「成程、そういうことですか」
細作の報告を受けて孔明は僅かに表情を曇らせた。
蜀と呉の同盟とも言うべき婚礼が行われている城内は厳重な警備が敷かれているはずだった。
だというのに起こってしまった毒殺未遂事件と拉致。
警備の責任者には厳重な処罰が必要だろうと思うが、そんなことより緊急を要するのは拉致された趙雲の許嫁の救出だ。
たかが一武将の許嫁など本来なら兵を向かわせる理由とはならないが、今回ばかりは勝手が違う。
その許嫁が花嫁である尚香の命の恩人であること、女性でありながら類稀な知識の持ち主であること。
何よりも蜀にとってなくてはならない将軍である趙雲が長年探し求めてきた少女であるということが、結果主義の孔明に分が悪い救出作戦を立てさせた。
趙雲の武力は三国の中でも弱小である蜀にとって欠かすことはできない存在であり、もし仮にこの場での救出に難色を示しでもしたら彼を失望させてしまうだろう。
相手が彼女を盾に裏切りを強要してきたらと考えたら恐ろしくて想像もしたくない。
こちらの世界にやってきたという少女が蜀の情報を知っているとは思えないが、利用価値が多いことは確実だ。
事は一刻を争う。
に武術の嗜みがない以上、無謀な行動は取らないだろうが、あれほどの美姫だ。
戦場という女気のない場所で無事でいられるかどうか怪しい。
命の保証がされたとしても、その身の保証まではしてくれないだろう。
この時代の女性は戦利品のようなものだ。
見るからに無垢な美少女を前に、血走った男が愚行に走らないとも言い切れない。
そうなった時には同じく想像を絶するような悲劇が待っているだろう。
勿論相手の男に対してだが。
この状況で刺客を放ち女性を拉致する相手がどこかなど聞くまでもなかったが、細作からの報告で疑念は確信へと変わった。
蜀と呉の同盟を疎ましく思う国は1つしかない。
曹魏だ。
三国の中でも最大の勢力と武力を誇る大国。
孔明でなくとも予測は簡単だ。
今、この状況で干渉してくる勢力はあの国しかいない。
そして予想は正しく、城下を疾走する数頭の馬を目撃したという民の証言から、陣頭指揮を執っているのが張コウであることが判明した。
隠密行動だというのに相変わらずの派手な出で立ちだというのが彼らしい。
まともに戦っては圧倒的にこちらが不利だが、一部隊しかいないのなら勝算はある。
国境を抜ける前に包囲してしまえばこちらの勝ちだ。
人質を無傷で救出することが最優先であるため難易度は高いが、こちらには呉でも屈指の頭脳を持つ陸遜がいる。
凌統も尚香を救ったに恩を感じているようだし、十分過ぎるほどの戦力になるだろう。
どちらにしろ火急且つ速やかに行わなければならないことに変わりはないが。
「趙雲殿、よろしくお願いしますよ」
報告を受けるなり飛び出していった男の表情を思い出し、できれば数名は生け捕りにしてもらいたいものだと孔明は呟いた。
◇◆◇ ◇◆◇
「本気で拉致監禁なう」
長椅子に腰掛け、は小さく呟く。
意味が分かる人はいないだろう。いても怖いが。
病人の看病をしていたはずなのに、気付いたら見知らぬ建物。
そして傲岸不遜という言葉がこれ以上ないほどに似合う男性との対面。
驚くことは沢山あったが、驚いている暇すらなかったのが現状だ。
理由は簡単。
曹丕と呼ばれたあの男性にこれでもかというほど振り回されたからだ。
「あの人…後で殴る、絶対殴る」
長椅子の上で膝を抱き、はこぶしを握りしめた。
普段から温厚ながここまで怒るということは珍しい。
元いた世界でもなかっただろう。それほどは怒りという感情から程遠かったのだ。
それなのに何故、曹丕にはそんな感情を抱くかと言われれば、曹丕の性格を知る者なら納得してしまうだろう。
拉致されてきたくせに気丈な態度のを面白いと思った曹丕が、彼女を側女にすると宣言したのだ。
しかもの細い腰を引き寄せ耳元で囁くというオプション付で。
恋愛経験が皆無のが耐えられるはずはない。
悲鳴と共に曹丕の頬に平手打ちをかましたのは、最早脊髄反射と言えよう。
抵抗したことに余計興味を煽られたのか、曹丕が獰猛な笑みを浮かべた。
それに怯えたが逃げようとするのは当然だ。
先程危険だと躊躇った窓に躊躇なく飛び出そうとしたが、当然のことながら曹丕がそれを許すはずはない。
『気の強い女は好きだが、往生際が悪い女は好かぬ』
そう言って腰に佩いていた剣を抜くとの目の前で一閃。
斬られたと錯覚するほどの殺気に目を閉じたは、己の身に起きた事態に気付くのが遅れた。
気が付いたのはそれからすぐのこと。
ありえない場所に風を感じて目を開ければ、が着ていた服が見るも無残な形に切り刻まれていたのだ。
『その色、目障りだ』
