同じ頃、劉備の室を訪れる者がいた。趙雲である。
突然の来訪に驚かなかったかと言えば嘘になる。
だが、何かを耐えるかのように首を垂れる趙雲を案じる気持ちの方が強く、劉備は椅子から立ち上がった。
「どうしたのだ。このような夜更けに」
「先刻の無礼をお詫びしたくて参りました。申し訳ございませぬ」
「謝る必要などない。そなたは別に悪いことをしたわけではない」
膝をついて叩頭したままの手を引き立たせ、近くの椅子に座らせた。
そのまま向かいに己も腰を下ろせば、落ち込んだ様子の趙雲の表情が良く見えた。
おそらく感情に任せるまま話の途中だというのに退室してしまったことを後悔しているのだろう。
確かに君主の許可なく部屋を辞したことは褒められたことではないが、そもそも劉備はそのような瑣末事で気分を悪くするほど狭量でも短気でもない。
むしろ劉備に何の話もなくいきなり趙雲に婚姻話を持ちかけてきた文官の無礼さの方が、あの場では際立っていただろう。
劉備が命じたわけでもないし、趙雲が縁組を断ったところで問題になるわけでもない。
だが、と劉備は思う。
万事控えめで礼節をわきまえている趙雲が何故あそこまで強固に拒絶したのか気になった。
「趙雲、私は其方が妻を得ようと独身を貫こうと、どちらでも構わぬ。国力の強化のために其方を犠牲にしようとも思わぬ。だが、叶うことなら教えてほしい。何故、そこまで頑なに縁談を拒んだのか」
説明を求めていながらも趙雲が拒むことも認めている発言は、劉備の穏やかな人となりを表わしているのだろう。
命じられれば拒むこともできた。
だが、教えてほしいと乞われれば、臣下である趙雲には断ることができない。
そして興味本位ではない態度が趙雲の固く閉ざした口を開かせる。
「私の我儘です。妻にと望むのはただ一人。その女性以外は考えられぬだけ。ただ、それだけです」
他に愛している女性がいるのだと言われ、劉備が笑みを浮かべた。
趙雲は不思議なほどに己のことを語ろうとしない。
だからと言って彼が信頼に足る男であることは確かなのだが、それでも趙雲自ら自分のことを話してくれるのは正直嬉しい。
趙雲は劉備が最も大変な時に手を差し伸べてくれた大切な家臣だ。
友人とも思っている。
そんな彼が妻にしたいと思う女性がいるのなら、彼女を娶るために協力してやりたいと思った。
「ならばすぐにでもその女性と婚姻を結べば良いではないか」
だが趙雲は首を振る。
「それは…できないのです」
「できないとは何故だ? 身分が低いというのなら私の養子にしても良い」
「そうではありません」
ゆるく首を振って趙雲は笑う。
困ったような寂しい笑顔は、劉備が初めて見る趙雲の素顔だ。
切なく狂おしい情熱を持て余したような表情は、とても恋しい人を語る表情ではない。
何かに縋るように胸元を握りしめ、趙雲は小さく呟いた。
「彼女は…もう、この世にはおりませぬゆえ」
◇◆◇ ◇◆◇
少女の名は黎月華といった。
趙家と肩を並べるほどの名門の家に生を受けた彼女は、その名の通り趙雲にとっては暗い夜道を照らす夜明けの光のようでもあり、手の届かない月の光のようでもあり、疲れた心を癒してくれる花のような女性だった。
同じ村に生を受け、親同士の付き合いから物心ついた頃には常に一緒にいるのが当たり前になっていた。
家族の愛情を一身に受けて育った月華は両親の望むように淑女の見本になるかと思いきや、侠客である兄の影響を多大に受けてしまったせいか正義感の強い娘に育ち、女だてらに一人で屋敷を抜け出しては困っている村人を助けているようなお転婆でもあった。
だが彼女の素直な人柄とまっすぐと前を見据えた純粋な眼差しは多くの人を魅了した。
趙雲もまた彼女に惹かれた一人で、少しでも相応しい男になれるようにと武芸を始めたのだという。
良家の子女でありながら村人にも気さくに話しかける少女と、そんな少女のために武芸を磨く趙雲との関係は誰が言うでもなく公認の仲だった。
お互いの両親も懇意の仲で、家柄も申し分なく、何よりもお互いが対のように傍にいるのが当然という空気。
美男美女の若い恋人同士はいずれ誰もが羨む夫婦となるだろうと、誰ひとりとしてその未来を疑っていなかった。
夜盗の襲撃さえなければ。
ひと月後に婚礼を控えたある日、趙雲を始めとした腕に覚えのある男達で近くの山に居を構える山賊を退治することになった。
