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雪・月・華 33


気付けば年月はあっという間に過ぎ、時代は織田から豊臣へと移り、そして今また豊臣から徳川へと移行しようとしていた。
それらを生き抜いてきた武将達は言葉にはしないまでも、時折遠い目をして昔を懐かしんでいるように見える。
懐古主義と言ってしまえばそれまでだが、彼らが過去を懐かしんでしまうのも道理だと清正は思う。
彼らが過ごしてきた時代は激動に彩られ多くの命を失ってきたけれど、それでもあの覇道を進んでいくかのように彼らを導いてきた背中は誰よりも頼もしかったのだから。



織田信長。



第六天魔王と自称し、確かに怒らせたら誰よりも恐ろしい人物ではあったが、それ以上に人を惹きつける魅力に溢れていた。
そんな彼が本能寺で斃れ、次いで世を統べた豊臣の政権下は豊かではあったけれど、あの時のように心躍るほどの日々とはほど遠かった。
秀吉には信長ほどの求心力はどうしても得られなかったのだ。
その証拠であるかのように秀吉の死後数年で日ノ本はまた天下人を変えようと動いている。
多くの武将が秀吉亡き後の豊臣政権を見限り、新たな天下人となるであろう家康へと主を変えた。
その中には秀吉が存命中から多大な恩を受けていた人物も決して少なくない。
秀吉の元で多くの所領を得ていた武将も手のひらを返すように主君を変え、実の甥である小早川秀秋ですら豊臣に賛同する勢いであるという。

かく言う清正もその1人だ。

清正が豊臣を離れたのは己の所領のためではない。
今のままでは豊臣を守ることができないと判断したからこその行動であったのだが、どれほど言葉を尽くしたところで豊臣に残った者にとっては裏切り者の言い訳でしかない。
守るために、あえて離れた。
そう思ってくれている人物はおそらくいないだろう。
己の判断は間違っていないと思うが、大坂城を離れる最後の日に己を糾弾した三成の言葉は今でも清正の心に痛みを残している。
三成は利発過ぎる程に頭が回るから自分には見えていない未来も見えているのだろう。
だが、清正にはわからない。
だから自分が思った通りに行動するしかないのだ。
裏切り者と呼ばれようと。

(裏切り者、か…)

ふと、その言葉が懐かしい過去を思い出させた。
誰よりも羨むほどの寵愛を受けていながら謀叛を起こし主君を謀殺したと言われ、世の恨みを一身に背負わされたあの武将――明智光秀。

あの時の光秀の苦しみに比べたら、清正が置かれている待遇などまだ可愛いものだ。
清正はあくまでも自分が選んだ結果。

だが、光秀は違った。
全てが謀略だったのだ。

清正の記憶に残っているのは、全てが終結して放心したような表情を浮かべていた光秀の姿だ。
あれほど綺麗で悲しい笑顔は、清正は見たことがなかった。
信長に愛され、彼の子を宿し、これから先には明るい未来しか描いていなかったであろう彼女を地獄に突き落とした女の存在は、今思い返しても腸が煮えくり返るほどの怒りを覚える。
真実を知るのはほんの数人。
今でも『明智光秀』と言えば『天下の謀叛人』と呼ばれ多くの武将や民から憎まれている。
女性の身でありながらそのような憎悪を一身に受けていた彼女の心境はどうだったのだろうか。
知りたくても清正は光秀の消息を知らない。

あの日、放心した光秀を城まで連れ帰ったのは秀吉はじめ清正や三成だ。
最初こそ抵抗していたものの元親を埋葬しなければという言葉にあっさり従った彼女は、だが翌朝には城から忽然と姿を消してしまったのだ。
光秀が天女の末裔であることを知っていた秀吉は天に還ってしまったのではないかと嘆いたが、真実は定かではない。
ただ、あの日を境に明智光秀という人物が消息を絶ったことは紛れもない事実で、混乱した世を鎮めるという名目で光秀の影武者を仕立てて処刑した。
その功績が認められて秀吉が天下を統べることになったのだが、結果として光秀の名を利用してしまったためか清正は素直にそれを喜べなかった。
だからなのだろうか、自らの家と思っている大坂城を守ることに否はないが、豊臣という政権が続かなくても構わないと思ってしまうのは。
清正にも良くわからない。
だが、己が豊臣を去ったことに対して不思議と後悔していないのは、あの儚い女性を利用してしまったという罪悪感があるからなのかもしれない。

