甦るのは、深々と胸を剣で刺し貫かれた月華の姿。
あと少しという所で手が届かなかった、最愛の少女の最期。
見開かれた瞳に映る己の不甲斐無い姿。
月華がとして己の元へ戻ってきた今でも、その無残な最期は悪夢となって趙雲を蝕んでいるほどに傷は深い。
二度と大切な人を失わないようにと武術を磨いた。
どんな状況であれ油断をしないと心に決めた。
それなのに。
ほんの少し離れた先でが尚香と共に床に崩れ落ちていく様を見て、趙雲は凍りついた。
また失ってしまう。
あの時の恐怖はどれほど時が経とうとも呪縛となって趙雲を縛り付けている。
「月華!」
趙雲は卓を蹴倒しての傍へと駆け寄った。
床に倒れているのは2人。
先程見た通り尚香と月華。
だが趙雲が危惧したような異変はにはなかった。
どうやら倒れそうになった尚香を支えきれずに一緒に倒れてしまっただけのようだ。
「月華、大丈夫か?」
「いたた、私は大丈夫…」
思ったよりも元気な声が返ってきて、趙雲は小刻みに震える手をきつく握りしめた。
尚香の酒癖の悪さは噂には聞いていた。
そもそも孫家は総じて酒癖がよろしくないようだと聞いていたのだが、婚儀の宴で酔いつぶれるほど飲むのは少々いただけない。
呆れたような溜息をついたのは凌統。
傍についていながら止めることができなかったとでも思ってるのだろう。
だが、陸遜の表情は厳しい。
「凌将軍、尚香様を別室に運んでくださいますか」
「おう」
特に鍛えていないは力を失った尚香を抱き起すことはおろか支えることもできないらしく、床にほとんど寝転がるような体勢のまま凌統を見上げた。
くったりとした尚香を支えるように手は彼女の背中に回され、優しくあやすように軽く叩かれている。
まるで眠い赤子をあやす母親のような仕草と困ったように笑うの姿が何とも微笑ましいが、子供ではない尚香を全身で受け止めているため少々苦しそうだ。
の細腕では確かに尚香を支えるのは不可能だろう。
尚香も細いがその身体は相当鍛えているため見た目以上に重いのだ。
「尚香様、少し席を外してお休みしましょうね」
ふわりと浮かんだ笑顔に、どうやら尚香が酔い潰れてしまったらしいと事態を認識した人々が、1人また1人と周囲から離れていく。
凌統はそんなに申し訳なさそうに目を細めると、脱力した尚香の身体を抱きあげた。
ふと感じる違和感に眉を顰め、そして彼女の顔へと視線を移し――弾かれるようにを見た。
おどけるように人差し指を口元に当てたの姿を見て、何かを言いかけたが結局諦めたように視線を逸らした。
がくるりと趙雲へ視線を移す。
「子龍様、どこか空いている部屋を用意させていただけますか」
「突き当りの部屋が空いているはずだ。すぐに用意させよう」
「ありがとうございます。桶と水を沢山いただけると助かります。――それから、典医と孔明様を」
後半はひっそりと呟くように。
おそらく聞こえたのは趙雲と隣に立つ陸遜くらいだろう。
静かに見開かれる瞳に、の表情が映る。
先程の柔らかい笑顔は既に消え、そこにあるのは真剣な眼差し。
の視線が趙雲の背後へと注がれる。
そこにいたのは馬超。どうやら彼も趙雲と一緒に来ていたらしい。
「馬将軍には城内の警護をお願いします。1人も城外に出さないよう。できればこの会場の出入り口も封鎖してください」
「おい――」
「お願いします」
そう言うと、はさりげない仕草で卓に置かれていた杯を持つと凌統の後を追った。
陸遜と趙雲もその後に続く。
宴席では変わらず宴が続いている。
心配そうな劉備の様子が気にかかったが、が目礼だけで済ませたということは場の空気を変えたくなかったからだろう。
それとも、異変を悟られたくなかっただけか。
「月華、尚香様の御様子は…」
「これはあくまでも私の推測ですが」
が静かな声で告げる。
視線は前を見据えたまま。
――どうやら毒を盛られたようです。
