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比翼連理 03


自宅に戻ってきた趙雲は着替えもせずに臥所に身を投げ出した。
先程劉備に語った言葉が脳内に甦る。
趙雲が彼女のことを口にするのは、これが二度目だ。
一度目は馬超に。そして二度目は主君である劉備に。
頑なに口を閉ざしてきた。
話さないのではない、話せないのだ。
言葉にすれば、あの生々しいまでの彼女の最期を思い出してしまうから。

己の目の前で斬り捨てられた愛しい人の最期は、いくら年月を経たところで慣れるものではない。
どうして救えなかったのかと悩み苦しんだ日々を増やすだけだ。

「月華…」

その名を最期に口にしたのはいつだったか。
幼い、だが真剣な恋だった。
彼女以外は愛せないほどに。
その彼女を助けることができなかったという事実は、今もなお趙雲を苦しませている。
二度とこのようなことがないようにと武を磨き、1人でも弱い人間を助けることができるようにと劉備に仕官した。
そうして戦場を駈け廻り多くの敵を屠り、少なくない民の命を助けたが、それでも趙雲が一番助けたいと思った命は戻らない。
忘れてしまえばよいのかもしれない。
彼女もまた戦場に消えた1つの命なのだと、そう思えれば或いは新しい恋もできたのだろう。
だが趙雲にはそれができなかった。
今も尚、心に棲むのはあの少女ただ一人で、彼女の笑顔を見た時以上の幸福はどうやっても得ることができないのだから。

彼女を知っている人物は、趙雲以外では誰一人としてこの世に残っていない。
たった一日。
趙雲が留守にしていた僅か一日で、彼女を含め彼女のことを知る全ての人は斬殺されてしまった。
だから誰も知らない。
趙雲が『月華』と呼ばれる少女をどれだけ愛し、少女もまた趙雲を心から愛していたことを。
2人を見守る大人たちが、村一番の夫婦になるだろうと微笑ましそうに話していたことを。

逢いたい。

言葉にしたところで叶うことのない願いが趙雲の心を占めている。



「逢いたいんだ…。月華…」



低く呟いた声は誰に聞かれることもなく、頬を滑り落ちた涙と共に闇に紛れ、そして溶けた。







   ◇◆◇   ◇◆◇







「えっと、これは歴史モノだから書斎行き…と。んと、これは続きものだからこっちの部屋で…。えーと、これは何だろ? ノンフィクションかな? 買った覚えないなぁ」

部屋に堆く積まれた書籍を前に、は背表紙を見てゆっくりと分類していく。
17歳。花の女子高生の部屋とは思えないほどに殺風景な室内を悉く占拠しているのは、大小新旧取り混ぜた本の山だった。
趣味が読書と豪語するだけあっての蔵書の数は物凄い。
しかも乱読。目の前に活字があればつい手に取ってしまうほどの活字中毒で、しかも気に入った作家の本は根性で全種類集めるという徹底ぶりもあってか、の部屋はいたる所に本の山ができている。
今までの小遣いやバイト代のほとんどを本につぎ込んできただけあって、それはもう1000や2000は軽くあるだろう。
大枚はたいて購入した歴史書(和綴じ本)などは流石に専用の書棚にしまってあるが、文庫本の類などは本棚に入りきれずに溢れている始末。
見かねた父親が二階にある書斎を譲ってくれたので、本日めでたく本の御引越である。
ちなみにの読書中毒は両親からの遺伝だとは信じている。
何しろ父も母も活字大好き、父にいたっては趣味が講じて書いてみた推理小説がまさかのデビュー作で何やら大きな賞まで受賞してまうほど。
母も相当の読書家であるため、家ではどれほどお金をかけても書籍に関することなら大抵許されてしまうのだ。
とはいえ図書館でもあるまいし一般家庭において本の保管場所というのはなかなかに困るものがある。
元々家族で一番本を所有していたのは父だ。
当然仕事柄必要なのだけれど、流石に多くなりすぎてこのままでは家の床が抜けてしまうと嘆いた母の気持ちを慮って、父はようやく仕事部屋を購入した。
実家大好き家族大好きの父であるため仕事とは言え家族から離れたくなかったというのが理由らしいが、最愛の妻からの苦情を聞かなかったことにはできない。
万年新婚夫婦のような母ではあっても、父より家の耐久度を優先したらしい。
仕事部屋を借りたからと夕食の席でつぶやいた父の背中が軽く泣いていた。

