らには常に寄り添っていたあの父の姿がないことも、気になる理由の1つでもある。
嫌な予感が脳裏をよぎるが、あえて考えることを放棄する。
あの優しい父が亡くなったとは、どうしても考えたくなかったのだ。
ふと、天井からかすかな物音がした。
忍びだろうと思った時には、障子の向こうに黒い影が降り立った。
「――何だ」
「例の女性、目覚められました」
「わかった」
政宗は小箱を手に取ると、逸る気持ちを押さえながら部屋を後にした。
◇◆◇ ◇◆◇
鳥の囀りが覚醒を促す。
はゆっくりと目を開けた。
軽い頭痛を伴うのは泣きすぎたせいだろう。
まるで一生分の涙を使い果たしたのではないかと思うくらいに泣いたからそれも無理はない。
最愛の夫との死別。
出会ってから8年。結婚して僅か3年しか経っていない。
近所ではおしどり夫婦と言われるほど仲が良く、喧嘩なんて一度もしたことがなかった。
一緒にいるのが当たり前で、いなくなる日が来るなんて想像もしていなかった。
眠っているようだった亡骸は、だからこそどうしても理解できなくて。
ようやく実感したのは、最愛の夫が小さな箱に収められて帰ってきてからのこと。
納骨を済ませて自宅に戻り、そうしてこの広い家にはもう誰も自分を待っていてくれる人はいないのだと気づいてからだ。
物音1つしない家は広く、つい先日まで明るい笑顔に包まれていたのが嘘のようだった。
夫がいて自分がいて、そして2人の息子となってくれた可愛い戦国武将がいた日々が懐かしかった。
逢いたいな、とポツリと呟いた。
亡くなった夫に。そして突然消えてしまった可愛いあの子に。
逢いたいな。
もう一度呟いた。
そこから記憶がない。
確かに言った。
会いたいと。
だって家族なのだ。当然だろう。
の人生はまだ23年。
その中で最も幸せだった時期はいつかと聞かれれば、即答で夫と息子と共に過ごした日々と断言できる。
だからって。
まさか本当に逢えるとは思っていないが。
「え…と…」
見知らぬ部屋。
一般家庭とは到底思えないほど広い和室に1人、は寝かされていた。
ぐるりと見回してみても文明の利器らしきものは1つも見当たらない。
今の時代、純和風の部屋だとて照明やコンセントくらいあるはずなのに、この部屋にはそれが見当たらない。
それどころかどこかの文化財クラスの武家屋敷のような造りである。
これは一体どういうことか。
確かに昨夜自宅に戻ったはずなのだけれど。
布団から身を起こしてみれば、いつの間に着替えさせられていたのか、白い浴衣姿になっていた。
浴衣というよりも単衣のような気がするのはの気のせいだろうか。
ぐるりと周囲を見回す。
まったくもって見たこともない場所である。
泣き疲れて幻覚でも見ているのだろうかと悩むの耳に、荒々しい足音が聞こえてきたのはすぐのこと。
こちらの家主だろうかと思うと同時に開かれた襖。
スパーン、とそれはもう豪快に開かれたそれにびっくりして目を丸くするに、家主らしき人物はその場に立ち止ったままだ。
視界に入ったのは濃紺の着物。
着流しというのだろうか、まだ若いというのに妙に和服を着慣れているように感じる。
ゆっくりと視線を上げていけば、整った顔立ちの青年の姿。
おそらくより2〜3歳年下だろう、鋭い眼光の片方は刀の鍔のような眼帯で隠されている。
見たことのない人物の登場に僅かに身を固くしたの耳に、小さな声が届いた。
「母、上…」
堂々とした姿からは想像もつかないほど不安そうな声。
を母と呼ぶ独眼の人物と言えば、が知る限り1人しかいない。
だが彼は5〜6歳程の少年だった。
あれから1年しか経っていないはず。
だが、この不安そうな眼差しには覚えがある。
この瞳が嬉しそうに細められるのが大好きだった。
見忘れるはずがない。
愛しい息子のものなのだから。
「梵ちゃん?」
不安そうに小首を傾げながらそう問いかけたに、かつて梵天丸と呼ばれた青年は嬉しそうに顔をほころばせた。
- 12.03.03