ポクリ、ポクリと馬の蹄がゆっくりと地面を蹴る。
普段より少しばかり速度を落とした移動は、未だ馬に慣れていない腕の中の少女のためということもあるが、それ以上に彼女のぬくもりを少しでも長く感じていたいという気持ちも含まれている。
いつもと違う視界に目を輝かせて周囲を見渡している姿は何とも無邪気で、そういえば月華も馬に乗ると毎回このように楽しそうにしていたなと昔の記憶が呼び戻される。
名家の令嬢であった彼女は、深窓の令嬢らしからぬ行動力を持ち合わせていたが、流石に乗馬は許されなかった。
そのため毎日のように趙雲が馬に乗せていたのだが、そのたびに目を輝かせて流れる景色を見ていたものだ。
月華としての記憶を一切持たない。
だが、彼女が趙雲に見せる姿は全て記憶の中の彼女と同じもので趙雲の胸は温かくなる。
彼女が自分と過ごした日々を忘れてしまっていることは正直寂しいと思うが、それでもこうして自分の元に戻ってきてくれた奇跡を思えば些細なことのように感じてしまう。
思い出はこれから築いていけば良いだけだ。
月華が亡くなったのは17歳の春。
の年齢が17歳。これがただの偶然であるはずがない。
「凄いね、活気があって凄く楽しそう」
「成都は蜀の中心だからな。異国からの交易品も多く入ってるし、珍しい果物も多い」
「珍しい果物?!」
そう言えばは期待に満ちた眼差しで趙雲を振り返った。
の世界とこちらの世界は食べ物が違う。
それを聞いた時には口に合うだろうかと心配したのだが、どうやらこの世界の食事はの好みに合っていたようだ。
特に果物と汁物が好みのようで、それを知った家人はの食卓からその2つを欠かしたことがない。
そのためおそらく彼女が初めて見るような果物はないだろうと思ったのだが、そこまで期待に満ちた瞳をされては言葉にするのは憚られる。
「寄ってみるか?」
「うん。見てみたい」
笑顔で頷く彼女に趙雲は近くの店に馬を預けることにした。
このまま馬で移動することもできたのだが、は人の輪に入って会話をすることを好む。
馬上からでは距離があるため楽しめないだろうと思ったのだが、馬から下りるなり近くの露店に駆け寄っていくを見て趙雲は小さく笑った。
「趙将軍が女性とご一緒というのは珍しいですね」
露店商に何やら話しかけているを眺めていると、店の主人が声をかけてきた。
成都は趙雲にとって慣れ親しんだ都だ。
見回りや散策など幾度となく来ているため、それなりに顔を知られているのだ。
特に若いながらも武勇に秀でた美丈夫である趙雲は、成都の女性達にとって憧れの的でもあった。
そんな彼が美女を伴ってやってきたということもあり、実は先程から趙雲の周囲には不愉快にならない程度に人だかりができていた。
趙雲はわかっていたが、は当然のことながら気づいていない。
「どなたかのご令嬢ですか? まるで仙女のような美しい姫君でいらっしゃいますな」
飲み物を持ってきた主人が趙雲に問う。
酒でなく茶であったのは、同行しているのが女性だからだろう。
これで相手が馬超であれば、間違いなく酒が用意されている。
趙雲はそれを一口飲み、杯を盆に戻す。
「彼女は私の大切な人なんだ」
「ほ…それはそれは。これ以上ないほどお似合いのお2人でございますなぁ」
主人は趙雲の言葉に目を丸くし、そして破顔した。
趙雲がこのように笑うのを主人は初めて見た。
いつも固い表情を崩さない人物だと思っていたのだが、やはり彼も恋する青年というところだろう。
少女の手招きに笑顔で足を向ける姿はこの上なく幸せそうで、これは婚礼も時間の問題だろうと主人は美しい少女に似合う贈り物は何が良いだろうかと頭を巡らせた。
◇◆◇ ◇◆◇
時間が許す限り露店を見て回り、夕餉の時刻に近い時間に戻った趙雲とは、そこで待ち疲れて不機嫌になった馬超に遭遇した。
馬超の存在をすっかり忘れていたことに気付いた趙雲が慌てて謝ったり、がお土産にと持って帰ってきた果物で機嫌を取ろうとしたのだが、食事の支度が整い酒が入る頃には馬超の機嫌もすっかりと元通りになっていた。
元々それほど怒っていたわけではないのだ。
ただ、ちょっとばかり放置された時間が長かったので面白くなかっただけの話。
美味い酒を出されれば直ってしまう程度の些細なことでしかない。
