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比翼連理 16


凌統が宴席を飛び出すより一拍遅れて動いた趙雲は、奥の間へ続く回廊であっさりと凌統を抜き去った。
入口で倒れている衛兵を見つけ顔が強張る。
安全だと過信していたわけではないが、宴席を経由しなければ入ることができないこの部屋にそう易々と侵入できないという思いがあったのは事実。
念のためにと配備した兵も一般兵ではあるものの腕に覚えのある者だったのだが、結果は目の前の惨状が物語っていた。
流石に血の匂いをさせては武人に気付かれると思ったのだろう、床に頽れた衛兵は昏倒しているだけのようだった。
だがその表情に緊迫したものが含まれていなかったために、もしかしたら彼らは刺客の存在すら気づくことはなかったのかもしれない。
それほどの手練れがこの場にいたという事実は趙雲を警戒させるのに十分だった。
室内には女性が2人。
しかも片方は病人で、片方は武術の嗜みすらない少女だ。
蹴り飛ばす勢いで厚い扉を押し開いた。
間に合ってほしいという願いは、だが必要以上に静かな室内に虚しく砕かれる。

「月華?」

決して広くない室内。
簡易的に作られた寝台で穏やかな寝息を立てる尚香に変化はない。
体力を回復させるためにと薬湯に混ぜられた睡眠薬が効いているのだろう。
若干顔色も回復しているため、彼女が物理的に危害を加えられた様子は見られない。

だが、その傍ら。

献身的な介護を続けていたの姿はそこにはなかった。

「月華?」

は普通の女性だ。
むしろ身を守る術を一切持たない彼女は、身のこなしも決して優れているとは言えず赤子と同程度の自衛力しかない。
手練れの衛兵を瞬時に昏倒させてしまうような刺客を前に抵抗できたとも思えないし、そもそも存在に気付くかどうか。
趙雲が背後に立っても気づかないほど気配に疎いだから、おそらく後者だろう。
平和な世界から飛ばされてきたというは、およそこちらの世界の誰もが持つであろう警戒心というものが欠如していた。
夜道を歩くのは流石に危険らしいが、そもそも女性が一人で外出して何も被害に遭わないという世界を趙雲は理解できなかったが、彼女の行動は正に生まれたから一度も自分が危険な目に遭ったことのない人が持つそれで、暗殺の心配などもなかった彼女の警戒心のなさは王侯貴族以上だ。
あまりにも無防備なそれが彼女を仙女だと誤解させる原因の一つなのだが、今はそんなことを気にしている状況ではない。

が一人で席を外したという考えは即座に否定して趙雲は室内へと鋭く視線を動かす。
静かな室内、眠る尚香。
そして、開かれた窓。
趙雲が部屋を去る時にはきちんと閉められていたそれ。
明かり取りのために作られた窓は部屋の上部に設置されており、の身長ではどうやっても届かない。
誰かが開けたのは確実だ。
卓に上り窓から外を見れば、柔らかい土にしっかりと刻まれた足跡が1つ。
明らかに男のものと思われる大きな足跡は、侵入者の痕跡と見て間違いない。
そこにのものらしき足跡はない。

ギリ、と唇を噛みしめた。
今度こそ絶対に守ると誓った少女を、このような形で奪われるとは想像していなかった。
忌々しげに振り返った室内には、事態に気付いたであろう陸遜と孔明、そして劉備の姿もある。
安らかに眠り続ける尚香に安堵した様子の劉備は、だが固い表情を浮かべた趙雲に気遣わしげな顔を向けている。
その手には見慣れた髪飾り。

「劉備様…」
「尚香殿の服の陰に落ちていた。意図的に外したのか何かの拍子で外れてしまったのかはわからぬが…」

装飾品に興味のない彼女が唯一身に着けていた髪飾り。
この国では珍しい真珠と銀細工のそれは決して華美ではないが、彼女の漆黒の髪に映えてとても綺麗だったのを覚えている。
孔明の命で湯浴みをした際も女官に着せ替え人形となっても髪飾りだけは変えなかったほどに気に入ってもらえたらしい。
それがここにある。
彼女が確かにここにいたという証かのように。

