「そう、あれは私がまだ袁紹殿にお仕えする前のことでした」
張儁乂と名乗った男性は、部屋の隅にいるを誘導して椅子に座らせるとそう話し出した。
いつまでも長持ちの中を探っているわけにもいかないし、そもそも俘虜とは言え室内の行動に制約はされていないとはいえ、見張りの前で堂々と脱出計画を練るわけにもいかない。
大人しく椅子に座り差し出されたお茶で喉を潤したに、張儁乂――張コウはほんの少し安堵したようだった。
おそらく敵方である自分に怯えると予想していたのだろう。
だがしかしはこの時代から1800年ほど前からやってきた少女であり、恐ろしいほど警戒心というものが欠如していたため誠実そうな張コウにあっさりと気を許してしまったのである。
勿論張コウはそのようなの裏事情など知らないために、純粋に自分を信用してくれたものだと思って喜んでいる。
「強くなりたいと旅をしていた私は、道中である兄弟と知り合いました。兄は弓の、弟は二剣の使い手で素晴らしい武勇を持っていた彼らと私はすぐに親しくなり、その縁もあって常山にある黎家にお邪魔したことがあったのです。黎家ではとても良くしていただきましたし、御父君も御母君も素晴らしい方々でした。本当に、あのように素晴らしい方が何故夜盗などに殺されなければならなかったのか…」
じわりと滲んだ涙を指で拭い、張コウは切なげにそう語る。
どうやら本物の黎月華のことを知っているようだと思ったの推察は正しかったようだ。
良かった、変なこと答えないでと内心で冷や汗を拭っているは、結構危険な状況であることを綺麗に忘れている。
ちなみに命の危機は現在進行形で継続中である。
「黎家は村でも有数の名士でしたので、当然ですがご令嬢である貴女と直接お会いする機会はありませんでしたが、御姿を垣間見たことはあります。更に兄上方の顔立ちや御母君の容貌と照らし合わせればすぐに分かります。貴女は間違いなく、私が懇意にし、友と呼んだあの2人の掌中の珠と称された姫君。あの頃の貴女もあどけなく美しかったものですが、まさかここまで麗しく清らかに成長されるとは……」
「あ、ありがとうございます」
「ご家族を亡くした貴女がどのように生き延びてきたかは問いません。貴女にとって私は見知らぬ敵方の男、いくら言葉を尽くそうとも兄上方との思い出を語ろうとも、それらを信じていただけるとは思いませんから」
感極まったのか、張コウは椅子から立ち上がり両手を振り上げて何やら熱弁を開始した。
第一印象から思っていたが、身振り手振りの激しい人である。良い人だとは思うが。
それを若干引き攣った笑顔で聞きながら、は冷静に張コウの言葉を分析した。
どうやら本当に本物の黎月華の身内と知り合いと見て間違いないだろう。
趙雲から聞いていた話と合致する部分がいくつもある。
兄がいることは教えてもらっていなかったので少し焦ったが、それも不自然でないように誤魔化せているとは思う。
日本人の愛想笑い、万歳である。
張コウの中では『盗賊に身内を全員殺されて、とても苦労してきた元令嬢』という認識が確定されているようである。
否定しようにもこちらの時代についてあまり詳しくないが何を言っても危ない気がするので、何となく言葉を濁すか相槌を打つくらいしかできない。
そのせいで張コウの誤解は益々深まっていく。
気が付いたらは『身一つで盗賊から逃げおおせたものの、助けてくれた親切な身内も亡くなり途方に暮れているところでようやく元許嫁と再会した』ということになっていた。
どうしよう、本気で記憶喪失設定を出すべきだろうか。
張コウの言葉の全てを肯定していたわけでもないのに、何だろうこの波乱万丈な設定は。
それともこの程度の人生は誰でも歩んでいるものなのだろうか。三国時代恐るべし。
「ようやく再会した許嫁が趙雲殿というのは、私個人としては大変面白くありませんが、確かにお互い常山出身ですし名家同士でお似合いだったことでしょう。私個人としては大変面白くありませんが」
「は、はぁ」
大事なことなので2回言いましたと言わんばかりに繰り返されたけれど、はどう反応するべきだったのだろうか。
だがしかし、張コウはに返答を求めてはいなかった。
再び椅子に座り直し、至近距離からを見つめてくる。
「あの……」
「私は貴女に謝らねばなりません」
「…………………え?」
不思議そうに首を捻るの前で、張コウは非常に言いづらそうに目線を彷徨わせている。
初めて見せる仕草に何かされたのだろうかと今更ながら警戒したところで、張コウはガバリと卓に突っ伏して叫んだ。
「貴女を劉備殿の城から連れ去ったのは私なんですっ!!」
「えぇっ?!」
「だって、だって、貴女は私の記憶にある月華が美しく成長した姿そのものでしたし、あのような美しい衣装を身に纏って城の奥に閉じ込められている姿を見たら、誰だって無理やり愛妾に召し抱えられたとしか思わないじゃないですかっ。あの2人が慈しんだ妹を権力者の慰み者として扱われるなんて、私には到底我慢できなかったんですっ!!」
いやいやと子供のように首を振りながら力説する張コウには言葉も出ない。
つまりは、は張コウの勘違いで浚われたのだ。一番安全だった城の奥から。
