宴は順調に進んでいった。
主賓の1人に気に入られたは、尚香の強い要望により彼女の隣に座らされた。
まさかの待遇に戸惑ったのはである。
の身分はこちらでは平民も同然だ。
あるとしたら趙雲の許嫁(仮)という立場くらいで、とてもじゃないが国主の正妃の隣に並べるほどの身分ではない。
いくら蜀では知らない者はいないと言われる趙雲ではあるが、所詮は臣下。
五虎将軍の1人とは言え、蜀では決して高い身分ではない。
その許嫁となればやはりそれ相応の身分となるため、決して国主の正妃の隣に座することなど許されるわけがないのだが、そこはやはり身分に緩い蜀ならではなのだろう。
当然のように席が設けられ、これまた当然のように劉備自ら杯を手渡された。
「趙雲殿が許嫁を連れてくるって言うから、ずっと楽しみにしてたのよ。ここは同年代の女の子が少ないんですもの」
「勿体ないお言葉ですわ、孫妃様」
「もう、尚香って呼んでって言ってるのに」
「ですが…」
「私が呼んでって言ってるんだからいいの。ね、劉備様」
「あぁ。尚香殿は気さくな方だから気にする必要はない。親しくしてもらえると私としても嬉しい」
「は、はぁ」
国主自らそう乞われて断れる家臣がいるだろうか。
しかもの保護者(許嫁とはあくまでも形だけのことだ。…今のところ)は趙雲である。
劉備様第一の趙雲が彼の意向を無下にすることなどあるはずもなく、ちらりと視線を向ければ申し訳なさそうに苦笑された。
が尚香の隣にいるということは、当然のことながら趙雲の隣は空席だ。
同伴してきた許嫁をいきなり主君の奥さんに連れていかれてしまったのだから趙雲としても若干困るのだが、相手が相手なので強く言うこともできない。
そもそも今回の同伴は蜀の重臣達にを見せつけることにある。
趙雲の許嫁が文官の娘でないことを知らしめるという点においては、今のところ大成功である。
周囲は好意的にを見ているし、劉備も尚香も好感を抱いてくれているようだ。
もっともは趙雲が知る限りで最高の女性なのだから、嫌われることなどないのである。
ごく一部の野望を持つ者以外には。
趙雲は笑みを浮かべたまま視線だけを動かした。
視界の端に捉えるのは、憤怒の形相と呼んでも相応しいほど顔を歪めている令嬢。
いつも露出の激しい服装をしているが、今夜の恰好もまた見事なまでの露出っぷりだ。
名家の令嬢には到底見えない。良くて旅芸人、下手すれば遊び女のようである。
豪奢な宝石は下品なほどで、明らかに主賓である尚香よりも飾り立てている。
しかもそれが似合っていないものだから、趙雲の目には醜悪にしか見えない。
激しく開いた胸元も、目尻を下げて眺めているのは一部の酔客くらい。
それに比べての何と清楚なことか。
色が白いせいであまり濃い色が似合わないということで、彼女の身体を覆うのは趙雲と同じく銀を基調とした淡い碧だ。
ほっそりした身体では重い飾りはつらいだろうという侍女の思惑なのか髪飾りは真珠を施した1点のみ。
だがそれがの艶やかな黒髪を更に引き立てている。
化粧も普段に比べればしっかりと施されているが、居並ぶ女性陣に比べればとてもささやかなものだ。
それでもは会場の視線を一身に集めている。
尚香との会話で時に嬉しそうに、時に不思議そうに相槌を打っている姿は楽しそうで、そんなの笑顔は見ているだけで癒される。
最初こそ緊張していたようだが、もともと人見知りをしないは人と打ち解けるのが早い。
身分にこだわらないは、邸内の家人ともすぐに打ち解けた。
同じように尚香ともすぐに打ち解けると思っていたのだが、趙雲の予想以上に尚香に気に入られてしまったようだ。
果たして自分の隣に戻ってくるのはいつになるのやら。
愛しい少女を目の前で愛でていたいと思う趙雲にとっては少々寂しいものがあるが、彼女が周囲に受け入れられるのは嬉しいので我慢するしかない。
そんなことを考えているとの視線がこちらへ向けられた。
若干疲れているように見えるそれに笑みを浮かべれば、の顔が朱に染まった。
あぁやはりは可愛いな、などと思っている趙雲は、己がどのような表情を浮かべているかまったく気づいていなかったのである。
◇◆◇ ◇◆◇
「趙雲殿のあんな顔、初めて見ちゃったわ」
うふふふ、と笑いながら尚香は杯を傾ける。
尚香は女性――しかも一国の姫君でありながら武勇に秀で、それが高じて戦場にまで赴くようなお転婆姫である。
