恋をした。
おそらく、一生で一度だけの恋を。
淡く切なく、そして僅かな期間ではあったけれどそれは確かに今までの人生で何よりも輝いていた日々だった。
愛していた。
彼女だけを、永遠に。
趙雲は目を伏せ想いを馳せる。
彼女が存在していたという痕跡すら残さない、あの懐かしく悲しい場所へと。
忘れることなどできない。
思い出になんて、してしまいたくない。
唯一の、永遠の恋人。
だから。
『貴方だけを愛してるわ。だから、待っていて。絶対また生まれてくるから。遠く離れていても貴方に逢いに来るから』
そんな夢みたいな言葉に縋りながら、己はまだ生きているのだ。
◇◆◇ ◇◆◇
「お断りします」
君主の執務室で、いっそ潔いほどの拒絶の声が響き渡った。
驚いたように目を瞠るのは、この国の君主であり声の主の主君でもある劉備だ。
戦場においては鬼神の如き働きぶりを見せながら常では一歩引いて謙虚な姿勢を崩さない彼の、ここまでの拒絶と怒りを目にしたのは初めてだった。
「趙雲、少しは考えても良いのではないか」
「考えるまでもありません。お断りいたします。絶対に、受けたくありません」
冗談じゃないとばかりに吐き捨てる姿に怒りで身体を震わせるのは、劉備ではなく最初に趙雲にこの話題を持ちかけた文官だ。
そもそもことの発端は、劉備の治世を盤石なものにするため家臣一同の絆を深める必要がある、とある文官が言い出したからだ。
蜀は建国されてからまだ日が浅い。
しかも国の主だった武将が国内外からの寄せ集め。
言い方は悪いがつまり誰がいつ裏切るかわからない信頼感しか持っていないのだ。
誰もが劉備の人柄に惹かれて集まってきたのだから、いくら何でもそんなことはないだろうと却下したのは、己の義兄のカリスマ性に絶対の自信を持っている関羽と張飛であり、だが危うい状態であると文官の言うことも一理あると認めたのは劉備の懐刀とも呼ぶべき諸葛亮である。
では絆を深めるにはどうしたら良いかと言われ、件の文官がこう言ったのだ。
国内の結びつきを強くするためには婚姻が一番だと。
成程、確かに一理ある。
国同士でも同盟をするには両国の要人の婚姻が通説であったし、絆を深めるという点では最適であろう。
だが、その後に続いた言葉がいけなかった。
『時に趙雲殿。うちには年頃の娘が一人いるのですが、これが親の私が言うのも何ですが大層美しく賢い。よろしければ貴女の妻にいかがでしょうか』
この言葉で諸葛亮は先ほどの言葉を瞬時に撤回した。
この文官の娘が趙雲に気があるのは周知の事実で、傍目にもわかるほどに熱烈な秋波を送っているのを知らない者はいない。
そして趙雲がまったくその女性に興味がないということを知らない者も、またいない。
一文官の娘にしては確かに親が言うように美しいと言えるだろう。
だが賢いかと言われればそれは微妙で、僅かばかりの才知を鼻にかける態度は結構有名だ。
そして親の威を借る発言も多く、決して褒められた性格ではない。
彼女自慢の美貌とて諸葛亮の妻である月英や張飛の娘である星彩に比べれば明らかに見劣りするし、親の地位も本人が思っている程に大層なものだとは思えない。
趙雲に嫁げば娘は安泰。
場合によっては己の地位も安泰という文官の下心は分かりやすいほどに透けて見える。
趙雲は若年ながら五虎将軍の位に就くほどの武将だし、何より劉備の信任篤い。
今後の戦でも間違いなく武功を立て続ける人物である以上、婚姻という繋がりを持とうと思う文官は決して少なくないだろう。
たまたま今回はこの文官だったということで、今後同じような誘いを受けるのは容易に想像できた。
勿論趙雲もそれはわかっていると思ったために、娶るつもりがなくてももっとやんわりと断るかと思っていた諸葛亮は、目の前の趙雲の剣幕に少なからず驚いた。
日頃から温厚な趙雲のこと、あえて周囲と波風を立てるような愚行を行うとは思っていなかったのだ。
だが趙雲は日頃の笑顔をどこに置いてきてしまったのかと思えるほどに不機嫌さを隠そうともしない。
劉備へとしっかり視線を定めて、言い出した文官を見ようともせず、ただ「断る」の一点張りである。
何が趙雲の琴線に触れてしまったのか、流石の諸葛亮ですら見当がつかない。
「お話とはこのようなものでしたか。では、私はこれで失礼します。兵の鍛錬がありますので」
「待たれよ、趙雲殿…!」
「失礼します」
取り付く島もないとは正にこのこと。
無情に閉められた扉からは明確な拒絶が見えていた。
文官は怒りと屈辱に身を震わせている。
劉備は困惑した表情で扉と諸葛亮を見ている。
