戸惑いながらも女官に連れられて退室していくを見送りながら、孔明はその聡明さに驚きを隠せなかった。
趙雲からが蓬莱から戻ってきたという話を聞いていたものの、勿論それをすんなり信じるほど孔明は素直でも単純でもなかった。
趙雲が嘘をついているとは思っていないが、大方良く似た少女を見つけてきたのだろうと思ったのだ。
どちらにしろ趙雲が明るくなってきたのだから良い傾向だと思ったし、正直孔明には少女が『月華』であろうと別人であろうと構わないのだ。
彼女が蜀にとって無害であれば問題なし、害になるのなら排除するだけの話。
趙雲が溺愛していようと、世間知らずの少女の1人や2人ならば人知れず闇に葬ることなど容易いのだから。
だが、実際会ったの聡明さはどうだろう。
孔明にとって最高の女性と言えば妻である月英だが、それでも思わず目を奪うほどの聡明さと美貌を兼ね備えていた。
控えめな姿は好感が持てたし、見事な立ち居振る舞いは淑女の鑑のようだ。
何よりも彼女の瞳に宿る知性は無学の女性が多い中で際立って見えたし、ふわりと微笑む姿は清楚な美しさで一切の穢れを知らない清浄な存在に見えた。
この少女は世に2人といないだろう。
孔明をしてそう言わしめるほどに彼女は良くも悪くも「異質」だった。
趙雲が幼い頃に出会ったのが紛れもなくこの少女だというのなら、彼女を失ってから幾年経過しようと忘れられないというのも頷ける。
自分でも初めて出会った女性が彼女であれば、その後どれほどの美女に会おうと心を動かされることはないだろう。
それは外見だけの問題ではない。
服毒した尚香を咄嗟に庇い、宴席の誰に悟られることなく退室させて解毒を施した。
それも独断でだ。
下手をすれば暗殺の犯人だと間違われてもおかしくない状況、しかも相手は国賓でほんの少しでも無礼な態度を取ればその場で殺されてもおかしくないというのに、は何の躊躇も見せずに彼女を介抱することを選んだのだ。
退室の仕方はいっそ見事だった。
事情を知らない者は誰もが尚香が飲みすぎて倒れただけだと思っただろう。
孔明にすら悟らせなかった手際を勘がれば、当事者以外の誰もが彼女が毒を盛られたことに気付いていないはず。
本当に驚くべき手腕だ。
視線を室内に戻せば、穏やかな寝息を立てる尚香の姿がある。
解毒の処置が早かったために大事に至らなかったものの、やはり顔色は悪い。
だが命に別状はないはずだから数日もすれば回復するだろう。彼女は一般の女性に比べて体力がある。
「さて」
尚香は助かった。
が残しておいた証拠品のお陰で毒の種類もすぐに特定できるだろう。
宴席の出席者は誰1人城から出していないから、犯人特定も時間の問題だ。
どれもこれものお陰なのだから、見事と言わずに何と言えば良いだろうか。
「我々は、我々にできることをしましょう」
「はい」
まずは犯人の特定だ。
凌統が覚えているという女官を別室に呼び出しておいた。
半年前に入ったばかりの新米女官は、本来ならば宴席での仕事はなかったはずなのだ。
彼女がどうして宴席にやってきたのか、誰からその酒を出すように命じられたか。
聞き出すのはそう難しくないだろう。
孔明はそっと部屋を退室した。
背後に控える趙雲へと視線を向ける。
どことなく固い表情なのは、めでたい席を陰謀で汚した下手人に対してのものか、それとも愛しい少女までもが標的になっていたことか。
本心ではすぐにも少女の元へ行きたいだろうに、生真面目な彼は決してそれを口にしない。
公務を最優先事項だと己に言い聞かせている趙雲らしいが、それでも隠しきれない焦燥が顔に出てしまっているあたりまだ若い。
尤も孔明と比べる方が酷というものかもしれない。
孔明は必要なら肉親であろうとも手駒として斬り捨てる非情さを持っている。
それが軍師の性なのだとわかっているが、趙雲のように熱くなれない自分はもしかしたら人間として何かが欠損しているのかもしれない。
だが、そんな人間が今の時代に必要なのも事実。
自分の役割を果たしているだけなのだから仕方ないと割り切り、孔明は女官から話を聞き出した。
状況を把握していない女官は、孔明の予想通りあっさりと全てを白状した。
そうして告げられたある人物の名に趙雲は目を見開き、孔明は頭痛を堪えるようにこめかみを軽く叩いた。
◇◆◇ ◇◆◇
悪夢再び。
の脳裏にそんな言葉がよぎったのは着替えと称して浴場に連れていかれてからのこと。
立ち上る湯気に複数の女官。
その手にあるのは、つい数刻前に自分の身体を磨き上げてくれた品々。
入浴セットなんて可愛いものではない。
一皮むけた、という言葉が比喩ではないくらいに柔な皮膚をこすりまくった垢すりと軽石。