そうして楽しい時間が過ぎ、が部屋に戻ると、残ったのは趙雲と馬超の2人だけ。
「さて」
そう切り出したのは馬超からだ。
「教えてもらおうか。あの娘は何者なのだ」
聞きたいのはその1つだ。
本人は居候だと言っているが、邸内の女中の態度は邸の女主人に対するそれで、趙雲の態度がそれを決定的なものにしている。
つまり居候だと思っているのはだけで、家主である趙雲ですらを己の伴侶のように接しているのではないだろうか。
聡いはずのが気づいていないとは思えないのだが、色恋に関しては慣れていないのだとしたらそれもあり得る。
そして気になることが1つあった。
それはの左手を飾っていた一つの指輪。
ちらりと見ただけだが、見間違いでなければそれは先日趙雲が見せてくれたあの指輪と同じものではないだろうか。
世界に2つとないと言っていた。
1つは趙雲が持っている。
先日まで鎖に通して胸元に隠していたなと思い趙雲を覗き見れば、胸元を飾っていた指輪は既に趙雲の左手に収まっていた。
「あのって女、お前が話していた昔の許嫁の特徴とそっくりなんだが」
「本人だから当然だ」
何でもないように答えて、趙雲は盃を煽る。
「本人って…、だってお前の許嫁は殺されたんだろう。それも数年前に。どう見たってあの娘は俺たちより年下で、ついでに言えば死人には見えないぞ」
驚くのも当然だ。
数年前に夜盗に襲われて命を落とした許嫁がやってきたのだと言われて、どこの誰がはいそうですかと頷けるだろうか。
それともあのように生命力に溢れた美少女が実は幽霊だとでも言うのだろうか。
それこそ馬鹿馬鹿しい。
良く似た他人だと言われた方が納得である。
だが、彼女のように印象の強い女性が2人といるとは思えないのだけれど。
馬超の混乱が分かったのだろう。趙雲は少しだけ目を穏やかにして笑った。
「約束を守ってくれたんだ」
「はぁ?!」
「最期の瞬間、『生まれ変わってでも戻ってくる』と言った。その言葉の通りに私の元へ戻ってきてくれたんだよ、彼女は」
夢物語のようなことを言われてあっさり信じるほど馬超はお人よしでもないし夢見がちでもない。
それは趙雲も同じだと思っていたのだけれど、どうやら彼の評価を改めなければいけないようだ。
「…本当にそう信じてるのか?」
「それ以外に説明がつかない」
「良く似た刺客の可能性だって捨てきれないだろうが。お前が溺愛していた女だ。油断すると思ったのかもしれないだろう」
可能性としては転生よりも確率が高いだろう。
魏や呉の刺客として見目麗しい女性が選ばれた。
それがたまたま趙雲の亡くなった許嫁に似ていただけかもしれない。
だが趙雲はあっさりと否定した。
「ありえない」
「だが…」
「馬超」
尚も言い募ろうとした馬超に、趙雲は冷静な声で言葉を続ける。
「確かに月華に瓜二つの刺客の可能性はあるかもしれない。だが、外見だけで騙される程私の想いは浅くない。姿、表情、仕草、考え方、私しか知らない微妙な癖まで全て同じ人間を作り上げることは、どれほど手練れの刺客であろうと不可能に近い。それに何より」
そう言って趙雲は己の指輪を優しく撫でる。
許嫁を亡くしてから趙雲は指輪を常に懐の奥深くに隠していた。
それを他人に見せたのはたった2人。
劉備と馬超だけだ。
2人がそれを他人に話すとは思えないし、万が一話したところで実物を知らない者がまったく同じものを複製できるわけがない。
「私が月華を見間違えるはずはないんだ」
強い眼差しで言い切った趙雲の言葉は予想以上の説得力があった。
たとえ偽者でも趙雲が認めない限り、この話は終了しない。
とりあえず馬超の立場としては無条件で信じることはできないが、少なくともこの国に仇をなす存在でない限りは詮索するのはやめておこう。
幸せ絶頂の趙雲に水を差すのは嫌だし、何よりもこの男の怒りを買うのは色々とよろしくない。
五虎将軍の肩書は伊達ではないのである。
「お前が幸せになってくれるなら構わない。で、華燭の典はいつ行うんだ」
「当分は先だな」
「おいおい。せっかく巡り会えたと言っているのに随分と悠長なんだな。何か不都合があるのか」
もう色々吹っ切った馬超が訊ねれば、趙雲はあっさりと答えた。
「は月華としての記憶が一切残ってないんだ」
何かもう色々面倒くさい。馬超はこの件に関して一切関わらないと心に決めた。
- 11.10.05