何て事してくれたんだと思うは多分間違っていない。
「…劉備様は、とても良くしてくださいますよ…?」
「えぇ、えぇっ、そうでしょう。貴女のように美しい女性を己のものにできるのですから、それはもう大切にするでしょうとも! ですがその先に待つのは、部屋から一歩も出ることのできない不自由な身。他の妃からは妬まれ、女官からは蔑まれ、そして男が飽きればあっさりと捨てられる不安定な立場に違いはありません。私はそんな恐ろしい場所に月華を置いておくことなどできなかったのです!!」
何とも酷い妄想である。
そしてそんな妄想では安全な城から拉致され、今度こそ本当に一生部屋から出られない飼い殺しの側妾生活を送る羽目になるかもしれないのだ。本当にもうどうしてくれよう。
思い切り詰りたい気持ちもあるが、何だか激しく落ち込んでいる張コウにこれ以上何をどう責めれば良いというのだろう。
大きな体躯で床に蹲り「の」の字を書いている姿は哀れにしか見えない。
これ以上厳しい言葉を浴びせたらショックで死んでしまいそうだ。
過ぎてしまったことをあれこれ言うよりも、これからについて建設的な話を進めた方が良いとは判断した。
「あの、間違いは誰にでもあります。過ちに気付いたのなら反省し、そして同じ過ちを繰り返さなければ良いのですよ」
「おぉっ、何という優しいお言葉…っ。流石は黎家の御息女」
「つきましては、できる範囲で良いのです。私に協力していただけないでしょうか」
人に物を頼む時は目を見てしっかりとお願いしなさいという母の教えを思い出し、は蹲る張コウを起こしてその目をじっと見つめた。
「お願いです、張コウ様。私を元の城……いいえ、蜀の国境まで連れていってくださいませ」
「月華……」
「おそらく今頃は劉備様もお怒りでしょう。側妾などではございませんが、城内で宴席のさなかに国主自らが招待した女が攫われたのです。このままでは国家の威信にも関わります。今のうちでしたら私1人が戻れば事は大きくならないはず。たかが女1人のために戦が起こるなどあってはならないこと。どうか、私を戦端を開く原因になどさせないでくださいませ」
にとって戦争とは遠い海の向こうの話でしかない。
数十年前まで戦争が行われていたとは言え、それらは語られなくなって久しい。
軍備よりも経済力を武器に他国と渡り歩いてきた国に生まれたは、そのせいか命が失われることに関しては人一倍敏感だ。
戦争に意味があるかは意見の分かれるところだが、勘違いで浚われた女を取り戻すために兵が殺し合いをするなんて、とてもじゃないが耐えられない。
宴席で出会った人達の姿が脳裏をよぎる。
劉備も関羽も張飛も、とても優しい人達だった。
同盟国の陸遜も凌統も親切で、他愛のない会話も楽しかった。
そして何よりも知らない世界に飛ばされたを面倒見てくれた趙雲にこれ以上迷惑をかけたくはなかった。
幼馴染に似ているという言葉だけでは説明できないほど良くしてもらったと思う。
そんな趙雲が危険な目に遭うのは耐えられない。
そのくらいなら多少の危険など無視して単独で城へ戻った方が何倍もましだ。
張コウが反省してるというのなら多少の協力をしてもらえれば助かる。
勿論魏の武将である張コウに裏切れというつもりはない。
多少の路銀と食糧、そしてできれば馬の1頭でも貸してもらえればと思ったのだが、つい先ほどまで泣き濡れていたとは到底思えない勇ましい表情で却下されてしまった。
「申し訳ありませんが、それはできません」
「え?」
「貴女を間違えて拉致してしまったことは謝ります。この魏にいる限りは私が全力をもってお世話いたしましょう。一生不自由させないと約束いたします。勿論、曹丕様の手からも守って見せましょう。ですが、貴女を蜀に戻すことだけはできません」
「ど、うして……」
「聞こえませんか、あの音が」
そう言って張コウは何かを聞きつけたかのように耳を澄ませた。
釣られても耳を澄ませるが聞こえてくるのは静かな音ばかり。
先程と変わらない稽古の声や歩き回る足音だけである。
不思議そうに首を傾げるに、張コウはふと柔らかく笑った。
「あぁ、武人でない貴女にはまだ聞こえないのでしょうね。遠くから軍隊が近づいてくる音がします。おそらく蜀と呉の軍勢でしょう。存外早かったので向こうの細作も優秀のようですね」
そう呟いて立ち上がった張コウは、すっかり武将としての顔に戻っていた。
茫然と見上げるを抱き上げ、長椅子へと移動させた。
最初に眠っていた長椅子だ。
小柄なにとっては横になっても十分過ぎるほど余裕がある。硬くて寝心地は悪いけれど。
「このままここで大人しく待っていてください。急ごしらえの軍勢などすぐに蹴散らしてみせますよ」
「え、ちょ、」
「貴女の許嫁殿が本気で月華を愛しているのでしたら、ここまで来るでしょう。ですが、生半可な気持ちでしたら私が斬って捨ててごらんにいれましょう」
そう言うなり張コウは部屋から出て行った。
外から施錠される音が聞こえては今度こそ頭を抱えた。
一難去ってまた一難と言うけれど、去る前に次から次へとやってこなくても良いではないか。
「あぁ、もう、本気でどうしよう…」
呟いた声はとても頼りなく室内に響いた。
- 12.12.14