城から忽然と姿を消した光秀。
秀吉の城は堅固だ。
いくら優れた武将ではあっても、身重の女性が誰1人として見咎められることなく城を出ることは不可能。
それなのに光秀は消えてしまった。
寝具には使われた形跡がなく、それどころか室内にも光秀がいたという痕跡もない見事な消失は、天に還ってしまったと誤解されてもおかしくないほどだ。
だが、そうではなかった。
光秀はこうして目の前にいる。
天女の血族という証かのように、失踪した当時と同じ美しさを留めたまま。
何故、とか。
どうして、とか。
聞きたいことは沢山あった。
だが、ようやく相対した清正から出たのは安堵の吐息と。
「よく、ご無事で…」
そんな感慨深い一言だけだった。
心も体も悲痛なくらいに弱っていた光秀のことを、秀吉は勿論だが清正もまたずっと案じていたのだ。
世の中が平和であればあるほど、思い浮かぶのは最後に見た迷い子のような光秀の姿。
身寄りもつてもない状況で身重の女性が1人で生きていけるほど楽な世の中ではないからこそ、どうにかして行方を捜して手を差し伸べたいと思っていたのだが。
生きるのに不器用なくせに自身の痕跡を消すのは恐ろしいほど上手だったものだから、どのような手段を用いても一向に痕跡1つ掴むことはできなかったのだ。
だが、生きていた。
それだけで十分。
何の手助けもできなかったことを侘びるかのように深々と頭を下げる清正に、慌てたのは光秀だ。
人違いをした挙句、先ほどから入口に立ったままの姿はどう考えても非礼にあたる。
そんな自分に一国一城の大名である清正が頭を下げるいわれなどない。
「どうか、頭をお上げください」
思いもよらぬ来客に困惑と驚愕は隠せないけれど、今更姿を隠すことなどできない。
それならせめて悲痛な表情を浮かべる彼の気持ちを軽くすることを優先したかったのだ。
ゆっくりと頭を上げる清正に、光秀はふわりと微笑んだ。
◇◆◇ ◇◆◇
「過ぎてしまったことです。清正殿が気に病む必要などありませんよ」
改めて、円座に腰を下ろした光秀は清正に向かってそう告げた。
その声は明るく、何も含んでいるようには思えない。
だが、はいそうですかと終わりにするには清正が思い煩っていた期間は長すぎた。
「ですが…」
「私はこうして生きております。あの時のご厚情はとても嬉しかったのです。私のほうこそ何も言わずに城を出ていってしまい申し訳ないと思っていたほどです」
「どうして、あの日、黙って城を出ていかれたのか、理由を訊いても良いですか」
「…もう、良いではないですか」
「まさかとは思いますが、秀吉様が何か…」
「過去のことです」
「と、言うことは…」
ずっと不思議だったのだ。
過剰なほどに義理堅い光秀が、誰にも何も言わずに城を抜け出すことがあるだろうかと。
確かに誤解があったとはいえ敵対していた武将の本拠地だ。
危険だと思う可能性がないわけではない。
だが、光秀とのことは全てが誤解であり、その誤解が解けた時点で光秀は庇護すべき対象となっていたのだから、戦に巻き込まれることはなくむしろ光秀と懇意にしていた秀吉の庇護下にいることがあの時の光秀にとっては最良だったのではないかと思ったのだ。
当時は不思議で仕方なかった。
三成は何か気づいていたようだったが生憎清正には見当がつかず、その理由がようやくわかってきたのは天下人となった秀吉が次々に大名の娘を側室に迎えるようになってからのこと。
揺るぎない忠誠を持つ清正ですら秀吉の女好きは度を超えていたと思う。
見目麗しい女性なら武家だろうが町人だろうが構わず召し上げ、その中には所帯を持っていた女性も少なくなかった。
更には戦で家を留守にしている大名家に忍び込んでは、その奥方に手を出したということも珍しくない。
天女の一族に強い関心を抱いていた秀吉。
そんな秀吉が、その直系の子孫である光秀を放っておくだろうかと。
しかも光秀は主君である信長が片時も離さずにいたほど寵愛深かった女性である。
手に入れたいと思ってもおかしくない。
況してや光秀の腹の子は信長にとって最後の血縁であり、生まれたのが女児であれ男児であれ利用価値は高いはず。
いくら秀吉でも傷心の光秀に手を出すとは思いたくないが、清正が思いつくほどなのだ。
聡明な光秀がその可能性に気付かないはずがないだろう。
もしかしたら秀吉にそのような示唆をされたのかもしれない。
だから逃げたのではないかと、そう思っての問いかけには小さな苦笑で返された。
「……………申し訳ありません!!」
またもや深々と頭を下げられ光秀は困ったように柳眉を下げた。
清正の指摘は間違っていない。
光秀の面倒は自分が見る。
生まれる子の後継者になる。
そう言われたのは事実だ。
そして、その裏に隠された思惑に気付いたのも、又、事実である。
己の身がどうなるかは別にしても、生まれてくる子を政略の道具に使うようなことだけはしたくなくて、光秀はその申し出を断った。
一度は了承した秀吉だったが彼が諦めたとは思えず、このまま目の届く場所にいてはどうなるかわからなかったために姿を消したのだ。