さて、どうしたものか。
諸葛亮は孤高の将軍の心情を思いながら、羽扇の陰で小さく嘆息した。
◇◆◇ ◇◆◇
事情を知るためには、まずは情報収集が優先とばかりに、諸葛亮はある人物を呼び出していた。
趙雲が明確な拒絶を持って婚姻の話を蹴った時、困惑する武将の中で彼だけが痛ましそうな表情を浮かべていたのを諸葛亮は見逃さなかった。
鍛錬が終わってからで良いという呼び出しではあったが、彼が諸葛亮の部屋に赴いたのは夜も更けようという遅い時刻だった。
自宅はあるが常に仕事に追われている諸葛亮が自宅へ戻ることは少ない。
彼はそれも知っていたのだろう。
あるいはこの時刻ならば趙雲とて自宅に戻るなり城にある自分の部屋で就寝しているだろうと思ったのかもしれない。
彼は決して鈍い男ではない。
おそらく諸葛亮が呼び出した理由を正確に把握しているのだろう。表情が若干固いのがいい証拠だ。
「忙しいところを申し訳ありませんでしたね、馬超殿」
「いや、構わない。俺に聞きたいことがあるのだろう」
そう言いながら腰を下ろした馬超の表情はいつもと変わらない。
「先日の働き、ご苦労でした」
まずは戦場での働きを労う。
諸葛亮は軍師としての性か、聞きたいことを会話の冒頭から訊ねることはない。
相手の油断を誘うように関係のないことから話を進め、そうして打ち解けたように見えた頃に核心を突くのだ。
それは勿論意図してのこともあるし、無意識での行動の時もある。
だが、今回は少し事情が異なる。
諸葛亮自身も、どう切り出して良いかわからなかったのだ。
何しろあのような趙雲を見たのは初めてである。
そして痛ましそうな馬超の表情から、それはあまり触れては良いものだとは思えなかった。
だが諸葛亮は蜀の軍師であり、国内を安寧にしなければならない責務がある。
今回の件は明らかに文官の勇み足だが、今後同じようなことが何度となく続けば趙雲の評判も下がるだろうし、ひいては国内の結束も乱れるかもしれない。
それは避けなければならないのだ。
女官が酒肴を用意して席を立つまで他愛のない話を交わしていく。
諸葛亮についている女官は会話の内容を他者に話すような不心得者はいないが、それでも情報は与えないに越したことはない。
いくつかの酒と肴、そして灯りを用意し終えた女官が恭しく退室していくのを見届けて、馬超が諸葛亮へと視線を向けた。
「俺に聞きたいこととは、趙雲のことか?」
ずばりと指摘されて諸葛亮は小さく頷く。
「えぇ。趙雲殿に訊ねるのは些か気が引けましてね。馬超殿は趙雲殿とも親しい。何か知っているのではないかと思ったのですよ」
「親しいというなら俺より軍師殿や殿の方が付き合いは長いだろうに。何故、俺に聞く?」
試されていると思った。
馬超は蜀の有能な武将だが、諸葛亮を信用しているかと言えば微妙なところだ。
何においてもまっすぐな気質の馬超は、笑顔の裏で何かを画策する諸葛亮の性質を信用できないのだろう。
戦において諸葛亮の軍略は文句のつけどころがないため素直に従うが、それ以外では馬超はやんわりと、だがきっぱりと己の信念を貫き、時には諸葛亮の言すら無視することもある。
だからおそらく、今回の話も口先だけの返答をすれば馬超は答えてくれないだろう。そんな予感があった。
諸葛亮は杯を卓に置き、馬超の視線を受け止める。
「人の付き合いとは年月ではないと私は思います。馬超殿と趙雲殿は同じ気質の持ち主。気心知れた相手ならば年月など関係ないでしょう。そしてお互いを思いやれるお二人ならばこそ、心の内も吐露されているのではないかと思ったのです」
「…1つだけ聞きたい。趙雲の理由を知って軍師殿はどうするつもりだ」
「どう、とは」
「俺はあいつの友のつもりなんでね。あいつの傷を抉るような真似はしたくないし、あいつの意に添わぬことに加担したいとも思わない。それが殿の望みだっていうんなら仕方ないが、軍師殿の独断であいつを傷つけたくない」
潔い言葉に諸葛亮は思わず口元が緩んでいくのを感じた。
何と甘い優しい言葉だろう。
この戦国の世において不釣り合いな美しさは、だが蜀においては珍しいものではない。
「内容によりますが、私も殿も趙雲殿の意に添わぬことをさせようとは思いませんよ。ただ、知っていると知らないとでは今後の対処が変わります。趙雲殿がいらぬ恨みを買わないために知っておくべきだと判断しました」
「それならば、よい。俺が知っている限りでよければ話そう」
そう言って表情を緩めた馬超が語った趙雲の過去は、酒の肴にするには重く苦く諸葛亮の心に沈んでいった。
- 11.09.01