意識が覚醒に向かっても、は未だ微睡の中にいた。
何だかとても懐かしい夢を見ていたような気がする。思い出せないのだけれど。
温かい何かに包まれて、とても幸せだった。
いつまでもそこに揺蕩っていたいと思うほど居心地が良く、そしてそれはまだ今も続いているようでは自分を包み込む温かい何かに無意識にすり寄った。
すると、その何かは圧力を増した。
あれ、おかしいぞと思ったのはすぐ後だ。
幸いなことに寝起きは良いので目を開けると、目の前には何かの壁らしきもの。
自分の部屋にそんなものあったかと思いながら記憶を巻き戻してみれば、ベッドに入った記憶がない。
というか掃除を終えてからの記憶が綺麗に抜けている。
(え? 何? どういうこと?)
動こうにも何かに拘束されていて身じろぎすらできない。
寝起きの動揺に困惑が追加されたのは当然だろう。
視界が真っ暗なのは視野が近すぎるからなのだと気づいて何とか頑張って顔だけは動かす。
すると今度は見たこともない男の顔が至近距離で視界に入ってきた。
今まで見たことがないほどの美形である。
一瞬泥棒かと思ったが、泥棒が呑気に自分を抱きしめて眠るはずがないためその可能性は却下した。
では、自分は一体誰に抱きしめられているというのだろう。
初対面の男性に抱きしめられているのに嫌な気がしないのが不思議だ。
「あ…あの…」
とりあえず相手を起こさないことには話は始まらない。
何しろ逃げようにも動けないのだ。
「すみません、起きてください」
弱弱しい声になってしまったのは仕方ない。
初対面の相手に抱きしめられて眠っていたということは、年頃の女性として動揺しないわけがないのだ。
しかも美形。抱きしめる身体はがっしりと逞しく、そんな彼にまるで宝物のように抱きしめられて照れるなというほうが無理だろう。
いくら男性に関心が低いとて年頃の乙女なのだから。
だが相手は手強かった。
「…あと…少し…」
寝起きの低音ボイスでそんなことを言いながら更にを抱き込んだのだ。
しかも体勢の都合上その台詞はの耳元で囁かれ、思わぬ美声っぷりに背筋がぞわりと泡立った。
「や…駄目ですってば。起きてください!」
じたばたと腕の中で暴れて、流石に異変に気付いたのだろう。
青年の目がゆっくりと開かれていく。
濃褐色の光がを捕らえ、ふわりと和む。
「おはよう」
「お、おはようございます」
思わず挨拶をしてしまって、はっと我に返る。
ものの見事に相手のペースに流されているではないか。
とりあえず朝の挨拶は大事だけれど、それよりも何よりもしなければならないことがある。
は慌てて青年の腕から抜け出した。
服のまま寝たから皺にはなってしまっているけれど、脱いだ形跡はない。
見かけどおり紳士だった青年に感謝しつつ、だが確認しなければならないものだけはきっちり確認させていただこう。
寝台の端まで移動し、布団を抱きしめて青年を見る。
「あの、ここはどこで、貴方は誰ですか?」
ぱちくり、と瞬きをする青年の姿に「あ、可愛い」と思ってしまったのはだけの秘密である。
◇◆◇ ◇◆◇
「蜀、ですか」
「そうだ」
「それって、あの…魏とか呉とかも他にあったりしますか?」
「勿論あるな」
「魏の君主は曹操様で蜀の君主は劉備様とか言います…?」
「よく知ってるな。その通りだ」
「…ですよねぇ」
あっさりと頷かれて、は乾いた笑いしか出てこない。
ここはどこだと聞いた際に返ってきた答えが「蜀」なのだから、としてもどう反応したら良いものか。
しかも目の前の男性が趙雲子龍とは。
かなりの活字中毒でありながらも中国史にはあまり関心がなかったために読んでいなかった三国志演義。
その中に出てくる武将と同一人物なのだと言われて、はいそうですかと言える平成生まれがいるなら連れてきてほしいものだ。
何故に目覚めた場所が三国時代。
階段から転がり落ちたら過去にタイムスリップとか、自衛隊がまとめて戦国時代へタイムスリップとかいう本なら読んだことがあるが、まさかそれが現実に起こるなんて。
は混乱する頭を落ち着かせるように、目の前に置かれたお茶を一口飲んだ。
豊潤な香りと爽やかな口当たりはが知る中国茶と変わりがなく、流石中国4千年の歴史と思ってしまうのは、やはりまだ混乱が治まっていないからだろう。
現在達は居間のような場所に移動している。
事情を聞くのに寝所で臥所の上というのは少々相応しくないように思えたからだ。
お互いに薄着。
趙雲に至っては夜着である。
しかも朝ということもあり、では朝食を摂りながら話をしようと趙雲が言った言葉のまま場所を移動したのである。
