己を支えていた男の身体が、ぐらりと傾いた。
むせ返る血の匂いに、忘れていたはずの悪阻が甦ってくる。
油断をしていたわけではない。
自分は目の前の女から目を離してはいなかった。
それなのに彼女の動きを光秀は追えなくて…。
「…ぐ…っ…!」
「元親殿?!」
勢いよく振り返り、崩れ落ちる寸前だった男の身体を支えた。
視線を落とせば足元に血溜まり。
どこからと思い少し視線を上げれば、元親の腹部がざっくりと裂けていた。
「ぁ…」
また失ってしまう。
そう思った途端、全身を襲ったのはあの時と同じ恐怖。
元親は光秀の理解者だ。
信長や蘭丸とはまた違った形で心が通い合っていた。大切な――友。
流れる血を止めようと光秀は己の袖を割いた。
白く細い二の腕が露わになって、そのような場合ではないと思いつつも秀吉の目がその白に惹きつけられる。
細く裂いて腹部に巻きつけようとするが、困惑と恐怖で腕がうまく動かない。
「元親殿…元親、どの…」
嫌だ、置いていかないでほしい。
ここまで巻き込んだことだけでも申し訳ないのに、命まで落とされたら光秀はどうやって詫びれば良いのだろう。
また1つ増えるかもしれない罪の意識にじんわりと眦に涙が浮かぶ。
天女の末裔である光秀にとっては大したことのない傷かもしれない。
だが元親にとっては致命傷となるに十分の深さ。
彼は普通の人なのだ。血を流し過ぎれば命を落とす。
「気に、するな…。俺が勝手について、きただけだ…」
不敵な笑みが光秀を見据え、眦に浮かんだ涙を長い指が拭っていく。
光秀がそう思っているのと同様に、元親にとっても光秀は大切な友だ。
友の危機に駆けつけるのは当然。
そしてそれが戦場であるならば命を落とす覚悟とて最初からしてある。
気に病むなと言う言葉は嘘偽りのない元親の本音なのだ。
「お前の腕で死ねるのなら、悪くない…」
皮肉げな笑みが口元に浮かぶ。
彼は反骨の人だった。
そんな性格が気に入って信長が家臣にした。
品行方正な光秀とは正反対で、飄々とした態度は古参の武将との対立が絶えなかったが、若い武将には好かれていた。
油断のならない奴だといいながら、それでも信長が認めるほどの実力者。
独りになった光秀を託す程には信長が信頼していた男。
そして光秀にとって数少ない理解者だった。
信長、蘭丸。そして元親。
八重は光秀が心を寄せた者を悉く奪っていく。
思い返せば父との距離が開いた原因にも八重が関わっていた。
母が亡くなった理由は一体何だったか。
今では定かでない記憶だが、母が亡くなる最期の夜、母は八重と口論をしていなかったか。
母の死。そして不自然な八重の失踪。まさか母が亡くなったのは…。
光秀は冷ややかな視線で八重を振り返る。
美しい八重。だがそれは禍々しい空気に包まれている。
戦場に立ったことがないはずだろうに、その手は人を殺すことに慣れている。
武人である光秀にはわかる。
この女の目は多くの命を屠ってきた目だと。
「八重…」
「これでようございました。人間如きが姫様の信頼を得るなど、あってはならぬこと」
「八重」
「姫様に相応しい地は天のみ。下界は生き辛うございます」
「八重!」
厳しい叱責の声に、笑みを浮かべていた八重の表情が固まった。
そこで初めて八重は光秀が激しい怒りを浮かべていることに気が付いた。
怪訝そうに首を傾げる八重は、おそらく本気で光秀が怒る理由がわかっていないようだった。
きょとん、とした表情で光秀を見上げる姿は、普通の女にしか見えない。
不思議な違和感を感じたのは光秀だけでない。
秀吉も目の前の女を奇異なものを見るような眼差しを向けていた。
「貴女が天に還りたいと思うのは自由です。そのために私を探したというのも理解しましょう」
「…えぇ。えぇ、そうですとも。天女は天に還るのが運命ですもの」
「ですが、天に還るかどうかは私が判断します」
「姫様…?」
「それが長の使命なのでしょう」
告げられた言葉の意味がわからず、八重は益々首を傾げる。
反対に光秀の心は冷えていく。
還りたい。そう思うのは自由だ。
そのために還る方法を探すのも。
だが、だからといって他人を殺めて良いという持論は許されるものではない。
光秀を長と言うならば、八重は部下だ。
長の言葉を無視する部下など、あってはならない。
「八重」
刃のようにとがった声が八重の耳を打つ。
向けられた眼差しは氷のように冷たい。
