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比翼連理 12


面白くない。

女は回廊を歩きながらそればかりを呟く。
今日は最高の日になるはずだったのに、何もかもが台無しだ。
初めて見た時から惹かれていた。
どれだけの大軍でも物ともしない武術と、引き締まった体躯と、そして精悍な顔立ち。
何もかもが理想だった。
君主の覚えも高く、次期後継者であるその息子に至っては命の恩人でもある。
彼が将来この国にとって必要不可欠の存在になるのは間違いなく、そんな彼の妻になれば自分は一生安泰。
そのような打算が働いたのも事実だが、何よりも彼に惹かれたかに他ならない。
女は自分が誰よりも美しいと思っていた。
誰よりも美しく、誰よりも賢く、だからこそ誰からも愛される。
そんな自分に相応しいのは、美しく賢く、そして誰よりも優れている武将であるべきだ。
最初から候補は限られていた。
馬超、姜維。そして趙雲である。
馬超も姜維も蜀の民と呼ぶには異国の血が強すぎる。
しかも馬超は女好きとの噂があるし、姜維は年下だ。
そうなれば残る候補は趙雲だけ。
趙雲ならば全てが理想だった。
だから、どうしても欲しかったのだ。
彼は婚儀に難色を示していたけれど、そんなものは嫁いでしまえばどうにでもなる。
何しろ自分は誰よりも美しいのだから。
閨を共にすればきっと彼も自分を愛してくれるという自信があった。
だから騙し討ちのような形でも強引に婚約披露を行おうと思っていたのに――。



まさか趙雲自らが許嫁だという女を同伴してくるなんて。



大人しそうな女だった。
趙雲の半歩後を歩く少女は確かに美姫かもしれないけれど、それでも自分に比べたら明らかに劣る造作だ。
胸も腰も見応えがなく、飾り気のない姿は女としての魅力があるとは思えなかった。
それなのに誰もが見惚れているのが面白くない。
控えめに微笑んだその姿に周囲から洩れるのは感嘆のため息。

『流石は趙雲殿の選んだ御方。まるで仙女のようですね』

諸葛亮の声が耳から離れない。
彼が他人を褒めることは滅多にない。
外見よりも内面を重視すると評判の軍師が外見を褒めるのは自分の妻くらいのもので、他の女を褒めたなんて噂は聞いたこともない。
自分だって、挨拶以上の会話すら交わしたこともない。
勿論どれほど華やかに着飾った宴席でさえ褒められたことなど皆無だというのに。
ぽっと出てきただけの小娘には賛辞を向けるのかと思えば悔しさは倍増した。
誰1人として自分を見ていないという事実は、女にとって屈辱でしかなく。
そんな会場にいるのが耐えられないと広間を抜け出てきたのに、追いかけてくる姿はない。

面白くない。

女はもう一度呟く。
あの清らかそうな顔をした小娘に何とか恥をかかせてやることはできないだろうか。
そう思った時、思い出したのは懐に忍ばせてある小さな包み。
町を歩いていた時に偶然手に入れた薬だった。
服用すれば腹を下す程度の軽いもの。
何度か気にらない女官に飲ませたことがあるからその効果がどのくらいのものか知っている。
抜け出すことができない席で腹痛に苦しむ姿を見れば、少々溜飲が下がるかもしれない。

にやり、と女の口角が吊り上った。

向かいから歩いてくる女官が持つ盆を奪い取る。
その上に乗っているのは2つの杯。
甘い香りがするということは、まず間違いなく配られるのは女性だろう。
あの宴席に出席している女は、劉備の妻と趙雲が連れてきた小娘の2人だけ。
おそらく両者に出すものだろう。
持っていた包みの中身を杯に混ぜる。
白い粉はあっという間に溶けてなくなった。
1袋ならば軽い腹痛。だけどそんな程度では気が済まない。
女は持っていた包みの中身を全部その杯に混ぜると、厳しく口止めをして女官に渡した。
そう遅くない時刻には面白いことが起こるだろうと、扉に消えていく女官の後ろ姿を眺めて女は哂った。







