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比翼連理 19


これは奇跡だと張コウは思った。
まだ若い頃に出会った無二の親友の面差しを残す少女を見た時、張コウは己の目を疑った。
侠客の間で名を馳せた黎兄弟。
仁義と礼儀を重んじる優れた侠客であった彼らに妹がいたことを知る者は多い。
だが彼らは妹を滅多に友人たちの前に見せるようなことをしていなかったため、存在こそ知っていても姿を見たことのある者はほとんどいなかった。
彼らと親しいと自認する張コウですら同様で、張コウが月華の姿を垣間見ることが出来たのは偶然が折り重なった結果の僥倖だ。

ある夏の日、たまたま彼らの故郷へ足を運んだ張コウが月見酒と称して兄弟と酒を酌み交わしたのはいつもと同じ。
だが酒に火照った体を冷やすために中庭に足を向けたのはその時が初めてだった。
黎家の中庭は花を愛でる奥方と息女のために色とりどりの花が咲いていて艶やかで美しかった。
美しいものを好む張コウがその庭に魅入られるように足を踏み入れるのは必然で、そしてそこで張コウは天女の化身かと見まごう少女に出会ったのだ。

距離は離れていたから少女から張コウの姿は見えなかっただろう。
年の頃は15〜16歳の、とても美しい少女。
欄干にちょこんと腰を下ろした姿は行儀が良いとは正直呼べなかったが、月を見上げて詩吟を口ずさむ姿があまりにも幻想的で言葉が出てこなかった。
夜目でもわかる艶やかな髪と月光を浴びて淡く輝いているようにも見える白い肌、愛らしい顔立ち、どれもが評判以上の美しさで驚いた。
成程、彼女が黎兄弟が大事に慈しんでいる妹かと気づけば、良からぬ想いが胸をよぎったのは否定できない。
何しろ黎家息女の利発さと慈悲深さと美しさは兄たちから嫌というほど聞いているのだ。
ついでに言えば少々お転婆が過ぎるという話も聞いてはいるのだが、これほど腕の立つ兄が身近にいるのだ。武術に興味を持ったところで仕方ないと特に否定するつもりはない。
黎家の少女は密かに侠客たちの中で人気が高いのだ。

張コウは酔ったふりをして少女へと近づいていく。
自分以外に誰もいないと思っていたために聞こえてきた足音に敏感に反応した少女が弾かれたように振り返った。
驚愕とほんの少しの警戒心を瞳ににじませた少女は、上の兄よりも下の兄に面差しが似ていた。
大きな瞳が張コウを見上げ、そして兄の客だと気づいたのかふわりと緊張が消える。
不用心だと思いながらも、少女に無礼を働くような男を兄が家に上げるわけがないという無条件の信頼のように思えて面映かったのを覚えている。

言葉を交わしたのはほんの数分。
すぐに月華が部屋にいないことに気付いた侍女が探しに来て彼女は部屋に戻っていった。
あの時の月華の年齢が、確か記憶通りならば15歳。
それから2年ほどして、彼女は亡くなった。
もう、10年近く前の出来事だ。

襲撃の噂を聞いたのは10日程経過してからのこと。
あの美しく優しい人たちばかりだった村が全滅したのだという話は、俄かには信じられなかった。
自分と時を同じくして訃報を聞いた兄弟は、たまたま旅に出ていて不在だったらしい。
不幸な偶然が重なった結果は、兄弟にも張コウにも胸に苦いものを落とした。
あまりにも深く嘆き悲しんだせいだろう、兄弟は失意のうちに病を得て帰らぬ人となった。
最期を看取ったのは張コウだった。
その時は既に他家に仕えていたけれど、何とか暇を貰って彼らの故郷に骨を埋めに行った。
美しかった村は廃墟と化し、そこに人の気配は皆無だった。
誰かが作ったのだろう簡素な墓が小高い丘に並び、その中の1つに朽ちかけた花輪が飾られていた。
これが月華の墓なのだろうとすぐに分かった。彼女はこの上なく花を愛した人だったから。
おそらく埋葬した人物が彼女に捧げたのだろう。
張コウはその横に2人の骨を埋めた。
家族仲が良すぎるくらい良かった兄妹だから、離れ離れの場所に埋葬するより喜んでくれると思ったのだ。
それから一度もあの村を訪れていない。
張コウ自身が仕官先を変えたために遠くなったというのもあるが、あの寂しい風景をもう二度と見たくないと思ったのも隠しようのない事実だ。
ほんの少ししか会話をしていないが、それでも彼女の聡明さや優しさに惹かれた自分がいた。
彼女との楽しい思い出の残る場所が無残に朽ち果てていく姿を見たくなかったのだ。

そう、あれはきっと張コウの初恋だった。

あれから10年近くが経過したが、彼女以上に心惹かれる人には今のところ逢っていない。
美しい女性は沢山いた。だけど、ただそれだけ。
月華のように内面から光り輝くような女性はどこにもいなかった。