だがそれは戦国の世では珍しくないこと。
戦に負けた武家の者がどういう未来を辿るかは誰でも知っている。
多くは首を斬られ家を断絶させられる。
それに比べたら身の安全はおろか子供の行く末まで保障してくれるというのは破格の待遇なのだ。
ただ、光秀がどうしても受け入れられなかっただけのこと。
何も知らなかった清正に謝られることではない。
「どうか、そのように謝らないでください」
「ですが…」
「過去のことです。もう、お互い忘れましょう」
穏やかな表情で諭すように言われて清正は不満こそあるもののようやく頷いた。
光秀の印象は以前から変わらない。
どこまでも穏やかで控えめで、まるで包み込むような優しさを感じる。
ねねとは違うけれど、それに近い慈愛を感じるのだ。
そのせいだろうか、光秀にそう言われてしまうと清正は何も言えなくなる。
「ここには、あれからすぐ…?」
「はい。ある方のご厚意で用意されてあったようで、断ろうと思ったのですが中々に頑固な方で」
押し負けてしまったのですと照れたように告げる姿はあの頃と同じだ。
「それはもしや徳川殿で…」
清正にわざわざ使いを頼んだ家康の姿が脳裏に浮かぶ。
光秀の様子から頻繁に訪れては食糧や衣服を持ってきているようだし、光秀の隠れ家を知っているのも彼が用意したからだろうかと思ったのだが、光秀は首を振って否定した。
「家康殿には何故か知られてしまったようで…。私にもどうして見つかってしまったのかわからないのです」
家康は忍びを重用しているそうだから、もしかしたら忍びを使って探したのかもしれない。
彼もまた光秀という人物に強い興味を抱いていた1人なのだ。
光秀という人物は昔から不思議な人だった。
苛烈な信長の下にいながらも清廉とした空気を失わず、親しくなればなるほどその心根に惹かれていく。
戦場に身を置いている男にしてみれば光秀の持つ柔らかい雰囲気は闇夜を照らす月光のように荒んだ心を癒してくれるのだ。
あの信長すら執着したほどの存在。
秀吉や家康が欲しても不思議はない。
「あの…」
「失礼します」
家康との関係を聞こうとした清正の声を打ち消すように、凛とした若い男の声が響いた。
すらりと開かれた襖の向こうにいるのは、涼やかな目元が特徴の美しい青年。
切れ長の瞳は目の前の貴人に似ているが、それよりも良く似た人物を清正は知っていた。
第六天魔王と呼ばれた彼の人物に目の前の若者は良く似ている。
「光慶」
光秀がふわりと笑んで姿を見せた若者を呼んだ。
「まもなく医師が参ります。室へお戻りください」
「もうそのような時刻でしたか」
「あまり無茶をされては困ります。重蔵が心配していましたよ」
「光慶も重蔵も気にしすぎですよ。私ならば平気ですから」
「母上が自分のことに無頓着過ぎるから、私たちが気を遣い過ぎるくらいで丁度良いのです」
母上、と思わず声に出して呟いてしまったのだろう。
光秀と光慶と呼ばれた青年が視線を向けた。
すると、光慶が清正に向かって頭を下げた。
「御使者殿」
青年は清正をそう呼んだ。
家康の使いが来ているということは家人から聞いたのだろう。
「会談の途中で申し訳ないが、母は体調を崩している故、そろそろ解放していただきたく存ずる」
「体調を…?」
不思議そうに光秀を見ると、光秀は困ったように苦笑した。
そういえば、と清正は今更ながらのことを思い出した。
常日頃から無理をする光秀は、たとえ体調を崩していてもそれを相手に悟らせない人物だったではないか。
「大袈裟なんです。少し風邪を引いただけなのですよ。もう平気なのですが…」
「平気ではありません。昨日も夜に熱が上がっていたではありませんか」
「光慶には敵いませんね」
くすり、と笑う姿は母のそれで、まったくと呆れたため息をつく青年があの時の子供なのかとようやく認識できた。
直に戻るからと言えばようやく納得したのか青年は非礼を詫びて姿を消した。
どうやら母子の仲は良好のようだ。
「男子だったのですね」
「えぇ。あの子には私のような生き方をしてほしくありませんから。男子で本当に安堵しました」
天女の末裔、しかも直系として生まれた光秀の苦労は清正が想像する以上だったのだろう。
愛おしそうに息子が消えた襖の先を見つめる姿は慈愛に満ちていてとても美しい。
最愛の夫を失い、親友を失い、己の身以外全てを失った光秀。
彼女がこうして笑っていられることが、後悔に身を苛まれていた清正の心を僅かではあるが軽くしてくれた。
「光秀様」
「はい、なんでしょうか」
「どうか、これからもお健やかにお過ごしください」
深々と頭を下げた清正に、光秀は驚いたように目を瞠ったものの、その言葉の真意に気付いて嬉しそうに笑った。
それから数年の後。
美濃の山麓にある小さな庵で1人の女性がひっそりとその生涯を終えた。
美濃に暮らしていながら『安土の御方』と呼ばれた貴人の死に天下人となった家康は深く嘆き、彼の手によって遺体は信長の菩提寺である阿弥陀寺に埋葬された。
天下が豊臣から徳川へと移り変わってしばらくのことである。
- 12.01.10