   ◇◆◇   ◇◆◇







くるくると良く変わる表情が彼女の魅力だ。
礼儀をわきまえながらも親しみを感じる笑顔は誰もが魅了される愛らしさを持っている。
本人はあくまでも無自覚。だからこそ人を惹きつけてやまない。
はおそらく自分の造作がどれほど整っているかわかっていないのだろう。
どれほど趙雲が褒めようとお世辞だと思われてしまうのが若干悔しいが、その代わり他人の口説き文句も冗談だと済ませてしまうので助かると言えば助かっている。
の隣にいるのは陸遜と凌統。
陸遜は真面目な好青年だから問題はないと思うが、凌統は女性に関してあまり良い噂を聞かないものだから少しだけ不安だったのだが、彼がどれほど甘い笑顔を浮かべて話しかけようとも綺麗にスルーしているを見れば、そんな不安も見事に消し飛んだ。
はあまり男性と接点がない人生を送っていたらしい。
「チュウコウイッカンノジョシコウ」という趙雲にとっては理解できない環境にいたというは、同年代はおろか近しい異性と言えば父親くらいだというのだから、もしかしたら交友関係は月華の方が広かったかもしれない。
月華は彼女の兄の影響で名家の令嬢でありながらも市井に出て見聞を広めていたから、異性の知人も多かった。
特に侠客である兄の友人は頻繁に月華の家に出入りしていたから、月華も何度となく顔を合わせていただろう。
好奇心が強すぎるくらい強い少女だったから。
そんな月華に比べれば、は驚くほど異性慣れしていない。
穏やかな性格をしているものだから、少しでも目を離せばよからぬことを考える輩に連れ去られてもおかしくないだろう。
だからこそ邸の警備を増やし、の周囲には必ず侍女を従わせ、決して1人にならないように気を付けていた。
幸いなことに自分をただの居候だと信じているが趙雲の許可なしに外出することがなかったため、今のところ趙雲の不安は杞憂に終わっている。
杞憂で終われば良いと趙雲は思う。
このままずっと趙雲の下で平和に安全に生きていけば良い。
今度こそ、何があっても守ってみせるから。
願わくばが自分のことを受け入れてくれればよいのだが、それは焦る必要はないだろう。
彼女が『月華』である以上、それは問題にはならないだろうと趙雲は確信していた。



「にやけた顔しやがって」

不意に後頭部を小突かれて視線を向ければ、黄金の兜を身に着けたままの友の姿。
両手には杯を持っている。
どうやら酒の供を探してやってきたらしい。

「馬超」
「自慢の許嫁を見せびらかして良い気分なのはわかるけどな、普段のお前と違いすぎて不気味だぞ。何だその甘い顔」
「美しく着飾った恋人が目の前にいるのに嬉しくない男はいないだろう」
「まあ、確かに稀に見る美姫だ。流石は全身肝の将軍の心を射止めただけのことはある」

手に持っていた杯を強引に趙雲に押し付けて、馬超は空いている隣の席に座る。
そこはの席だったのだが、主賓である尚香に抱きつかれたままのがこの席に戻ってくるのは当分先の話になるだろう。
下手をしたら戻ってこないかもしれない。
それほど『趙雲の心を奪った姫』の存在は宴席で関心の的なのだ。
今は尚香に捕まっているから他の武将は話しかけることができない。
彼女の気が済んで戻ってくれたとしても、今度は蜀の皆から質問攻めにあうのは間違いないだろう。
特に彼女が異世界からやってきた事を知っている孔明などは、この機会に接触を試みるつもりなのは間違いない。
彼女がこの席に戻ってくるのは諦めた方が良いかもしれない。
そんなことを思いながら苦笑を浮かべた趙雲の耳に小さな音が聞こえたのは、気のせいではない。

宴は時間が経過するにつれて騒々しさを増している。
酔いが過ぎた者がふらついて椅子や杯を倒してしまう回数も多く、決して静かとは言えない宴席ではあるが、その小さな音は不思議と趙雲に悪い予感を感じさせた。
視線を向けたのは愛しい少女がいる場所。
凌統や陸遜の陰に隠れている小さな姿に、理由もなく安堵の吐息をついた――その目の前で。



2人の少女が床に崩れ落ちていった。


  • 12.06.04