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雪・月・華 31


目の前に広がる屍の数に三成は眉を顰める。
その多くは豊臣の兵士。
一太刀で斬り捨てられた傷跡は誰の手によるものは明白だ。
驚愕に見開かれた瞳は、おそらく己がどのように斬られたかすらわかっていないかもしれない。
それでも予想より被害が少ないのは、逃げる者は追わなかったからだろう。
ただ目的のために一直線に進んだということがよくわかる被害状況だ。

「恐ろしいな」

圧倒的な数の差すらあの鬼神の前には無意味だった。
想定していたことではあるが、それでも驚嘆を隠せない。
豊臣の軍は腕自慢が多い。
だが明智の軍はその上を行く精鋭揃いだったということか。
そこに長宗我部の軍が加われば、戦上手の秀吉とて苦戦は仕方ない。
何しろ相手が歴戦の猛者だ。
秀吉の布陣は元親の奇襲によって全ての機能を失った。
混乱に乗じて単独で進んだ光秀が一体どこにいるのか。
累々と重なる屍がその行く先を示している。
三成は本陣から離れた場所に布陣していたため、どれほど馬を飛ばしても到着するにはもうしばらくかかるだろう。
流石にそれまでに決着がついているということはないとは思うが、相手は何しろ光秀である。
しかも秀吉は冷静な判断ができない状況だ。
事態が悪い方に動いていなければ良いのだが。

「っ?!」

視線の先に見慣れた男の姿を認めて馬を止める。
無造作に地に伏している屍と違い、樹の幹に凭れかかるように座り込んでいる男の姿に背筋に冷たいものが伝わる。
だがその身体に傷らしきものが見当たらないことい気づいて息を吐く。

「おい」

馬上から声を掛ければ瞼が僅かに震えた。

「起きろ、馬鹿」
「ん…三成…?」

幾度か目を瞬かせて見上げてくる様子はまるで寝起きのようで、安心したと同時に怒りが湧いてくる。

「戦場で昼寝とは随分と呑気なことだな」
「ちっ、違う! これはだな…」
「言わなくていい。どうせ明智殿に手も足も出なかったのだろう」
「う…っ」

図星を刺されて赤くなるが、そんなものは最初から予想していた。
何しろ相手は清正の初恋の相手だ。
尤も随分と幼い頃のことだし、光秀を女性と見間違えたからの失態なのだが。
秀吉の同僚だと聞いて封印したためほとんどの人には気づかれていないが、残念ながらねねと三成には一目瞭然だった。
淡い初恋が破れた後も懇意にしていたためか清正が光秀と戦えるとは思っていなかったのだ。
そしてその予想は的中していた。
「戦わなかった」のか「戦いにすらならなかった」のかは不明だが。

「俺はこれから本陣へと向かう。貴様はどうする」
「…俺も行く。悪いが一緒に乗せてくれ」
「仕方ないな。動けるのか」
「大丈夫。ちょっと腹を殴られただけだ」

起き上がる際に殴られた箇所が痛むのか僅かに眉を顰めたが、それ以外は外傷もないようだ。
三成は後ろに清正を乗せ本陣へと急いだ。







   ◇◆◇   ◇◆◇







光秀の蒼白な顔が、女の言葉が真実であることを証明していた。
驚いたのは当然。だが、それ以上に納得している自分がいるのも事実。
一度認識してしまえば、目の前の繊細な顔立ちが男性のものとは見えなくなってしまうのだから不思議だ。
やはり自分の審美眼は確かだったと内心頷いてしまうのは、秀吉ならではだろう。
だが事態はそんな呑気なことを考えている場合ではない。

「だから…」

小さく戦慄いた唇から洩れた声は低く、周囲に僅かな音があれば消えてしまうほど小さなものだった。

「だから、信長様を殺めたと。たかがそれだけのために」
「身の程を教えただけですわ」
「そのような権利がお前にあるとでも言うのですか」

湧いてくるのは怒り。
それは目の前の女に対するものか、それとも自分自身に対するものか、光秀にもわからない。
ただ、この女が光秀から全てを奪ったのだということは事実。
女なら誰でも夢見る、愛する人と共に2人の間に生まれた子を育て慈しみ、そうして年を経ていく。
戦乱の世では稀少なそれを幸運にも手に入れることができるはずだったのに。
光秀は愛する男と信頼できる友人を失い、天下は覇王たるに相応しい人物を失った。
たった1人の女の傲慢にも近い思惑で。
無意識のうちに刀に手が伸びた。
真実を問い詰めるという目的は達成した。
この女を斬って捨てたところで問題はない。
最愛の人物を奪った仇。
己の手で葬って何がいけないのか。
憎しみに心が支配されそうになる寸前、その光秀の手を止めたのは他でもない八重の一言だった。