その際靴を履いていないことに気付いたは、何故か靴を与えられるでもなく抱きかかえられて食堂へ連れていかれたのだけれど。
そこで軽い食事を摂り、次いでやってきたのがこの部屋だ。
広いがどことなく殺風景な印象を受ける部屋は、おそらく普段はあまり使われていないのだろう。
滅多に帰らない邸の調度品にまで気を遣うようなタイプでないことは見てわかるが、それでもきちんと整えられているのは家人の働きの賜物である。
しかも男一人の邸なのだからこんなものだろうとは思う。
家人は趙雲とにお茶の用意をして部屋から出て行ってしまった。
朝になっていきなり増えていた客人に不審な顔一つしないで世話をしてくれた女中さんには感謝である。
そうして少し遅くなってしまったが、は事情を説明することにした。
「えぇと、実はですね…」
信じてもらえるとは思っていなかった。
だが、趙雲は静かにの言葉を聞いていた。
そして、聞き終えてから静かに一言。
「では、ここにいればいい」
と、そう言ったのだ。
驚いたのはである。
「え?」
「突然この世界に飛ばされて、行く当ても住む場所も働く場所もないのだろう」
「はい」
「しかも、金銭の持ち合わせもないと」
「その通りです」
「それならば、この邸に住めば良い。部屋はいくらでもあるし、君一人が増えたところでどうということはない。勿論生活の全ては私が保障しよう」
「……良いのでしょうか?」
「私の元へ来たのも何かの縁だろう。君が嫌でなければ、だが」
放り出されたところでどうやって生きていけば良いかわからなかったから、この言葉は正直嬉しい。
だが、国の中枢に位置する将軍職に就いている人間が、明らかな不審者に対してここまでの厚遇っていいのだろうか。
いや、もしかしたら傍にいた方が監視するのに適当だからとかだろうか。
それにしては何だかやたら良い笑顔なんですけど。
とりあえず国も文化も風習も違う世界に放り出されることに比べたら破格の待遇である。
が断る理由など一つもない。
「えぇと、不束者ですが、よろしくお願いします」
ぺこり、と挨拶をするものの、その台詞はまるで嫁入りする花嫁のものだということには気づいていない。
そしてその言葉を聞いて趙雲がうっかり赤くなったのも、頭を下げていたは気づくことがなかった。
「あぁ、1つだけ聞きたい」
「何でしょうか」
「その…君の身に着けている装飾品だが…」
言われては自分の左手を見る。
は好んでアクセサリーを身に着けるタイプではない。
校則で禁止されているというのが表向きの理由だが、今時の女子高生がそんな校則を守っている例などほとんどいない。
単純に好みの問題だ。
そのがつけている装飾品となれば1つしかない。
指に嵌めた途端に取れなくなってしまった不思議な指環のことだろう。
「これ?」
「そうだ。その…どこで手に入れたのだろうか」
「えぇと、これは手に入れたというより最初から持っていたそうです」
「持っていたとは?」
「母が言うには、私はこの指環を握ったまま生まれてきたそうです。私もそんなことあるはずないと思ってたんですけど、証人もいるし証拠もあるしどうやら本当みたいで」
不思議ですよねと笑いながら答えたは、だが目の前の趙雲の表情が変わったことに気付いて言葉を途切れさせた。
「そう、か」
泣きそうな、だが嬉しそうな笑顔。
複雑な想いが混ざったような顔は見ている方が切なくなるものだ。
の言葉の何が彼にそんな表情をさせたのだろうかと考えるものの、にはさっぱりわからない。
古いデザインの指環。
そう、「指輪」というより「指環」と称した方がすっきりするほど古いのだ。
まるでこちらの世界の装飾品のように。
だが、知識だけはあってもこちらの世界のことを何一つ知らないは気づかない。
がこの指環を手に生まれてきた理由も。
ふと、趙雲が手を伸ばしての頬に触れた。
こわごわと触れるようなそれは目の前の彼らしくないとは感じたが、特に拒む理由もないのでそのままじっとしていた。
ゆっくりと確認するかのようにの頬に触れる。
温かいぬくもりに何となく安心する自分を感じながら趙雲を見ると、先ほどの表情はすっかり消え柔らかな笑顔が浮かんでいた。
あぁ、やはり彼にはこういう表情の方が良く似合う。
この笑顔は好きだなと、は感じた。
自分よりも年上なのに、どこか可愛いのだ。
思わずそう告げてしまえば、一瞬きょとんとした趙雲はやがて不満げに口を尖らせたのだが、その姿もまた子供っぽくてついついは笑ってしまった。
うん、何だか上手くやっていけそう。
異世界に落とされて1日目、がこちらの世界に抱いた感想はそんなところだった。
- 11.09.15