「趙雲」

劉備が静かに己の名を呼んだ。
髪飾りから視線を移すと、そこにいたのは一国を預かる君主の顔をした劉備元徳。

「我が妃の恩人を助けてくれ。彼女が危険な目に遭う前に、どのような手段を使っても構わぬから取り戻すのだ」
「――承知しました」

劉備の命を受けて趙雲は身を翻して外へと飛び出した。
趙雲は劉備の臣下だ。
その身に危険が迫る可能性がある以上、彼の傍を離れるわけにはいかない。
どれほどを大事に思っていようと、どれほど追いかけたいと思っていようと、忠臣としての責務がそれを許さない。
だが、君主である劉備直々に命じられれば話は別だ。
どのような手段を使っても構わないという言葉は、犯人の処遇すら任せるということで、仮にを拐かした相手が魏の相手であれば戦乱を招く結果となりかねない。
その判断すら趙雲に委ねたということだ。
一家臣に任せるには重大過ぎる権限だが、その言葉に宿る信頼に応えるべく趙雲は走り出した。







   ◇◆◇   ◇◆◇







どうしてこうなったのだろう。
見知らぬ部屋に閉じ込められたは首をひねる。
自分は尚香の看病をしていたはずだったのに、気が付いたら知らない場所にいたのだ。
移動した覚えは一切ないし、眠った記憶も当然ながらない。
尚香の額を冷やしていた布を取り換えようと手を伸ばしたまでは覚えているのに、その後の記憶がさっぱりだ。
何かに揺られていたような気がしなくもないが、もしかしたら転寝してしまって別室に運ばれたのだろうか。
ご丁寧に寝台に寝かされたいたのだからその筋も正しいかもしれない。
だが、何だろう。
何となく劉備の城とは違うような気がしてならないのだ。
当然ながらはこちらの城や建物について詳しくない。
知っているのは趙雲の邸と城の宴席と奥の間だけだ。
だから比較する材料としてはとても少ないのだが、少なくとも劉備の城はこんなに静かではなかったような気がするのだ。
宴席が行われているから当然と言えば当然なのだが、あの城は人の行き交う音や笑い声が絶えず響いていた。
雰囲気も何となく穏やかで、だからこそ居心地が良いと感じていたのだが、この城は違う。
人の動く音は聞こえる。
だがピリピリと肌を突き刺さる空気が充満しているように思えるのだ。
戦場を知らないは平和な空気しか知らない。
だからこそ自分の知らないものに関しては過敏になっているのだが、本能的なそれには気づかない。
ゆっくりと身を起こして、半分ほど開かれている窓へと近づいた。
視界に入るのは中庭らしき庭園で、それらはお世辞にも手入れされているとは思えないほど乱雑に草木が生えていた。
遠くで聞こえる号令や金属が触れ合う音は、もしかしたら稽古の最中なのかもしれない。
崩れかけた塀、手入れの行き届いていない庭、穏やかさとは無縁の空気にの表情が一気に強張った。
間違ってもここは劉備の城ではない。

「どうしよう……。まさかの誘拐とか」

自分を誘拐する目的が何かはわからない。
趙雲の婚約者(偽装)ではあるけれど、素性の知れない自分が戦場において趙雲への抑止力になるかと聞かれれば微妙だ。
大切にされている自覚はあるが、劉備に槍を捧げている趙雲のことだ。
いざとなった時に自分よりも劉備を優先するのは当然。
世話をしていた身として苦悩はすると思うが、最終的に趙雲は劉備の命令に従うだろう。
そうなればを見捨てるのは必然で、だからこそは人質としては不向きだ。
捕らえて連れてくるより、あの場で命を絶った方が遥かに楽だっただろうに。
否、そう簡単に殺されても困るのだけれど。
どちらにしろはおろか衛兵に存在すら気取らせなかったほどの実力者だ。
何故、わざわざ連れ去ったりしたのだろう。

「とにかく、現状把握は基本よね」

事情も分からないまま大人しく閉じ込められているような性格ではない。
勿論逃げるのは不可能かもしれないが、周囲の状況を確認するくらいならできるのではないか。
見つかっても知らぬ存ぜぬを通せば何とかなるかもしれない。
趙雲や凌統が知れば頭を抱えそうなことを平気で考えながら、はよいしょと窓枠へ足をかけた。
完璧なインドア派でお世辞にも身体能力が優れているとは言えないだが、知識欲と行動力は人一倍だ。
この部屋が一階だということも幸いした。
窓枠の高さは1メートルほど。飛び降りて怪我をするようなこともないだろう。

