の一日は趙雲を起こすことから始まる。
それががこの邸で世話になるための条件だからだ。
突然やってきてしまった三国時代。
自宅で指輪をはめた瞬間に意識を失ってしまったことはかろうじて覚えているが、何故自分がそんな摩訶不思議な体験をしてしまったのか全く分からないは、とりあえず騒いでもどうにもならないしどうにかして生活するすべを見つけないとなぁと、あっさりと思考を切り替えた。
何しろの知る常識全てが通用しない国である。
文明の利器? 何それ新しい剣の名前ですかというほどの昔である。
世界二位の経済大国、ついでに世界一の安全を誇る日本の常識が通用すると思ってはいけない。
しかも外国である。
当時の漢字はまだの知る日本語に近いものではあるが、だからと言って漢文が読めるわけではない。
さて、どこに行けば仕事が見つかるだろうかとうんうん唸りだしたに衣食住を提供してくれたのは、初日に抱き枕扱いを受けた趙雲である。
趙雲子龍と言えば、三国志は触りしか読んだことがないですら知っている昔の武将だ。
幼子を抱えて戦場を駆け抜けたのは結構有名だったはず。
そして現在のの身元引受人でもある。
そんな有名人の世話になるのはとんでもないと断ろうと思ったのだ。
だが、拒否の言葉を口にしようとした瞬間の彼の表情を見たら、とてもじゃないが断れなかった。
あんな立派な大人なのに、捨てられた子犬のような目をするなんて卑怯だ。
しかも美形(ここ、結構重要)。
更には死別した知人に似ていると言われてしまえば、が断れるはずもなく。
そのままなんとなく世話になることを決めてしまったのだが、流石に無償で泊まるわけにもいかず何か仕事をくれと言ったところ、何故だか家主の目覚まし時計に任命されてしまった。
としてはこの邸に勤めている女中さんのように身の回りの世話とか掃除とか洗濯とか料理とかと思ったのだが、そちらは人手が足りていると言われては無理に言い募ることもできず、結局色々交渉した挙句目覚まし時計+話し相手ということで決着がついた。というか強引に終わらせられた。
そもそもは寝起きが良いとは言っても現代の生活にどっぷりと生まれた時から浸っていたので、陽が昇ると同時に起きる趙雲を起こすことは非常に難しかった。
初日は何とか頑張って起きたものの、着替えに四苦八苦して結局趙雲の方が先に起床していた。
翌日は更に早起きして趙雲の部屋に行ったは良いものの、眠い目をこすりつつやってきたばかりのが目の前にある布団の誘惑に耐えきれずに、穏やかに眠る趙雲の横にぽすんと倒れるとそのまま二度寝。
またもや抱き枕状態で目覚める羽目になった。
さすがに三日目ともなれば起床も目覚まし時計の役目もきちんと果たせるようになったが、趙雲がどことなく残念そうに見えたのは気のせいに違いない。
そんなわけでの仕事は趙雲が出仕してしまえばすることがなくなってしまう。
暇つぶしにといくつか楽器を提供されたが、そもそもは本の虫と言われるほどに読書家ではあったけれど楽器は学校の授業程度でしか触ったことがなく、琴も笛も無縁のものだったため弾けるわけがない。
だが習うより慣れろとは良く言ったもので、最初こそ音とも呼べないような音色しか出せなかったのだが、日中空いている時間を使いまくったお陰で何とか聴けるレベルまでは上達したのではないかと思う。
と言ってもこちらの音楽を知っているわけないので、が奏でる曲はもっぱら自分が慣れ親しんだ世界の曲なのだが。
そしてそんな聴いたことのない音色が趙雲邸から聞こえるのも珍しくなくなり、が活字がなくても生きていけるんだなぁと妙な感心を抱きつつも驚くべき順応性でこちらの世界に馴染んできた頃、まさかの事態に遭遇することとなる。
「お城の宴に?」
趙雲が帰宅してきて一緒に摂る夕餉の時間。
大体はの一日の行動を話して終わることが多い。
余程城で面白いことが起こらない限り趙雲は城での話をしない。
それは勿論間諜に聞かれないためだろうし、そこまでを信用していないからかもしれない。
いきなり現れた正体不明の居候なのだから当然と言えば当然か。
そんな趙雲がいきなり切り出してきたのが、明日の夜に行われる宴に出席してほしいというものだった。
どういう風の吹き回しなのだろうとは首をひねる。
こちらの世界にやってきてからもうすぐひと月。
その間趙雲の家に誰かがやってきたのは馬超という人物だけ。しかもたった一度だ。
趙雲の地位を考えればもっと多くの客が来ても可笑しくないと思うのだが、それはと接触させないためだろうと思っていた。
特にそう言われたわけではないが、何となくそんな風に感じたのだ。
少なくとも趙雲はが外出するのにあまり良い顔をしなかったから。
邸の中ならどこを散策しても自由だが、外出は不可。
一人歩きなどもってのほかで、侍女を伴っての外出すら頑なに拒否された。
