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比翼連理 05


ここ数日趙雲の機嫌が良い。
馬超がそう呟けば傍にいた姜維が軽く笑った。

「趙雲殿が穏やかなのはいつものことではないですか」

確かに普段の趙雲は穏やかな人物だ。
戦場にでも出ない限り彼の表情が険しくなることはあまりない。
だが先日の縁談で趙雲の逆鱗に触れた時の怒りを目撃している馬超にしてみれば、たった数日でここまで機嫌が回復するものだろうかと却って訝しんでしまうのだ。
あの縁談が趙雲にとってどれほど許せないものか馬超は知っている。
大人気ない態度だったとは思うが、それはそのまま趙雲の情の深さを表わしており、事情を知らない者ならいざ知らず、馬超だけは趙雲を非難するつもりはなかった。
自分とて失った一族の代わりに見知らぬ人間をよこされて笑っていられるわけがない。
彼らは馬超にとってかけがえのない、唯一無二のものだから。
だからこそ趙雲の機嫌の良さが不思議だった。
本人に直接確かめようと思っても、運が悪いことに馬超に寄越される仕事が多く中々時間が取れない。
ようやく手が空いたと思えば今度は趙雲がいない。
どうやらここ最近の趙雲は執務が終わると同時に帰宅してしまうらしい。
普段から城に泊まり込みの如く詰めており、自宅に戻ることなど月に1度か2度だった趙雲がである。
これは何かあったに違いない。
これが他の男なら女でも囲っているのかと思えるのだが、趙雲が相手ではその可能性は低い。
何しろ亡き許嫁に身も心も捧げている一途な男である。
話を聞く限りでも、趙雲がいまだに彼女をどれだけ愛しているかわかるほどなのだ。
他の女を囲うなど、まずそれはありえない。
だが、そうすると原因は何だろうか。
生憎馬超は頭脳派ではないためいくら考えても答えは出ない。
それならばと馬超は考えた。
わからないなら直接訊ねるしかない。
そう思い、馬超は家主がいない時間を見計らって趙雲の家を訪ねたのだ。







   ◇◆◇   ◇◆◇







「申し訳ございません。主は只今外出中にございます」

門兵が丁寧にそう告げる。
当然だろう。いくら同僚だとて家主が不在の家に家主の許可なく上げることはできない。
だが馬超も引くつもりはない。
以前ならば趙雲が戻るまで寛いでいるようにと部屋が用意されていたというのに、今回はそれがない。
その事実がますます疑惑を強くする。

「いないのはわかっている。趙雲から忘れ物があるから取ってきてほしいと言われたんだ」
「馬将軍にわざわざでございますか」
「勿論だ。俺とあいつは友だからな」
「それはそれは。ですが、我々は何も窺っておりませぬゆえ、大変申し訳ございませぬがお通しいたすことはできませぬ」

鉄壁の防御である。
門兵としては当然のことなのだけれど。
強引に入ることは可能だが、そうするとばれた時が怖い。
ここは穏便に済ませたいところだが、と悩む馬超の耳に柔らかい声が届いた。



「絽春さん、どうしました?」




「ひ…姫様!」
「もう、私はお姫様じゃないのでその呼び方はやめてくださいってば」

門兵が狼狽えるのに対し、声の主はどこか無邪気な響きを持つ声で告げる。
声のした方に視線を移し、馬超は思わず目を瞠った。
そこには女官とは明らかに違う装いの、美しい少女がいたのだ。
艶やかな漆黒の髪、黒曜石の如き輝きを放つ瞳、白磁の肌。
趙雲と似た白地に淡い緑と青を使った衣装がほっそりとした身体を包んでいる。
衣装に銀糸の刺繍が施されているせいだろうか、彼女の全身が淡く輝いて見えるようだ。
そこにいるだけで空気が変わる存在を馬超は己の主君しか知らないが、彼女が身に纏う空気は劉備のそれと良く似ている。
女性であるため覇気はなく、代わりに艶やかさが増しているが、人を惹きつけてやまない空気は紛れもなく同じである。
腕に抱くのは百合の花。
それもまた清楚な雰囲気を持つ彼女に良く似合っている。
姫でないと少女は言うが、だが彼女を呼ぶのにこれ以上相応しい言葉はないだろう。
それとも仙女と呼べば良いのか。
馬超は無礼だと思いつつも、目の前の少女を凝視する。
諸葛亮の妻の月英や張飛の娘の星彩も美しいと思うが、彼女はそれ以上だ。
何よりも印象的なのは目だろう。
理知的で深く澄んだ眼差しは、まるで心の奥底まで見通されているかのような錯覚すら起こさせる。
そして一瞬で理解した。
趙雲が隠しているのは、紛れもなく彼女の存在なのだと。
少女は門兵――絽春から事情を聴いたのだろう、涼やかな眼差しが馬超に注がれた。

「馬将軍、でよろしかったでしょうか。わざわざご足労頂いたのに大変申し訳ありませんが、只今家主が留守にしております。どのような忘れ物かおわかりになりましたらこちらで探しまして主の元へ届けさせますゆえ、教えていただけますか?」