そうして全ての書籍及び資料を仕事部屋に運んだためにそれまで父が使用していた書斎がまるっと空いた。
そこでが私室に押し込めていた(比喩ではない)愛蔵書たちを移動させているのである。
それにしても多い。自分で揃えて起きながら何だが、量もある上にハードカバーなどは重量も結構あるため中々の重労働だ。

「疲れた…」

はふぅ、とため息をついても片づけなければ終わらない。
優しい母は子育てにポリシーを持っていて、あくせく動く娘の姿を笑顔で見守っている。
曰く、『自分のことは自分でしなさい』というやつである。
尤も手伝ってもらってはどこにしまったかわからないので丁重に断ったのはの方なのだけれど。
疲れた頃を見計らって持ってきてくれるアイスティーの美味しいことと言ったらない。

休日の一日を使っての大掃除は夕方になってようやく終わりを見せた。
我ながらどんな収集力だと呆れてしまう。
これからは少し控えようと思う。本当に少しだけれど。
ようやく書斎の方が片付き、さて次は自分の部屋の後片付けと思い部屋に戻る。
シンプルイズベストが信条のはあまり余分なものを部屋に置かない。
本が多過ぎて置けなかったというのはこの際棚に上げておいて、そのための部屋は部屋のほとんどを占めていた本がなくなってしまうと非常に殺風景に感じる。
空になった棚を雑巾で拭いて掃除機をかけ、一か所に纏めてあった小物をバランス良く並べれば終了である。
本棚の熱意に比べたら非常にあっさりしている。
何となく棚の上が寂しい気がするので、引出の奥にしまっておいたジュエリーBOXを置いてみる。
少々乙女チックなそれはの部屋に合わないと思われたが、すっきりしてしまった部屋では逆に良いインパクトを与えてくれたようだ。
そういえば何が入っていたのだろうと、何気なく、本当に何も考えずには数年ぶりにそれを開けた。
そしてそこにあった指環に目が留まる。

「あ…」

シンプルなデザインのそれは、とは浅からぬ縁のある指環である。
金の土台に小さな天然石を使ったそれは、どこかの店で購入したものでも誰かからプレゼントされたものでもない。
母親が言うには、生まれた時にがその手に握りしめていたものだそうだ。
まさかというのが正直な感想で、それが母の作り話だと信じて疑っていなかっただが、ある時出産に立ち会った父が撮ったビデオを見せてもらったところそれが真実だと判明した。
皺だらけの赤子だった
その左手がしっかりと握りしめていたのは確かにこの指環だったのだ。
どうやってとか何でとか思うところは多々あったのだが、それが紛れもなくのものであることはこうして証明された。
だから自分で持っていなさいと言われて母親から譲り受けたのは10歳の誕生日のこと。
子供だったためサイズが合わず、それ以来この中にしまったままだったのだろう。
母親の胎内にある時から一緒にあったという指環は確かに綺麗だと思うけれどデザインは大人しい。
まるでペアリングのようだと思いながらも、だとしたらもう片方はどこにあるのだろうと思う。

「何で持ってたんだろう」

まるで江戸時代の作家が書いた南総里見八犬伝に出てくる8つの霊玉のようだ。
自分がそんな大層な人物だとは到底思えないが、これがと共に生まれてきたのは紛れもない事実である。
それに意味があるのだろうかと何気なく指に嵌めた途端、は身体の中に何かが突き抜けたような錯覚を感じた。

「な…何…?!」

驚いて指環を外そうとするが、どうしても外れない。
つけた瞬間は少し緩いかもと思ったのに、今自分の指にはまっている指環はぴったりと指に張り付いているかのように、少しの隙間も見つけられないほどジャストサイズになっている。
そんな馬鹿なと思わず声が出てしまうが外れないものは外れないのだ。
焦るに更に追い打ちをかけるかのように、怒涛のように様々な感情がに襲いかかってくる。