外は物騒で危ないからと、身を守ることのできないではすぐに浚われてしまうだろうと、外に出たければ自分が同行するから頼むから一人で出歩くのはやめてくれと言われたのは記憶に新しい。
確かに自分が住んでいた世界とは治安が違うだろうけれど、そこまで心配するものだろうかと思ったが、何となく言葉にするのも躊躇われて大人しくしていたのだ。
それなのに、いきなり城への同行。
しかも宴の参加。一体何があったのだろうか。
「実は殿の希望なのだ」
「殿様って…えと、劉備様だよね? 私のこと話したの?」
当然と趙雲は頷いた。
「劉備様に隠し事などできるわけがない」
「成程」
その説明というのがどういうものか気になったのだが、とりあえず将軍職に就いている者としては当然の行動だろう。
他国の間者という線だってあるのだから。
いや、勿論は間者などではなく、単なる異世界からの異邦人なのだが。
何て怪しい肩書だろう。間者と言われた方がまだ納得できる。
でも事実なのだから仕方ない。
「断れる立場じゃないから構わないけど、私何もできないよ。こっちの礼儀作法だって怪しいのに、宮中の作法なんて知らないけどいいのかな。趙雲さんの顔を潰しちゃったらごめんね」
「は基本的な礼節はあるから問題ないだろう。わからなければ私に聞けばいい」
「でも趙雲さんは将軍でしょう。劉備様の傍にいたりするんじゃないの」
「は劉備様の賓客として出席することになる。そう席も離れてないだろう」
「賓客…。何だか恐れ多いね。ところで、服とかないけどこのままでいいのかな」
何しろ着の身着のままでやってきてしまったのだ。
趙雲がいくつか服を用意してくれたけれど、それが国主主催の宴に相応しい服装かどうかまでは流石にわからない。
「大丈夫だ。手配しておいたから明日の午前中には届くだろう。着飾ったを見るのが楽しみだよ」
「意地悪」
くすくすと笑う趙雲には頬を膨らませる。
初日に用意された服の着方が全く分からず趙雲や侍女に驚かれたのは忘れたくても忘れられない。
しかも裳裾の長さに足を取られて転倒しかけた挙句趙雲に抱き留めらえたとか恥ずかしすぎる。
最近は慣れてきたけれどそれでもやはり動きやすいとは言えない。
現代の世界でジーンズだのミニスカートだのに慣れていたものだから、フォーマルのロングドレスのような服は正直今でもあまり得意ではない。
だがどうやらこちらの世界では足を見せるのは貧しい身分の者か遊女くらいらしく、付になった侍女からとんでもないと大説教を喰らったため、は今でも動きやすい服が欲しいと言えないままだ。
居候だから仕方ないよねと思っているは、彼女に用意された衣が最上級の部類に入るものだとは気づいていない。
用意された食事を胃に収め、はデザートの桃まんを一口齧る。
甘すぎない餡はこちらに来てからのお気に入りだ。
3世紀に砂糖が普及しているって素晴らしい。
当時の日本だったら間違いなく調味料すらない時代だ。
飛ばされたのが蜀で良かったとしみじみ思う。
「それにしても、何でこんな小娘に会いたいなんて思ったんだろう」
君主と言えば多忙なはずだ。
しかも時代は乱世。魏とか呉とか攻めてきて大変なんじゃなかったっけなと思うの知識は、一般的な人より多少知識がある程度だ。
勿論歴史の流れなんて国の変遷くらいで人物名とか年表なんて問題外である。
そんな多忙な君主様が、宴を催す。
当然のことながらを招くのがメインではあるまい。
そんなところに参加して良いのだろうかと思ってしまうは正しい。
「私が色々話しているから興味を持ったのだろう」
「話すって、変なことじゃないよね」
国が違うのだから習慣が違って当然。
が今まで普通だと思っていたことがこちらの世界では不可解なことに映ることが多々あるらしく、侍女が不思議そうに見ていたり趙雲が微笑ましそうに見ていたりということは珍しくない。
たとえば挨拶。
こちらでは身分の高い者が低い者に声をかけることは少ない。
しかもそれが労いの言葉であったり単なる挨拶であったりするのだから、が邸に滞在した当初など侍女や庭師が戸惑って大変だった。
趙雲でさえ使用人に対して労いの言葉をかけたことはない。
それは趙雲だけでなくほとんどの者がそうだろう。
こちらの世界では身分が絶対なのだ。
だが『男女平等』の世界で生きてきたにはそれがない。
目が会えば会釈をし、何か用事を頼めば「忙しいところを申し訳ないのだけれど」と相手を気遣う。
そして当然のことをしているだけなのに「いつもありがとう」と労いの言葉をかけてくれるに、侍女や庭師が傾倒していくのは必然である。
今では邸内の使用人全てがの熱烈な信奉者となっているのだ。
好意的に受け入れられるのは嬉しいけれど、何故そうなったかわからないは趙雲に相談して爆笑された過去がある。
だから不安になってそう言ったのだが、返ってきたのはが予想していなかった言葉だった。
「何も変なことは言ってない。私の邸に仙女の如く美しい心根の優しい女性がいるんですよと」
