「そういえば、先に言っておかないといけないことがあるんだ」
輿に乗せられどれだけ移動しただろう。
趙雲の邸と城はそれほど遠くないとは言え、移動方法は輿のためでのんびり揺られているため時間はそれなりにかかる。
馬上と違い外の景色を窺うことのできない輿の中は予想以上に退屈で、先ほどの疲労も相まって時折睡魔が襲ってくる。
そんなの様子に気付いたのだろう、退屈凌ぎにと隣から趙雲が何かと話しかけてくれた。
そんな彼に相槌を打っていたは、突然会話が飛んだことに不思議そうに趙雲へと視線を移した。
「実は、先日から私に自分の娘を進めてくる高官がいるんだ。私はその女性に興味がないし結婚したいとも思わないから断っているのだがどうやら諦めてくれないらしく、城内で婚約が決まったと吹聴しているみたいなんだ」
「それは…困るね」
が同情するような眼差しを送れば、趙雲はそうなんだと困ったように頷く。
「私も殿も無視していたのが悪かったのだろう、悪いことにその噂を呉の使者が聞きつけてしまってね。今朝もどういうことかと聞かれてしまった」
僅かに眉間に寄った皺が趙雲の不機嫌さを表わしている。
温厚な趙雲がこのような表情をするのは珍しい。
一体どんな強引な手段を使ってどんな噂を吹聴しているのかちょっとだけ興味が湧いたが、知らない方が幸せかもしれないと訊ねるのはやめた。
色々な意味で精神衛生上よろしくない。
「どうしてそれを、今、私に話すの?」
移動の時間潰しにしてはあまり適切な会話ではないだろう。
しかもこれからが向かう先はその噂が飛び交う城内だ。
高官の娘と婚約が成立した趙雲が身元の怪しい女性を伴って使者を歓迎する宴に出席なんて、とんでもないトラブルを巻き起こす気がする。
趙雲はあっさりと答える。
だから今日は欠席にしようと言ってくれることを願ったが、残念ながら世の中そんなうまくいかないものである。
「呉の使者である陸遜殿から聞かれた時、私はこう答えたんだ」
「…何て?」
「『私には既に言い交した許嫁がいるため、崔家の令嬢を娶ることはできません』と」
「まぁ、妥当な返答よね」
確かに断る理由としては最適だ。
噂があくまでも噂の段階であること、そして趙雲を始め蜀の武将がこの件について言及していないことが真実味を増してくれるだろう。
言い交した許嫁どころか女性の影も形もないように見えたけど、という個人的な感想はとりあえず胸の内に秘めておく。
「だがそれだけでは弱いと思ってね。ついでにもう一言付け加えておいた」
「…何て?」
にやりと笑った趙雲が何だかとんでもないことを企んでいるように感じて、は僅かに躊躇しながらも言葉を促した。
「『許嫁は既に私の邸にいます。今宵の宴席で殿に紹介をする予定なので、いずれ真実がわかりますよ』と」
「なっ?!」
思わず立ち上がりかけてバランスを崩す。
ふらりと傾いた身体に輿を運んでいた男達が驚いたように顔を上げたが、それよりも早く趙雲がの手を掴んで転倒を防いだ。
思わぬ転倒の恐怖に顔を強張らせながら趙雲の腕を借りて輿に座り直すと、深呼吸を一つ。
転倒も怖いけれど、それよりも趙雲の台詞の方が怖い。
じろりと睨んだ瞳には、先ほどの恐怖のせいかうっすらと潤んでいる。
「そんなことを言われて私を同伴していったら、私が許嫁だって思われるじゃない」
「勿論。君以外いないだろう」
「何て嘘…というか誤解というか…えぇと、とにかくあらぬ火の粉がこっちに飛んでくる予感がするんですけど」
「大丈夫。君は私が守る」
「そういう問題じゃないの。呉の使者の方達を騙すというのが駄目なの。嘘はいけません、嘘は」
「では、私にその高官の娘を娶れと? 虚栄心と自尊心の塊のようで、自分より身分の劣る女中への嫌がらせが日課の女性を妻に迎え、出世欲と権力欲しかない男を義父と呼べと?」