趙雲邸でもお世話になったそれに、は自分が因幡の白ウサギにでもなった気分を味わった。嫌というほどに。
多大な痛みと貧相な身体を見られるという精神的苦痛を伴う、あの恐ろしい入浴タイムが目の前に用意されていた。
「さあさあ、早く湯浴みを済ませて宴席にお戻りいただかなくては」
「あ、あの…」
「ご安心くださいませ。より美しく着飾らせていただきますので」
「いえ、そうじゃなくて。1人で大丈夫なので…」
「まあ、いけませんわ。姫様は御来賓ですもの。こちらの不手際で御衣裳を駄目にしてしまったのですもの。きちんとお詫びしなければ丞相に怒られてしまいます」
「そうですわ。それに、ほら、着替えの衣装もこんなに用意させていただいてますのよ。姫様に一番似合うものを探さなければですし、少々凝ったものもありますのでお1人で着替えは難しいと思います」
「はぁ……」
着替えはともかく入浴くらいは1人で済ませたいと思ったが、あれよあれよという間に汚れた服を脱がされぽいっと湯船に放り込まれた。
勿論対応はとても丁寧だったが、心情的にとてもつらい時間だったのは間違いない。
「まぁ、姫様の肌ってばとても肌理細かいんですね。色も白くてすべすべで、まるでお餅のようになめらかですわ」
「本当に。絹のようで触れているととても気持ち良いですね。趙雲様が羨ましい」
「え……」
「姫様のお肌の手入れをさせていただこうと思っていたのに、これでは私共が姫様にお手入れの方法を教えてもらいたくらいですわ」
「真珠のような光沢ですもの。本当に綺麗」
「えと、あの……」
この場にいるのは確かに女性だけ。
それなのに身の危険を感じるのは何故だろう。
蜀には女性が少ない。
月英や星彩など美女はそれなりにいるが、嫋やかな女性というのは身近に存在しなかった。
彼女達は武将と並んでも遜色のないほど武術に長けているし、自身を飾り立てることに興味がなかったため女官達が彼女の世話を焼くことはあまりなかった。
綺麗な女性をより美しく着飾らせることが女官の使命と、どこかずれた使命感に燃えていた女官が悔やしそうに極上の素材を見ていたことを、当然ながらは知らない。
そんな女官達の前に、いかにも飾り立て甲斐のありそうな美少女が現れたのだから、浮かれるなという方が難しいだろう。
何しろ彼女達は同盟国の相手(しかも花嫁)が服毒された事実を知らないのだから。
そんなわけでようやく目の前に差し出された極上品を前に女官の暴走は止まらない。
玉の肌を傷つけないように全身くまなく磨かれ、色とりどりの最上級の衣類をこれでもかと着せ替えて、化粧をしなくても愛らしい顔立ちを引き立てるように薄化粧を施して、艶やかな黒髪を丁寧に結い上げた。
「完っ璧ですわ」
先程の衣装よりも若干蜀の色である緑が増えた衣装に身を包んだを前に、女官達は晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
反対にの表情は疲れ切っている。
何しろ1日に2回も着せ替え人形にされたのだ。
1度だけでも十分過ぎる程に疲労したというのに、またもや同じ目に遭わせられたのだから疲労度は相当なものだ。
しかも趙雲邸の侍女のように親しいわけでもないから拒むのも申し訳ないし、結局言われるままにあの衣装この衣装と着替え続けさせられてしまった。
この際着れれば何でもいいと思ってしまったに罪はないだろう。
それでもどうにかして装飾品だけは拒んだので、の身を飾る装飾品は左手の指輪と最初から身に着けていた真珠の髪飾りだけだ。
その代わりに纏め上げた部分には色とりどりの花が飾られているのだけれど、高価な宝石に比べれば随分とマシである。
「うぅ、歩きづらい…」
ずるずると引きずる裳裾はやはり歩きにくい。
それでも何とか女官に礼を伝えて尚香の部屋に戻り室内に控えていた女官を下げて看病を代わった。
うっすらと寝汗をかいているが体調が悪化した様子は見られない。
少し席を外すだけだったのだが予想以上に時間を取られてしまったから尚香の体調が問題だったのだが、どうやら容態に変化はなさそうで安心した。
尚香は体力があるから回復も早いだろう。
寝台に横たわる尚香の手に軽く触れる。
毒の影響で低下してしまった体温は、布団の中に入れられた温石のお陰で少しずつぬくもりを取り戻している。
そんな彼女の手を温めるように軽くさすれば、意識のない尚香の表情がほんの少しだけ和らいだような気がした。
初対面であるにも関わらず、尚香はを気に入ってくれた。
その理由はわからないが、自分を気に入ってくれた相手を嫌う理由はない。
「早く良くなってくださいね、尚香様」
眠る彼女に聞こえるようにとはそう呟いたその時。
カタン、と背後で小さな音がした。
- 12.07.29