2人の目が大きく見開かれた。
◇◆◇ ◇◆◇
行動は迅速だった。
尚香は部屋に移され、の指導の下で胃の洗浄が行われた。
この時代には科学的な毒物はない。
農薬などのように吐き出させることで胃や食道が焼け爛れるようなことにはならないだろうと判断しての行動だ。
勿論自然界の毒物でも猛毒なものはある。
植物ならばトリカブト、動物ならば蝮やフグなどの毒は、医学が発達したの時代であっても死亡例は多い。
どちらにしろ尚香が毒を飲まされたのであれば、一刻も早い解毒処置が必要だったのだ。
それには体内に吸収される前に吐き出させるのが一番だと判断したが、典医が部屋に到着するよりも早く尚香の口に指を押し込んで無理やり吐瀉させた。
君主の正妃、しかも敵国の姫君に対してのいきなりの暴挙に凌統は顔色を変えたが、止めようとする凌統を制したのは陸遜だった。
自らの衣装が汚れるのも構わず尚香を吐かせ続けるは無礼討ちにあっても可笑しくない行動であるが、その行動が尚香の身を案じての行動であることは一目瞭然。
彼女が倒れた時の状況を把握している陸遜が止めない以上、事情を知らない趙雲が手を出すことはできない。
ある程度自力で吐かせた後は、大量の水を飲ませて更に胃を洗浄した。
尚香の異変が毒によるものか、正確にはわからない。
は知識は豊富だが医術を学んだわけではないし、医療の知識も一般人より詳しいレベルだ。
だが、それでもこの時代の誰よりも先進医療に関して情報を持っているのは確か。
今までに読んだ本から得た知識でも、ないよりはましだろう。
処置を終えた尚香をようやく寝台に移し、は濡れてしまった尚香の顔や髪を布で優しく拭った。
「気をしっかりとお持ちになってください」
「月…華…っ」
「大丈夫ですよ。尚香様は絶対に大丈夫ですから。私がついています」
毒による体温低下と嘔吐による体力の減少、更には暗殺という事実に精神的衝撃は大きいだろう。
だが苦痛に涙を流しながらもうっすらとを見上げる瞳には強い光があり、はそんな尚香を安心させるように笑みを向ける。
冷えてしまった手を温めるように己の手でしっかりと握りしめて、は尚香の瞳を見据えてそう告げる。
ふわりと安心したような笑顔が尚香の顔に浮かんだ。
「尚香様、いくつか質問がございます。お身体がつらいようなら瞬きで結構です。是なら1回。否なら2回。お答えいただけますか?」
尚香の目が一度だけ静かに伏せられる。
「吐き気はありますか」
一回。
「眩暈はいかがでしょう」
同じく一回。
「酷いですか」
二回。
「手足や口内の痺れなどは」
二回。
「胃の腑は痛みますか」
一回。
これは毒が体内に入ったのだから仕方ない。
「腹痛は」
二回。
「ありがとうございます。もう結構です。後は典医の診断を受けてゆっくり休んでくださいね」
良く頑張りましたねと、労わるように優しく髪を撫でる手つきはとても優しい。
その仕草は慈しみに満ちていて、不安や恐怖で強張っていた尚香の表情が見る間に緩んでいく。
鮮やかな瞳が瞼の奥にゆっくりと沈んでいくのを見届けた頃、ようやく到着した典医に事情を全て話して後を託すとはゆっくりと立ち上がった。
「勝手をいたしました。申し訳ありません」
そう言って深々と頭を下げる相手は孔明だ。
孔明は目の前で膝をつく少女を見下ろした。
綺麗な衣装は水や吐瀉物で汚れて見る影もない。
侍女が気合いを入れて整えたであろう髪型も乱れている。
だが、その姿がとても美しく孔明には見えた。
それらは全て尚香を救うために必死になっていた証拠なのだ。
初対面の相手。しかも相手は一国の正妃である。
萎縮して当然。
そんな相手が目の前で倒れたら、普通の少女なら悲鳴を上げて騒動になっていただろう。
だがはそれをしなかった。
いかにも尚香が酔い潰れてしまったかのように装い、場の空気を乱すことなく尚香共々退席して解毒の処置にあたったのだ。