ぎょっと目を剥いたのはで、室内に控える侍女はうんうんと頷いている。
「思いっきり変じゃない! 何その仙女って。誇大広告も良いいところじゃないの」
「だが、間違ってはいないだろう」
「力いっぱい間違ってる!」
「私にとって君は誰よりも美しく素晴らしい女性なのだから間違っていない」
「なっ…!」
かあぁぁ、と顔が赤くなるのが分かった。
趙雲の邸に世話になって気づいたのだが、趙雲は非常に口が上手い。
というか褒めるのが上手い。
イタリア人も真っ青な美辞麗句が口から飛び出ること飛び出ること。
彼氏いない歴17年のはあまりの賛辞の嵐に溺れそうである。
この外見でこれだけ口が上手かったらもてるんだろうなと思う。
それにしては女性の影も形も見えないのだけれど。
趙雲の邸で世話になっていることが恋人に誤解されていなければいいのだけれどとか的外れなことを考えるは、趙雲の気持ちをまったく理解していなかった。
真っ赤になって絶句しているを見て、趙雲は相変わらず可愛いなと呑気な感想を抱く。
が月華の生まれ変わりであることは趙雲の中では決定事項だ。
馬超にも説明した通り、彼女の一挙手一投足が記憶の中のものと同じなのだ。
そして甘い言葉に慣れないのも昔と同じ。
月華は誰もが羨む美貌を持っていながらも一切の自覚がなく、多くの人の賛辞を軽くかわすくせに趙雲の言葉だけは過剰に反応して真っ赤になるのだ。
恥ずかしそうに俯いたり困ったように視線を彷徨わせたりと様々な行動があるが、それらもまたは同じ反応を見せる。
ここまですべて同じで別人だと思えるわけがない。
たとえが何も覚えていなくても。
「そういうことなので、明日の夕刻に迎えに来るから支度をして待っていてほしい」
「う…出ないと駄目、だよねぇ。やっぱり。国主どころか国賓の前で失礼なことしちゃったら洒落にならないんだけどなぁ」
「出てもらえると助かる」
「…頑張ります」
若干強張った表情のまま、それでもは頷いた。
とりあえず侍女に最低限の礼儀作法は教わっておかないとと拳を握りしめる姿を趙雲は微笑ましそうに眺める。
月華になかった無邪気さがにはある。
それは育った時代が違うからなのかもしれない。
は戦のない時代から来たと言っていた。
夜道であろうと女性が一人で歩いていても危険がない世界だと。
桃源郷のような世界だと思った趙雲は、彼女が育った国が『蓬莱』と呼ばれることもあると聞いて納得した。
蓬莱とは仙人が住むと言われている場所だ。
蜀より遥か東の海の向こうにあると言っていた彼女の故郷とは通じるものがあるだろう。
しかも時代が違うのならばどのような手段を持ってしてもたどり着けることのない場所。
まさに蓬莱そのものではないか。
からその話を聞いて、趙雲は劉備に報告したのだ。
『自分の恋人が蓬莱から時を超えて戻ってきた』と。
劉備が興味を持つのは当然だろう。勿論意図して話したのだけれど。
は趙雲が庇護しているとはいえ、身分も地位も肩書も何一つ持っていない上に、邸から一歩でも外に出てしまえば身を守る術一つないのだ。
趙家の客人という立場はあるものの、それだけでは弱い。
もっと堅固な後ろ盾が必要だったのだ。
そのために敢えてを宴の席に同行させることにしたのだ。
明日行われる宴は呉の客人を招いての正式なもの。
そこで彼女を紹介してしまえば良いのだ。
趙雲がここまで強引な手段を取るのには理由があった。
先日趙雲を激怒させたあの文官が、懲りずにまた縁談を持ちかけてくるのだ。
しかも今回は娘を同伴する悪質なもの。
はっきり言って執務の邪魔だし自意識過剰の娘の態度は見ているだけで不愉快だ。
更には外堀から埋めてしまおうと思っているのか、趙雲が預かり知らない所で婚約が成立したと嘘を吹聴しているらしく、女官や文官の何割かはそれを信じているようですれ違いざまに意味ありげな揶揄をかけられることもしばしば。
噂の出所を突き止めて件の父娘に辿りついたものだから、趙雲の機嫌は実は物凄く悪い。
勿論家に帰ってくれば愛しい女性がいるのだからそんなものは片鱗すら見せないのだけれど。
だが毎日のようにやってくる文官及び娘にいい加減我慢の限界でもあり、こうなったら先手を打ってしまおうと劉備に相談を持ちかけたのだ。
劉備とて最近の趙雲の不機嫌さはよく知っている上に、待っていた恋人が戻ってきたと知ったものだから一も二もなく賛成してくれた。
万が一のためにと諸葛亮も味方につけた趙雲に怖いものはない。
運よく明日は呉の使者が到着しての宴である。
彼女のお披露目には最適だろう。
そしてあの父娘の野望が潰えるにはこれ以上ない舞台になるはず。
更には趙雲は愛しい少女の着飾った姿を見ることができるのだ。
一石二鳥どころではない利がこちらにはある。
「明日が楽しみだ」
不思議そうな顔をするに、趙雲はにっこりと微笑んだ。
- 11.10.14