耳に心地よい声は低すぎず高すぎず。
鈴を転がすように優しいものだ。
品のある顔立ち、知性を感じさせる口調。
そして絽春の恭しい態度が彼女を貴人に見せている。
趙雲の縁者だろうか、だが彼は天涯孤独のはずだ。

「…あんたは、一体何者だ? 客人と言うには随分と馴染んでいる様子。まさか妻というわけではあるまい」
「私はただの居候でございます。趙雲様のご厚意でとても良くしていただいているだけです。私のようなものが妻だなどと誤解させては主の名誉を傷つけてしまいますので、どうか他の方にはご内密に願います」

口元に人差し指を立ててにっこりと笑う姿はとても無邪気。
彼女は客と言うが、果たして信用してよいのかどうか。

この美貌だ、男を誑し込むのは簡単だろう。
素性を明らかにしないあたり怪しいと言えば怪しいのだが。
あの趙雲を落としたとなれば相当の手練手管の持ち主のはず。
だが、それはないだろうと馬超は漠然と思う。
目の前の少女の眼差しがあまりにも潔いからかもしれない。
このどこまでも澄んだ眼差しの奥で男を手玉に取る方法を考えているとはとても思えない。
となれば趙雲がこの少女に惹かれて邸に逗留させているといったところか。
先日聞いたばかりの苦い初恋をも昇華できる相手と巡り会えたのならそれで良い。
馬超にとって大事なのはこの少女の身元ではなく、友が笑っていられることなのだから。

「あー、それなら良い。どうせもうすぐ仕事も終わる。こっちに伝令が来ていないということはそれほど重要なものでもなかったんだろう」
「そうですか?」

不思議そうに首を傾げる姿には幼さが残り、自然と馬超の口元に笑みが浮かぶ。

「とりあえず俺は帰るとしよう。正式な訪問はまた改めてあいつがいる時にでも。そうすればあんたとも話ができるんだろう」

馬超の言葉に少女が目を瞬き、そうしてくすくすと笑いだした。
理知的な美貌なのに時折見せる表情は何だかひどく無防備で、不思議と目が離せない。
馬超が将軍職に就いているとわかっているだろうに、まったく媚びるところを見せないのも、また良い。
玉の輿狙いの女の多さには正直辟易していたところだ。
こういうサバサバした女性なら話も楽しめるだろう。
しかも見た目は仙女の如き美貌なのだ。
趙雲のものであるかどうかは別としても、男としては縁を繋いでおかない手はない。

「そうですね。ですが私はただの小娘ですから、馬将軍の話し相手が務まるとは思えませんよ」
「いや、あんたは頭が切れる。きっと会話も楽しいだろうよ」
「では、それはこちらの主に聞いてみないといけませんね」

居候が出しゃばってはいけないのですよ。
笑顔でそう言う彼女に、勿体ないなと馬超は思う。
先に知り合っていれば、おそらく馬超は彼女に夢中になっただろう。
不思議な空気を纏う少女。
見た目も文句なし、頭も良い。
更に機転も利くとなればそう簡単にいるものではない。

「じゃあな」

では戻るかと馬首を返そうとすれば、聞こえてくる馬の蹄の音。
そして次第に見えてくる白馬に跨る親友の姿。
門兵と言い合っているうちに結構な時間が経っていたらしい。
どうやら趙雲の帰宅時間とかち合ってしまったようだ。

「馬超?」

不機嫌な声と表情に、ちょっと困ったなと頭をかく。
趙雲は友人だが、過ぎるほどに真面目だから執務を抜け出してやってきたことを見抜いているのかもしれない。
それとも断りもなしに家を訪ねたことに対する非難か。
だが、趙雲の不機嫌には気づかなかった少女が、馬上の主の姿を見てふわりと笑った。

「趙雲さん。お帰りなさい。早かったのね」
「ただいま、。君が城下へ行きたいと言っていたから少し早めに退出させてもらったんだ。よかったらこれから一緒にいかないか」
「あ、うれしい。じゃあ着替えてくるね」
「いや、そのままで構わない」
「だって動きにくいし。お花も置いてこなくちゃだし」
「少しぐらい動きにくい方が私は助かる。勝手に走り回って迷子にならないだろうからね。花は絽春が侍女に渡しておいてくれるだろう」

そう言うとと呼んだ少女の返答を待たずに、趙雲は少女の腕から数本の百合を奪うと門番に渡す。
いつものようにと告げる趙雲と心得たように頷く絽春に、おそらく日常的なことなのだろうと推察する。
戸惑う少女を抱き上げ馬に乗せる姿は、手慣れているように見えた。

「さて」

少女を腕に抱いた趙雲が不機嫌さを隠そうともせずに馬超を見下ろす。
ちなみに腕の中の少女は馬上の景色を興味深そうに見ていて、背後の趙雲の表情など見ていない。

「理由は後でしっかり聞かせてもらおうか」

邸に上がって待っていろと言わんばかりに顎で指示され、門兵が手綱を手に馬超を邸内に招き入れた。
何だか面倒なことになったなぁと思った馬超の勘は、多分間違っていない。


  • 11.09.26