「姫様…」
「貴女は多くの罪を犯しました。処罰するのが長の役目」
「まさか…」
「多くの命を奪い、多くの人の人生を狂わせた罰は、貴女の命で贖いなさい」
「本気でございますか?! わたくしを殺してしまえば、姫様は天に還れないのでございますよ」
刀の鍔に手をかけた光秀に、ようやく八重は光秀の本気を理解した。
狼狽したようにそう告げる八重に、光秀は小さく首をふる。
「私が一度でも天に還りたいと、貴女と一緒に行くと言ったことがありますか」
「そんな…」
「おしゃべりはここまでです」
それが最後通牒。
光秀の放った刃の軌跡が閃光となって大気に消えた。
◇◆◇ ◇◆◇
おそらく最期の最期まで光秀の気持ちなど理解できていなかったのだろう。
ごとん、と音がして落ちた八重の首は驚愕に彩られていた。
痛ましいものを見るような眼差しで一瞥した光秀は、だがそれ以上近づくこともなく倒れている元親を抱き起した。
ぐったりと重みの増した身体に、事切れてしまったことを知る。
失ったものはあまりにも多い。
こんな、哀れな女の妄執のために。
光秀に残されたのは己自身と腹の子だけ。
明智の領土に戻ることなどできるはずもなく、信長によって用意された安土城下の屋敷も焼け落ちた。
音がなくなったように静かになった戦場に残されているのは多くの死体のみ。
もう、どうしたらよいのかわからない。
ふと、ふわりと肩に何かがかけられた。
白地に猩々緋色の上着。
見上げれば年下の知人の姿があった。いつの間にここまで来たのだろうか。
「そのままでは、お風邪を召します」
「…ぁ」
元親の止血にと破った袖は光秀の肩を露出させていた。
空気が冷えてきたこともあり、このままでは身体に良くないのは事実だった。
ありがとうございますと呟いて袖を通せば、それまで纏っていた者の体温に小さく安堵の息が漏れた。
三成の視線が僅かに逸らされる。
おそらくかける言葉を探しているのだろう。
この年下の知人は形式的な言葉を好まない。
もう1人の知人へと視線を向ければ、僅かに頬を赤く染め慌てて視線を逸らされた。
その様子から全てわかっているのだろうと察した。
どこから見られているのかわからないが、八重の最期の言葉だけでも光秀の性別がわかるのには十分だ。
光秀はその後ろにいる秀吉へと視線を移す。
戸惑っている様子は先ほどの殺気に満ちたものとは違い、まるで憑き物が落ちたような表情だ。
視線があって僅かに肩が動いた秀吉に、光秀は静かに訊ねる。
「私を、まだ殺したいですか」
「っ!」
一瞬、目を見開き、それから激しく首を振った秀吉は、その勢いのまま光秀の傍へと駆け寄った。
三成を押しのけて光秀の隣に膝をつく。
「儂が間違ってたわ。お前さんにはどんだけ詫びても償いきれん程の濡れ衣を着せてしもうた。本当に申し訳かった」
光秀はゆるゆると首をふる。
元凶は光秀だ。
正確には八重なのだが、彼女が暴走した理由は光秀の存在があったからこそなのだ。
むしろ八重に利用されてしまった秀吉こそが被害者かもしれない。
「光秀殿…お前さん、これからどうするつもりじゃ」
「さぁ、どうしましょう」
不思議と心は静かだった。
冷静というより飽和に近い。
今は失ったものが大きすぎて今後のことなど浮かぶはずもない。
ほとぼりが冷めればどこかの家に仕官してということも以前ならばあり得ただろうが、赤子を抱えて出仕などできるはずもない。
それに、信長以上に仕えたいと思える人物に出会えるとも思えなかった。
「どこかの尼寺にでも行くしかないでしょうね」
光秀はあまりにも多くの人に顔と名前を知られている。
このまま普通に生活していくのは難しいだろう。
女性でありながら男性として育てられた光秀は、武芸ならば神業の腕前を持つが生活する能力は皆無だ。
他に行く場所もないだろう。
数か月前にはこの手の中にあった幸せが、今は何と遠くにあるのだろうか。
「まさか明智殿は死を…」
不意に声が漏れたのは、おそらくは清正から。
だが誰もが同じことを危惧していたのだろう。
光秀は小さく笑って否定した。
「生きよ、とあの方に言われました。ですから、死は選びません」
その声に安堵したように3人が息をつく中、光秀はですが、と言葉を続けた。
「この先どうやって生きていけば良いのか、私にはわからないのです…」
小さく呟いた姿は、まるで迷子の幼子のようだ。
- 11.12.20