そうして進められるままに徳川へと下った清正は、珍しく家康の私事で使いを任されていた。
家康は豊臣から下った家臣には必要以上に気を遣う傾向があり、それは合戦を控えて彼らが離れていかないようにという処世なのだとわかっていた。
だからこそ己の私用を清正に頼むことは珍しいことだと思っていたが、あえてそれを引き受けたのはじっとしているより気持ちが楽という単純な理由だ。
頼まれたのは食糧や衣類などをある屋敷に届けることだった。
荷車に乗せられたそれは決して少なくない。
少なくとも数人が冬を越せるだけの量はあるだろう。
衣類の中には女性用の小袖などもあり、おそらく相手は家康が手をつけた女性なのだろうと推測する。
家康は秀吉ほどではないが女性好きで、殊更未亡人を好んでいる。
これまでも何人か後家を側室に迎えていて家臣に窘められていたことを聞いていたものだから、今回は外に囲うことにしたのだろう。
それにしては頼む時の態度が丁寧過ぎたのが気になるところだが。
まるで相手が貴人かのような態度は、家康の今の身分を考えれば確かに不可解だった。
だがそれも自分に気を遣っているのだろうという程度の認識しかなかった。
家康は清正に対して、まるで腫れ物を触るかのように気を遣いすぎるのだ。
秀吉の側近だったことを考えれば当然なのかもしれない。
だからこそ不思議だった。

そこまで気を遣っていながら、なぜたかが女への使いを頼んだのか。

答えの出ない問いに、清正はやがて考えることを止めて馬を走らせることに専念した。







   ◇◆◇   ◇◆◇







辿り着いた屋敷は徳川の領土から少し離れた場所にあった。
城下からも遠く人通りもそれほどない寂しい場所。
まるで俗世に辟易した僧侶が住まうような小さな屋敷だった。
屋敷というよりは庵と呼んだ方が良いくらいだ。
家康の寵を受けている人物の邸宅としては少々手狭に感じるので、もしかしたら本当にただの知人なのかもしれないと考えを改めた。
決して古くはないが女が1人で住むには寂しすぎる。
だが門は堅牢な造りで門番は2人いる。
それなりに警備は万全なのだと思えば、まだ納得もできるだろう。
門から見える邸内はそれほど大きくない。
家康の使いで来たと門番に伝えればすんなり通された。
恐らく今回が初めてではないのだろう。
案内を務めた男は足が悪いのだろうか、片足を引きずるように歩いている。
どこかで見たような気がしなくもないが、生憎思い出せなかった。

「こちらでお待ちくださいませ。間もなく御方様がいらっしゃいます」

やはり女か、と清正は若干落胆した気持ちを隠せなかった。
何に落胆したのかは不明だ。
たかが女への贈り物に使い走りをさせられる自分の境遇か。
それとも女にだらしのない家康に仕えているという現実か。
とにかくさっさと用を済ませて帰るのが最善だろう。
そう決めた清正の耳に衣擦れの音が聞こえてきたのはそれからほどなくしてだった。
静かな足音は女性特有の軽さがある。
だが妙に隙がないように聞こえるため、武将のものだと言われても納得してしまうだろう。
男のような乱暴さは一切感じない、まるで舞手が動くような静かな動き。
そんな身のこなしの人物を、清正は1人だけ知っていた。
脳裏に浮かぶのはあの麗人の姿。
まさかそんなことあるまいと思いながら頭を下げて屋敷の主だという女性を待った。
すると。



「家康殿。毎回言っていますが、このようなことをされては困ります」



す、と開けられる襖の音と共に響いてきた声に心臓が凍りつく。
ふわりと漂ってくる甘い香りと、女性にしては低く知的な声。

「あ…」

動揺した声も、記憶のものと全く同じ。

(まさか…)

非礼だと思いつつも弾かれたように頭を上げた。
部屋の入口。襖の前。
切れ長の瞳を大きく見開いた美しい女性の姿に息が止まった。

「清、正…どの…」

「光秀様…」

絹糸のように細く光沢のある髪、誰もが目を奪われる美貌。
行方知れずになってから長い年月が経過しているにも関わらず、清正の目の前にいるのはあの頃と寸分違わぬ美貌と若さを保った明智光秀の姿だった。


  • 11.12.28