嬉しい、楽しい、寂しい、愛しい、逢いたい。

そんな奔流としか言えない感情の渦がの体内を駆け巡り、涙が後から後から溢れてくる。
息ができないほどの感情はが今まで体験したことがないもので、耐性のないものを受け止めきれなくなった身体がぐらりと傾き床に沈み込んだ。

何が起きたのかわからない。
意識を失う直前に見知らぬ男性の声が聞こえたような気がしたが、それも定かではなくの身体は床へと崩れ落ちた。








   ◇◆◇   ◇◆◇







ぽすん、という小さな音が聞こえて趙雲の意識は覚醒した。
臥所に人の気配。それも趙雲のすぐ隣にだ。

「?!」

一体いつの間にというのが正直な感想だ。
武将として培われた警戒心を持つ趙雲にすら気取らせずに近づける人間がいるとは思わなかった。
女官が眠っている趙雲の部屋へ忍び込むことはまずない。
蜀に腰を落ち着けた当初こそ玉の輿狙いの女官がやってきたけれど、それらを徹底して追い返してきたため今となってはそのような無礼を試みる女官は趙雲の屋敷にはいない。
となれば答えは一つ。――刺客だけだ。
狙われる覚えは多すぎる。
魏も呉も趙雲がいなくなれば戦が有利になるとわかっているだろうし、先日縁談を拒絶した文官が逆恨みして刺客を放ったのかもしれない。
どちらにしろ見過ごすわけにはいかず、趙雲は素早く身を起こすと寝台の横に立てかけておいた竜胆雷へと手を伸ばした。
うっすらと窓から差し込む月明かりが寝台を照らす。
銀色の光に浮かび上がる姿に、趙雲は武器へと伸ばした手を止めた。

(まさか…)

敷布に広がる漆黒の髪、月光を受けて淡く発光しているかのように白い肌、見たこともない衣に身を包んで趙雲の隣で穏やかな寝息を立てているのは、美しい少女だった。
ただの美しいだけの少女だったら、趙雲は容赦なく彼女を部屋から追い出しただろう。
その少女の顔に見覚えがあるからこそ、趙雲は動くことができなかった。
すらりと細い身体も怖いぐらいに整った容貌も記憶の中のものと寸分違わない少女は、あの日失った姿のまま趙雲の隣にいる。

(月…華…)

どくん、と心臓が跳ねた。
戦場で万の敵に囲まれてもここまで動揺しないだろう。
恐る恐る手を伸ばす。
少しひんやりとした頬は、だがきちんと人としての温かさがあり、すうすうと規則正しく聞こえてくる寝息は生身の人間であることを証明している。
似ているだけの別人だと思うのは簡単だ。
だが趙雲は彼女と別れてから多くの人と出会ってきたが、一度たりとて彼女に似た人物と巡り会うことはなかった。
外見の美麗さもさることながら、彼女の持つ空気はそれだけ独特だったのだ。

なのに、その彼女と瓜二つの外見を持つ少女が目の前にいる。
瞳を閉じているため断言することはできないが、少なくとも趙雲の記憶の中の彼女の寝顔は目の前のそれと同じものだった。

何よりも彼女の左手にある指環が、彼女が『黎月華』であることを証明していた。
この世に二つしかない指環。
1つは趙雲が持っている。
肌身離さず持っていたそれを模倣できるほど誰かに見せたことはない。
残る1つはあの日、月華と共に炎に消えた。
だからこの指環をしているのは彼女でしかいないのだ。
『戻ってくる』と約束をした月華。彼女は約束を破らない。

涙が頬を伝った。
それは先ほどの絶望の涙ではなく、紛れもなく歓喜のもの。
布団の上に横たわる少女を、趙雲は布団ごとしっかり抱きしめる。

「月華…」

少し細く感じるのは趙雲が逞しくなったからだろうか。
ふわりと漂う甘い香りも泣きたくなるほど同じだった。


  • 11.09.11