「よいしょ、と。う〜ん、服の裾が邪魔」

長い、引きずるような裳裾は女官に飾り立てられた時のままだ。
少しも乱れがないことから随分と丁寧に運ばれてきたのだろうと察することができる。
何しろ一度も目覚めなかったし。
高価な衣装っぽいので汚れも破損も見られないことは有難いが、このまま動くのは若干どころではなく目立つかもしれない。

「と言っても破るのもなぁ」

そもそも布地を裂くなんて力技、にできるはずもない。
諦めて裾をさばき、身体の半ば以上を窓の外に出した時。



「――何をやっている」



誰何というよりは呆れを含んだ声がに問いかけた。
ぴた、と動きを止め声がしたであろう方角へと振り返れば、そこにいたのは趙雲と同年代らしき男性。
一見しただけで高貴な身分であることがわかる佇まいと、感情の窺えない端整な顔。
白地に青を基調とした衣装に身を包んだ男性が、不審者を見るような目でを見据えていた。
だが、その顔立ちよりもは彼が纏う色に目を奪われていた。

着の身着のままのにこちらの世界の服を用意してくれたのは趙雲の邸に仕える侍女だ。
何故か緑を基調とした服が多い――というよりも緑が含まれた衣装しかなかった――ことに疑問を抱いたに教えてくれたことがあった。

『緑は蜀の色なのです』

と。
この時代が三国時代だということは知っていたが更に聞いてみたところ、各国によって纏う色があるのだということだった。
蜀は緑。色の多少はあれど必ず緑が含まれた色を着用する。
呉は赤。陸遜や凌統の服装を思い出せば納得だ。
そして大国である魏の民が纏う色は青なのだと。
戦場で敵味方を見極めるのにこれ以上ない色彩による分類。
蜀の民でも青を纏う者がいないわけではないが、それでも含有量は緑の方が圧倒的に多い。
そうでなければ間諜の疑いをかけられて処罰されてもおかしくないからだ。
では、何故この男は劉備の国で青を纏うのか。
答えは簡単だ。

目の前の男が魏の人間であるからに違いない。
そして彼の持つ独特の気配は彼を高位な人物であることを証明している。
名前までは流石に知らないが、恐らく彼は。

「曹魏の将軍――」

思わずそう呟けば、目の前の男の眼差しがすぅっと細められた。

「大事に育てられた籠の鳥と思いきや、中々に慧眼だ」
「……褒められてるわけじゃなさそうですね」

が頬を膨らませれば、何が可笑しかったのだろうか男がくつくつと笑った。

「趙雲が愛でる仙女がどれほどのものか興味はあったが、成程、確かに毛色が違うらしい。さぞ良い声で啼くのだろう」

明らかな揶揄に頬が朱に染まる。
それではまるで寵姫のようではないか。
確かに婚約者のふりをしてはいるけれど、趙雲がそういう意味で自分に触れたことなど一度もない。
それなのに勝手に想像して勝手に他人を見下すなんて失礼だ。
見知らぬ男が急に現れた驚愕も、知らない場所に連れてこられた恐怖も一瞬で脳内から消えていた。

「自分の名も名乗れぬ卑怯者の言葉など、まともに聞く価値ありません」

不機嫌さを隠そうともせず男を見据えるに、男の瞳が更に細められた。

「どうやら気が強いらしい。美しいだけの飾り物というわけではないということか。だが時と場合を選ばない無謀さは愚かとしか言えんぞ」
「っ?!」

一瞬で間合いを詰めた男が半ば以上窓から身を乗り出したの腕を掴んで引きずり落とした。
そのまま床に叩きつけられそうになり衝撃に耐えるべく固く目を閉じたは、だが己の身体が何か柔らかいものに支えられていることに気付いた。
目を開けば見えたのは青い色で、何が起こったか理解する前に顎を取られて強引に視線を上げさせられた。
至近距離から見据えてくる冷淡な眼差しに息が止まる。
吐息すら触れそうな距離に驚くよりも、視線に絡め取られて思考が動かない。

「その度胸に免じて名を教えてやろう。美しき人形よ」
「人形って、貴方ねぇ」

先程から続けられる傍若無人な態度に、流石のも頭にきた。
不満を告げようとした言葉は、次いで発せられた男の言葉にかき消された。



「我が名は、曹子桓。魏の国主である曹操が第二子であり、曹魏の後継者となる男だ」


  • 12.09.12