「…そういう言い方は卑怯だと思います」
困った表情でそう言われてはとて強く言うことはできない。
短い付き合いでも趙雲が高潔な人物であることは分かるし、我欲しかないような人物が苦手だということも分かる。
しかも謀略を以て結婚話を進めようとする相手を家族として迎えるのは誰だろうと嫌である。
だったら断固反対だ。
困ったように趙雲を見れば、彼は真摯な視線をに向けていた。
「だから君に助けてもらいたいと思ったんだ」
「…そういう言い方も卑怯だよ」
居候という立場上、ただでさえは趙雲の願いを断れない。
それがわかっていて、尚、趙雲はにその権限を使用しないのだ。
が逃げられないだけのお膳立てをきっちり整えておきながら、最後の決定権をに残しておく、そんなやり方は卑怯だ。
しかも「助けてほしい」なんて。
全身肝と呼ばれる無敵の将軍から助力を乞われて拒めるわけがないではないか。
お世話になっているという立場を抜きにしても、が取れる選択は1つだ。
「…上手くやれるかわからないよ」
「そのままの君で構わない。普段の君で十分魅力的だ」
「失敗するかもしれないよ」
「その心配はしていない」
「…今度は私と噂がたっちゃうんだよ。お嫁さん、来てくれなくなっちゃうよ」
「その時は君に責任取ってもらうから問題ない」
艶やかな笑顔で言われて、は赤くなる。
これは聞きようによっては求婚にも取れてしまうではないか。
趙雲はあくまでも噂の火消しに自分を使おうとしているだけ。
は己にそう言い聞かせた。
たとえ目の前の趙雲が上手くやったぜと握り拳を固めていても、あくまでも『仮定の許嫁』の演技なのだ。……………多分。
「えっと、お芝居…なんだよね?」
「勿論」
素晴らしく良い笑顔に聞かない方が良かったとは後悔したが、それはもう何というか思いっきり後の祭りだったのである。
◇◆◇ ◇◆◇
「『黎月華』…ねぇ」
「…何か?」
「う〜ん、聞き覚えがあるというか身近に感じるというか。何とも不思議な気が」
流石に幼馴染の許嫁の名前が『』なんて明らかな日本名ではいけないだろうということで、は偽名を考えた。
不自然でない中国名で耳に馴染んだ名前はないかと記憶を辿っていれば、趙雲から提案されたのが件の名前だ。
聞き覚えがないはずなのに、何故か耳に馴染む。
特に趙雲から呼ばれるのが不思議と違和感がなくて、はそんな己の感情がわからなくて首をひねる。
(まあいいか)
とりあえず趙雲や宴の参加者に呼ばれて間違えない名前であればいいのだ。
今の自分は『』ではなく『黎月華』という趙雲の幼馴染。
そう、「私は女優」精神で頑張ればいいだけの話だ。
演技なんてしたことないけれど、人間何でもやる気になればできるのである。
初めて聞く名前なのに違和感のない名前だから、その分呼ばれてもすぐ返事できそうだし良いではないか。
「それで、私は何て呼んだら良いのかな。幼馴染なら趙雲さんって呼ぶのは不自然かも」
「そうだな。私のことは『子龍』と。親しい間なら字で呼ぶのが常識だ」
「子龍? 子龍様?」
「公の場所では様を付けた方が良いかもしれないな」
「了解です」
頷いて「月華、私は黎月華」とぶつぶつ繰り返す姿は何ともあどけない。
外見が深窓の令嬢にしか見えないものだからそんな態度は若干不似合で、だがそんな様子も可愛らしく趙雲の目には映る。
それは趙雲の個人的な感情だけではないようで、城門をくぐった時にの姿を垣間見た老兵もどこか微笑ましそうに彼女の姿を見送っていた。
輿を降りて案内された扉の前で立ち止ったは白い手を胸に当て深呼吸をした。
伏せていた視線を趙雲へと移し、は口元に笑みを浮かべる。
「では、行こうか。『月華』」
「はい、子龍様」
ふわりと微笑んでは趙雲の差し出した手に己の手を乗せた。
- 12.02.27