趙雲はいつものように月華に出立を告げ、彼女もまたいつものように許嫁を見送った。
山賊はあっけない程容易く捕らえることができた。
周辺の村を脅かすほどだというのに、まるで手ごたえのない反応に拍子抜けしてしまったほどである。
捕縛し帰還する途中で趙雲が見たのは、住み慣れた村の方角から上がる火の手。
山にいた賊は単なる留守番だったと気づいた時には既に遅く、駆けつけた趙雲が見たのは折り重なるように重なる村人の死体。
幼子ですら容赦なく屠った賊は、ありとあらゆる略奪を行い村に火を放ったのだ。
生存者を探して走り回った趙雲の目に飛び込んできたのは、乳飲み子を抱いて護身用の刀で必死に応戦する許嫁の姿。
つい先日生まれたばかりの村長の孫だろう。
赤子の身を包む産着は、幼子の幸福を願って月華自らが仕立てたものだったため見覚えがあった。
だがその産着も血に濡れ、幼子の命は既に事切れているということは一目でわかった。
それでも月華は幼子を放そうとしない。
少女の細腕に抱えて戦うには不利であるとわかりつつも。
趙雲はあらん限りの声で月華を呼んだ。
周囲の喧騒に負けずに届いた声は強張っていた彼女の身体から力を抜き、そして黒曜石のような瞳が趙雲に向けられた。
趙雲へと駆け寄り手を伸ばす。
だが、その手は趙雲に届くことなく地に伏せた。
細い身体を貫く太刀。
ゆっくりと倒れていく恋人の姿。
赤黒い大地を更に染め上げていく、紅。
気がついた時、趙雲の周囲で命ある者はいなかった。
愛しい恋人を貫いた山賊は肉片となって周囲に散らばっている。
腕の中で失われていくぬくもり、眠っているかのような美しい死に顔。
だが、何度呼んでも彼女が目を覚ますことはなかった。
全ての村人を埋葬した趙雲は、誰に見送られることもなく懐かしい故郷を後にした。
彼女の存在を遺すのは、ただ己の記憶と、揃いの指環の片割れだけだった。
◇◆◇ ◇◆◇
「そうか…」
全てを聞き終えた劉備はそう答えるしかできなかった。
故郷を出た理由はあると思っていた。
だがそれはこの年代の若者によくある立身出世もしくは腕試しの類だと、そう呑気に考えていたのだが…。
全てを失って出ていかざるを得なかった可能性など少しも考えていなかった己が情けない。
話していても伝わってくる趙雲の想い。
彼はまだその許嫁を深く愛しているのだ。
そして、おそらくはその死すらもまだ受け入れていない。
その傷はあまりにも深く、癒えるどころか塞がってすらもいないのだろう。
あの拒絶も怒りの理由も納得できるというものだ。
「だが趙雲、其方はそれで良いのか。亡き許嫁とていつまでもお前を縛り付けておきたいとは思うまい」
愛しい人を失う哀しみは劉備とて経験済だ。
それこそこの戦乱の世ではどれだけ多くの人が大切な人を失っていることか。
だが、人は忘れる生き物だ。
哀しみとていつかは忘れて前を向いていかなければ、とてもじゃないが生きていくことなどできない。
劉備はそうやって大切な人の死を乗り越えてきた。
だから趙雲にもそうして乗り越えてほしいと、そう思っての発言だったのだが、趙雲が劉備に返したのは肯定の言葉でも反論でもなく、淡い微笑みだった。
「彼女と、約束したのです」
それは今までの悲壮漂う表情とはあまりにも違う。
「約束?」
「はい。『また生まれてくるから』と。彼女は約束を破る人ではありませんから、きっと戻ってきてくれるはずです」
「だが、それは…」
死者との約束など、守れるはずがない。
一度死んでしまえばどんな名医とて生き返らせることはできないのだ。
それなのに『生まれてくる』なんて。
『戻ってくる』という約束など叶うはずもない。
茫然と趙雲を見つめる劉備に、趙雲は胸元から何かを取り出した。
細い鎖に繋がられている先にあるのは、小さな指環。
「月華と揃いで作らせたものです。これの対はたった1つしかありません。私はこれを手に彼女が戻ってくるのを待つだけです」
うっとりと夢見るような表情は、先ほどとはまるで違う。
まるでただの旅に出てしまった恋人を待っているような趙雲に劉備の中に不安がよぎる。
「信じて、いるのか…」
死者の言葉を。
叶わないとわかっているその約束を。
「ただ…信じたいだけです」
そう言って自嘲った趙雲は、全身肝と称された猛将ではなく、ただの一途な青年にしか見えなかった。
- 11.09.05