当然のように蜀との戦にも参戦したことがあり、そこで趙雲の武勇を幾度となく目にしてきた。
無表情で槍を振るい大勢の兵を倒してきた彼には武人として敬意を抱き、そして敵軍の将として歯がゆい思いをしてきた。
尚香が知る趙雲と言えば、端正な美貌に一切の表情を浮かべず、ただ前を目指して敵を倒す猛将という印象しかない。
だからこそ、あのように甘やかな眼差しで女性に微笑みかける姿など見たこともなかったし、そもそも想像すらできなかった。
それは蜀にいる女性達にとっても同様のようで、初めて見せる趙雲の甘い笑顔に給仕の女官達が頬を染めて目を奪われている。
美形の笑顔は見ていて楽しいものである。
意中の相手であろうとなかろうと、眼福であることは間違いない。
それが滅多に笑わないと評判の趙雲のものならば、稀少価値は遥かに高い。
だが、それはあくまでも尚香やその他大勢の女性にとってであり、微笑みかけられた当人であるにとっては日常茶飯事のこと。
むしろ甘い言葉が追加されていないだけ耐性はついたというものだ。
「そうですか?」
きょとんと不思議そうに首を傾げるに、尚香が目を丸くする。
「えと、月華は趙雲殿のあの顔は見慣れてるの?」
劉備すら驚いたほどの表情だ。
おそらく蜀の宮殿内でも滅多に見せないものなのだろう。
だがはあっさりと頷いた。
「はい。邸にいる時はいつも」
何かおかしいのだろうかとでも言わんばかりのに驚いたのは尚香だけではない。
劉備も目を丸くしているし、丁度話に加わろうと杯を片手にやってきた凌統と陸遜ですらその言葉を聞いて驚愕の表情を浮かべている。
まるで別人のような趙雲の姿をいつものことだと言うということは、の前では常に笑顔だということだろう。
まぁこれだけの美姫を前にしたら笑顔にもなるというものだと凌統は納得する。
勿論そこに愛情があるからなのは間違いない。
美人は目の保養である。
本国の女性が一番美しいと思っている凌統であるが、それでもそこに美人がいれば愛でてみたいと思うし、お近づきになりたいとも思う。
しかも相手は猛将・趙雲の掌中の珠である。
どのような女性か知ってみたいと思うのは当然だろう。
見た目はたおやかな仙女。だが、中身はどうだろうか。
同じような理由で陸遜もに興味があった。
趙雲が選んだのだから内面も優れているのだろう。
瞳に知性を宿すこの女性は一体どのような人物なのだろうか。
「それより、姫さん。俺らにも紹介してほしいんだけど」
「あぁ。ごめんなさいね。月華、こっちは凌統と陸遜。一応呉の武将と軍師なの」
「一応はひどいな。初めまして、姫君」
「初めまして、陸伯言と申します」
尚香の声に応えるように目の前の青年が揃って頭を下げる。
「初めまして、凌将軍、陸将軍。趙子龍が許嫁、黎月華と申します」
趙雲の家で教わった礼儀作法を思い出して、は椅子から立ち上がり頭を下げる。
慣れない仕草ではあるけれど、日本式の礼儀作法は母に叩き込まれていただから、何とか様にはなったのではないだろうか。
「月華、凌統は手が早いから気を付けてね。絶対に2人っきりになっちゃ駄目よ」
「ちょ…姫さん。それじゃ俺が悪い男みたいじゃないですか」
「あら、実際そうでしょう。呉の女官を何人も泣かせてるって聞いたわよ」
「それは…まぁ、残念ながら否定はしませんけどね。いくら俺でも許嫁のいる女性相手に口説いたりしませんってば」
「どうだか」
目の前で繰り広げられる軽口の応酬は何とも手慣れていて、多分これが2人の挨拶なんだろうなぁと思いながらは楽しそうに眺める。
は兄弟がいないから異性との距離が上手く取れないのだが、尚香は確か2人の兄がいたはず。
凌統のことは兄と同じような感覚なのだろうし、凌統の態度も可愛い妹に手を焼いている兄のようにしか見えない。
「仲がいいんですね」
思わずそう呟けば隣で陸遜が苦笑する気配があった。
視線を動かせば自分より少し高い位置にある眼差しと目が合った。
「お恥ずかしい姿を見せて申し訳ないです。お2人は兄妹のようでして、このような遣り取りは日常茶飯事なのです」
「楽しそうで良いではないですか。私は兄弟がおりませんから羨ましいくらいです」
「そう言っていただけると助かります」
尚香は元々気さくで、呉の武将とも仲が良い。
そもそも呉という国は全員が家族であるかのように仲が良いのだ。