そんな張コウの前に現れた1人の少女。
『黎月華』と名乗る、本物の月華の面影をそのまま宿す少女は、見知ったはずの張コウでさえも目を疑うほどに『月華』と酷似していた。
姿形は言うに及ばず、時折見せる小首をかしげる仕草とか、花が開くような柔らかい微笑みとか、身分の低い女官にも丁寧に接する心優しさとか、全てが記憶の中の少女を彷彿とさせた。
彼女を『月華』だと信じるのは簡単だ。あのような女性は2人といない。
だが、そうするには年月が経ち過ぎていた。
彼女が亡くなったのは17歳。
もし仮に生きていたとしても張コウと同じように成長していなければおかしい。
彼女と張コウはそれほど年が変わらないのだから。
目の前に現れた少女はどう見ても16〜17歳。
張コウが初めて対面した時より若干大人びているものの、それでも大人と呼ぶには幼さが勝る。
これは一体どういうことなのだろうか。
『黎月華』を騙ることは許されない。
だが、どこをどう見ても記憶の少女と瓜二つで張コウは混乱する。
何よりも彼女を連れてきたのが趙雲だということが更に混乱を深くさせた。
趙雲の名は武人として有名になる前から知っていた。
あの兄弟が認めた月華の許嫁として。
将来有望な若武者として。
趙雲が月華の偽者を認めるわけがないと勝手に判断した張コウは、確認と宣戦布告の意味を兼ねて少女を浚ってきたのだ。
そうして話をすればするほど、目の前の少女が本物にしか見えなくて――――結果、張コウは認めるしかなかった。

どういう因果か仙術か不明だが、この少女が紛れもなく『黎月華』なのだということを――――。



「ということですから、そう簡単には貴方には渡しませんよ。趙将軍」







   ◇◆◇   ◇◆◇







さて、残されたはと言えば完璧に行き詰っていた。
そもそも城の構造なんてわからないため逃走経路を練ろうにもこの部屋以外の状況が何一つわからない。
敵の陣地、それも総大将が居を構える居城である(多分)。
警備も厳重になっているだろうし、何と言っても側妾候補とは言っても敵国の俘虜である自分が出歩くことは危険以外の何物でもない。

だが諦めたらそこで試合終了である。
この場合はの人生が終了となる。それはかなりよろしくない。

「屋根……無理。窓……こちらも無理。となると残るはこの扉しかないわけで」

重厚な扉を前にはう〜んと首を捻る。
見るからに頑丈そうな扉なのである。
が体当たりしたところでびくともしないどころか、おそらく扉前に控えている警護の兵に見つかって一貫の終わりになる可能性が高い。
扉の向こうではどたばたと慌てた足音が聞こえている。
どうやら張コウの言う通り呉と蜀の軍は本当に近くまで迫っているのだろう。
逃げる様子が見られないことからこちらの兵の数もそれなりに多いのだと推察される。
戦を前に気が昂っている兵士と丸腰で対面する勇気はにはない。
平和ボケした平成生まれの日本人が、戦乱の世を身一つで生き抜いてきた兵士を相手に勝てるわけがないのだから。
だけど大人しく囚われのお姫様をやってはいられない。
何しろは居候の身。
一応許嫁という立場にはあるけれど、そんなもの何百何千の兵士の命とは比べものにならない。
むしろそんな犠牲を出してまで救出されるとか申し訳ないので何とか戦そのものを阻止したいものである。
最善策はが単独で逃亡することなのだが、地の利がない上に唯一協力者になってくれそうな人には却下されてしまっている。
本気で詰んでしまったのだろうかと思う程には焦っているが、駄目元で動き回るほど自暴自棄になってないのは我ながら流石である。
どうにかして逃走経路及び逃走手段を見つけなければと、は先程から扉の前で己の知識を引っ張り出しているのだが、これがどうもうまくいかない。
伊達に書物に囲まれて暮らしてたわけではないのだが、冒険ものや戦争ものはそれほど読んでいなかったのが悔やまれる。
どうして三国志や水滸伝や岩窟王を読んでいなかったんだ自分とか頭を抱えたところでどうにもならないのだから仕方ない。

「とりあえず、ちょっと静かになってきた、かな?」

先程から煩いほどに聞こえてきた足音がピタリと聞こえなくなっている。
窓の外は見えないけれど、戦が始まったようにも見えない。
これは準備が一段落したのだろうか。
物は試しとばかりに扉に手をかければ、それは思ったよりも簡単に開かれた。
張コウが出ていく時に閂を下ろされたような気がしなくもないのだが、どういうわけか鍵はかかっていなかった。
ついでに言えば見張りもいない。

これは逃げるべきでしょう、とは足音を立てないようにするりと扉を潜り抜けた。
どうしたら外に出られるかという重要課題をクリアするべく階段を探す。
幸い人の姿はまばらだ。
いるのは数名の女官と一般兵らしき若い兵が数人。
堂々としていれば咎められないだろうと思った通り、を呼び止める兵士は今のところいなかった。
心臓が壊れてしまうのではないかというほど大きな音を立てているが、それが他の人に聞こえるわけもないので何とかポーカーフェイスを貫いてさり気ない仕草で窓の外を眺めた。
建物が広すぎて階段が見つからないため、こうなったら窓から脱出するしかないだろうと覚悟を決めたのだが、実践すれば骨折では済まないことをはまだ知らない。

そんな感じで城内をうろつく本人は上手く誤魔化せているかもしれないと思っているが、明らかに貴人の恰好をした少女が武器も携帯せずに開戦間近の城内をうろつくのは不審以外の何物でもなく、結果として――――。



「そこで何をしているのです」



背後からそんな風に声をかけられてしまうのは当然だろう。


  • 13.06.21