そう言うなり曹丕は侍女にを着替えさせるように告げると、への関心など一切失くしてしまったかのように部屋から出て行った。
残されたのは服の残骸を身に纏ったまま茫然とすると、困惑した様子の数名の侍女。
彼女達に連れられるままに本日3度目となる沐浴をさせられ、またもやこれでもかという程に磨かれたは、今度は魏の色だという青を基調とする服に着替えさせられたのだ。
ここでも侍女たちが若干嬉しそうだったのは気づかないことにしたい。
蜀の時と同じく、白地を基調とした青い服は一目で高価なものだと分かる素材だったが、それを身に着けることは魏の所有物であると言われているかのようで面白くなく、当然のことながらはそれを拒絶した。
だが自分が身に着けていた服は曹丕によって木端微塵に切り刻まれており、最早修復すら不可能だったため、泣く泣くそれに着替えるしかなかった。
着心地は素晴らしく良かったが、だからと言ってどん底まで落ちた機嫌が復活するはずもなく、の機嫌は生まれて初めて地を這っていた。
だからと言って侍女に当たるわけにはいかない。
彼女達は何も知らないのだから。
「いやだなぁ。皆心配してたらどうしよう」
ここが敵陣地だということは嫌というほど理解した。
自分が拉致されてきた人質だということも。
果たして異邦人である自分にそんな価値があるかどうかは微妙だが、最も安全である城内から女性を拉致された以上、蜀が黙っていないのではないだろうか。
助けてもらいたいと思うけれど、そうなれば必然的に開戦である。
自分が原因で戦が起こるなんて自体だけは避けたいのだが、ではどうすればよいかには分からない。
何しろこの時代の地理など分かるはずもないし、見渡す限りの荒野で右も左も分からない以上、無事に陣地から逃げ出せても路頭に迷って餓死するのがオチだ。
はそれなりに自分の能力を理解している。
21世紀の最新技術と世界一の治安に守られていたが1人で生きていける世界でないことくらいわかるのだ。
かと言ってこのままここにいて曹丕の愛妾になどされてはたまったものではない。
どうにかして情報を得られないだろうかと考える。
勿論、曹丕にはなるべく接触しない方向で。
は椅子から立ち上がって窓へと視線を移す。
明らかに閉じ込めるつもりの室内である。
明かり取りのための窓は頭上高い位置にしかなく、がどう頑張っても手が届く場所ではない。
仮に手が届いてもはめ殺しのようなので逃亡には使えないだろう。
となると残るは部屋から出なければいけないのだが、確か侍女たちが部屋から出ていく時に鍵を掛ける音が聞こえたからそちらも無理だろう。
「ということは…詰んだ? いやいやそんな」
嫌な予感が頭をよぎり、は慌ててそれを否定した。
折角五体満足で手足も拘束されずに済んでいるのだ。
現実に絶望するよりまずできることから始めたい。
そんな理由でどこかに隠し扉がないか、武器になりそうなものはないかと室内を物色していたのだが、長持ちの中を探っていたはいつの間にか背後に人影が迫ってきていることに気付かなかった。
「何をしているのです?」
「――――っ?!」
ポン、と肩を気さくに叩かれて文字通り飛び上った。
上げかけた悲鳴は大きな手のひらによって防がれ、暴れようとした身体は逞しい腕に拘束されて動きを封じられた。
「しっ。静かにしてください。見張りに気付かれますよ」
「…………………」
柔らかい口調の声がの耳元で囁かれる。
曹丕にされた時とは全く違う優しい声にが抵抗を止めた。
恐る恐るといった様子で振り向いた先にいたのは、見上げるほどの長身の男性。
美形、と称して良いだろう。
何だかばっちりと化粧をしているので、ただの美青年と呼ぶのは若干躊躇われるのだが。
「黎月華…で、よろしいですね」
噛みしめるように名を呼ばれては頷いた。
正確には違うのだが、それを彼に告げる必要はないだろう。
そもそもが『黎月華』だから連れてこられたとすれば、ここで否定すれば命はない。
が肯定すると目の前の男性が花開くように笑った。
「あぁ、やはり。あの頃と変わらず――いえ、あの頃よりも更に美しい」
「――貴方、は…?」
拘束を解かれたは青年から離れるように数歩、後退した。
見たこともない男性。
に対して害意はなさそうだが、身に纏う青色が油断を許さない。
警戒した様子のに気付いたのか、男性は敵意などないとでも言わんばかりに両手を広げてみせた。
「これは失礼を。私の名は張儁乂。貴女の兄上方とは生前に誼を通じさせていただいておりました。妹君である貴女のこともよく話を聞かされたものです。兄上方が自慢する通り、本当に仙女のように美しい」
「………………………………」
さて、どうしよう。
状況も忘れてが心の中でそう呟いたのは無理のないことである。
- 12.11.05