特に酒の席では君主や臣下という間は関係なく騒いだりするものだから、姫である尚香と臣下である凌統は悪戯仲間のようなところがあり、そこに今回は不在だが甘寧という男が加わると結構な騒動が巻き起こる。
そのたびに自分や周瑜、呂蒙などが頭を痛めているのは敢えて伝えなくても良いだろう。
にこにこと楽しそうな笑顔で2人を眺めている少女に伝えたらどのような反応を示すか興味はあるが、身内の恥を晒すのはいただけない。
「姫君は…」
「月華で結構ですよ。私はただの娘ですもの。将軍に敬われるような立場ではございません」
「では、月華殿。貴女にはご兄弟がおられないのですか?」
「はい。残念ながら」
は小さく頷いた。
趙雲の婚約者である『月華』がどんな家族設定か決めていなかったが、細かい嘘はばれる危険が高い。
だとしたら自分の家庭環境をそのまま言えばそんなに間違いはないだろうと思ったのだ。
『月華』という存在に多くの武将が興味を抱いているのは会場に入っただけでも十分にわかった。
それならばこれから先幾度となく同じ質問を訊ねられるはず。
細かい事情などは言わなければ良いだけの話だが、家庭環境や出会いなどは聞かれる可能性が高い。
幼馴染という設定だけは聞いていたけれど他は何も言われていないということは、が自分で決めて良いということだろう。
慣れない嘘をついてぼろを出すより、真実を告げた方がばれる危険は低い。
まぁばれたところで、即席の許嫁を用意したことがそれほどの大事になるとは思っていないが。
だが、頼まれた以上きちんと務めたいと思う。
それこそが趙雲の思うつぼだったのだが、生憎が気づくことはない。
そうして聞かれるままにいくつかの質問に応えていると(幸い、答えにくい質問はなかった)、突然尚香に抱きつかれた。
「うふふー、月華が陸遜と打ち解けたみたいで嬉しいわー」
何かもうかなりの酔っ払い具合である。
つい数分前は普通に接していたような気がするのだが。
卓の上を見ると空になかった杯がゴロゴロと転がっている。
慌てて凌統へと視線を移せば、こちらは瓶を片手に手酌をしながら杯を煽っている。
飲み比べでもしていたのだろうか、驚いて目を丸くすれば隣で小さなため息。
「あぁ、もう、やっぱり」
「陸遜様?」
将軍はやめてほしいと言われたので名を呼べば、ほんの一瞬で疲れた表情に変わってしまった陸遜がいた。
尚香に声を掛けられるまで笑顔で話していたはずなのだが。
「大変申し訳ないのですが、姫の酒癖はあまりよろしくないのですよ」
「は…はぁ、なるほど」
「月華殿は女性なので、絡まれることも投げ飛ばされることも投擲の的にされることもないでしょうが…」
何だかとっても不穏な言葉が聞こえたような気がする。
冗談だろうと陸遜を見遣れば、本当に申し訳ないように首を振られた。
「しょ…尚香様。もうお酒はやめましょうね」
「えー。まだまだ飲み足りないー」
「でも、今日は皆さん集まる宴席ですから。ね、ご一緒にお茶を飲みましょう」
「じゃあ、最後に一杯だけ一緒に飲んでくれたらお茶に変えてあげる」
「えと、でも私はお酒は…」
「一杯だけー。ねぇ、いいでしょう」
「…わかりました」
小さな子供のように駄々をこねられては諦めたように頷いた。
は酒に強くない。というか飲んだことがない。
父も母も下戸で晩酌をする人ではなかったし、自身も未成年ということで飲酒をしたことはなかったのだ。
フライングならば正月の御屠蘇とか甘酒とかブランデーケーキとかあるが、それでもアルコールを摂取したという程の量は飲んだことがない。
ついでに言えば酔っぱらってぼろが出る事態を避けたかったために、先ほどから何度となく勧められた酒にも決して手をつけなかったのだが、尚香のこの様子では一緒に飲まない限り諦めないだろう。
酔っ払いはたちが悪いのだ。
そうして女官が持ってきた杯を受け取り、気づかれないように匂いを嗅ぐ。
が酒に強くないとわかったからか、用意された酒は女性が好みそうな甘い香りがした。
「はい、かんぱーい」
かちんと杯が打ち合わされ、尚香がぐいっと煽る。
流石にには無理なので、ほんの少しだけ口をつける。
舌先に感じる刺激はアルコール特有のものだろうか。
甘い中に僅かな苦みと違和感を感じた途端。
「――っ!」
の隣で小さな呻き声と共に細い身体が崩れ落ちた。
- 12.05.14