しかもすべてを話し終えた後にから渡された杯は、尚香が飲み干したものと同じものがそっくりそのまま残っていた。
証拠になるだろうとがそのまま持ってきたものだ。
状況から、あの時尚香とに振る舞われた酒に毒が入っていると考えるのは自然なことだ。
は酒が得意ではないため舐める程度しか飲んでいなかったのが幸いしたのだろう。
舌先に感じた違和感と苦みは毒のせいだったのかもしれない。
どちらにしろがあの時飲まなかったお陰での体調は何の異変もない。
たった一口、しかも舐める程度だったので体調に異変をきたす程ではなかったのだ。
更には会場の封鎖も馬超に頼んであるという。
城門も閉じてあるため、尚香に毒を持った犯人はまだ城内にいるはず。
陸遜が杯を持ってきた女官の顔を覚えているため、犯人の特定も難しくないだろう。
戦を知らないではあるが、彼女の知識は驚くほど豊富なのだと趙雲から聞いていたが、まさかこれほど機転が利く相手だとは正直思っていなかった。
がその杯を持ってこなければ、倒れた卓を片づけるという名目で処分されてしまっていたかもしれないことを考えると、いくら感謝しても足りない。
これをただの少女が行ったということは信じられないが、孔明は目の前で起きていることを否定するほど愚かではない。
「月華殿」
静かに目を伏せて沙汰を待つ姿は女性にしておくには勿体ないほど潔い。
ゆっくりと上げられた瞳。澄んだ黒曜石のような瞳は、権謀術数渦巻く宮中において崇高な理想を掲げ続けている主君と同じ輝き。
蓬莱から戻ってきたという少女。
趙雲の言葉を全部信じたわけではなかったが、確かに目の前の少女は孔明が知るどのような女とも違っていた。
成程、趙雲が惹かれたのはこの麗しい容姿ではなく、彼女の内面なのだろうと納得する。
これほどの女性は確かに稀有だ。
幼い頃に出会ってしまったのなら、それから先の人生で他の女性など目に入らなくても仕方ない。
孔明の脳裏に、ある女性の姿が浮かぶ。
自分が選ばれた人間だと信じて疑っていない女性。
己を磨くことをせず、他人を貶し虐げることで自分の立場を明確にするようなあの女性は、たとえどれほどの財力を持っていようと趙雲の心を射止めることなどできなかっただろう。
そもそも役者が違いすぎる。
孔明はゆっくりと口の端を持ち上げた。
「月華殿。お疲れ様でした。後は我々に任せてください。あぁ、折角の衣装が汚れてしまいましたね。新しい衣装を用意させましょう」
「私は大丈夫で…」
「いえ、どうぞお着替えください」
拒否しようとしたを止めたのは陸遜だ。
陸遜は先ほどからずっとの行動を見ているだけだった。
尚香を心配して同行してきたものの、の見事な手際に手を出す隙がなかったのだ。
驚くほど迅速で的確な処置は、医術の経験がないとは思えないほど。
何の躊躇いもなく尚香を介抱する姿に驚くと同時に敬服した。
陸遜は男性で、緊急事態とは言っても女性の身体に触れるのにはどうしても抵抗がある。
だが一刻を争う事態でそんなことを言っていられないのは事実で、だからこそ己の身を顧みず率先して尚香の介抱をしてくれたに好感を抱くのは当然だろう。
「いつまでもそのような恰好をしていては風邪をひいてしまうでしょう。どうぞお召替えを」
「え、でも私はこちらで尚香様の看病を……」
「でしたら尚のこと、姫様が目を覚まされた時に汚れた格好では、姫様も気に病まれるでしょう」
「ですが、替えの衣装もありませんし……」
「そのくらいいくらでも用意させますよ。貴女は蜀の――そして今回の同盟の恩人なのですから」
陸遜と孔明。
後世に名を遺した名軍師2人の説得に否と言える相手がどこにいるだろうか。
眉を下げたまま趙雲を仰ぎ見れば、彼も静かに首肯する。
は諦めたように頷いた。
- 12.06.14