「ですが、わたくしはあの男を殺めてはおりませぬよ。姫様とてご存じでしょうに」
「な…」
「あの男は自ら炎の中で終わることを選んだのでしょう。姫様の懇願すら聞き入れず。違いますか?」
「…どこでそれを」

光秀が駆け付けた時、確かに信長はまだ生きていた。
それどころか大きな傷を負っているようにも見えなかった。
信長しか知らない隠し通路もあった。逃げようと思えば十分に逃げられる状況であったのは確かだ。
それなのに死を選んだのは確かに信長の判断。
光秀の懇願も彼の意志を変えるには至らなかった。
だが、その場に八重はいなかったはず。どうして彼女が知っているのか。
光秀の問いに八重はころころと笑う。
そんな女の様子だけが異次元にいるかのようだ。

「あの男は確かに殺しても飽き足らないほど憎らしゅうございますが、あの場で殺してしまっては姫様も後を追ってしまうかもしれませんでしょう。そうなるとわたくしは天に還る術がなくなってしまいますもの。ですから1つ提案をいたしましたの」
「提、案…」
「えぇ。あの男がこのまま大人しく命運を終えれば、光秀様とお腹の姫君様はわたくしが責任持ってお世話いたします、と。魔王と呼ばれても所詮は人の子。わたくしの提案に快く了承してくださったみたいでよろしゅうございましたわ」

八重の言葉にくらりと傾いた光秀の身体を支えたのは、いつの間にか追いついてきた元親だった。
秀吉の主力部隊を分離させるために別行動を取っていたのだが、どうやら無事合流できたらしい。
当然のように光秀の腰に腕を回し倒れないように支えている姿は秀吉と八重の眉を顰めさせるに十分な体勢だった。

「下賤な男めが。汚らわしい手で姫様に触れるでない」
「断る。こいつは俺の友だからな」

八重の目が吊り上る。
成程、八重の弱点は光秀自身かと元親は薄く笑う。
謀叛人にしてまでも織田家から遠ざけようとした八重。
光秀と対抗するに十分の戦力を持つ秀吉を利用したことと言い、織田家の力関係は把握しているようだったが、元親がこうして光秀の側に回ることは予想していなかったらしい。
女の浅知恵なのか、それとも元親の戦力すら己の敵ではないと思っているのか。

「俺から1つ質問させてもらおうか。女。光秀の子が女児であると、何故お前が断言できる」
「そ…そうだ。儂もそれが知りたいぞ」

元親と秀吉の問いに、だが八重は眉を顰めるだけで答えるつもりはないようだった。
だが光秀からも同様に問われようやく答える。

「人間の男が天女を手に入れようとも、天女が産むのは女子だけ。どれほど子を成そうとも天女が跡継ぎたる男児を産むことはありえませぬ。今まで多くの天女が人間の男と情を通じ子を成しましたが、わたくしが知る限りで人間の男との間に男児を産んだ天女は今までおりませぬ。天女が優れた跡継ぎを産むのは天帝様との御子のみ。これは世界の不文律なのでございますゆえ」
「な、ぜ…」
「さあ、わたくしには存じませぬ。ですが、所詮は天人と人間の違いでございましょう。天女の血統は女児のみに受け継がれますから、天の血を下界に混ぜてはならぬという天の采配ではないかと」

美しい顔には慈愛に満ちた表情が浮かんでいる。
だが、それを禍々しいと思えてしまうのは、隠しきれない女の本質か。
八重が一歩近づき光秀にその白い手を差し出した。

「さあ、姫様。もうお分かりでしょう。この地はわたくし達が住まう場所ではございませぬ。天女は天に還るのが道理。八重と共に還りましょう。邪魔者は今すぐ消しますゆえに」

そう言うが早いか、目の前の八重の姿が消えた。
それは俊敏さにおいて類なしと呼ばれた光秀ですら一瞬目で追うことができなかったほどの早業。

気が付いた時には元親の身体に刃が突き刺さっていた。


  • 11.12.17