対峙する1組の男女を前に、秀吉は声を失っていた。
見た目には眼福としか言えないほど麗しい男女。
同僚であり主君の敵でもある明智光秀と、可愛がっていた遊女・かぐや――否、八重と呼ばれた女。
本能寺で主君・織田信長を弑逆したのは明智光秀だと最初に言ったのは目の前の女だ。
当初は信じなかった。
だが伝令や風聞、更には証拠の書状などから間違いなく光秀の仕業なのだと判明した時に抱いたのは純粋な怒り。
羨ましいと思えるほど主君から目をかけてもらっておきながらの謀叛。
武装していない信長を大軍で襲ったという手口も気に入らなかった。
そして、秀吉をもってしても光秀が信長に恨みを持っていたことに気付かせないほど胸の内に秘めていたのかと思えば、それもまた気に食わない。
与えられた厚遇に一体どのような不満があったというのか。
光秀とは比較的近しいと思っていたものだから、余計にその感情は増大され、主君を弑逆されたやり場のない怒りも含めて胸中は穏やかではなかった。
即日毛利と同盟を結んで戻ってきたのは、誰よりも早く光秀と会うためだと言っても良い。
会って確認して――そして真実だったらこの手で謀叛人を葬る覚悟で。
だが、そうして対峙した光秀は秀吉のことなど眼中になく。
光秀が見据えているのは唯ひとりの女。
どんな戦場でも見せたことのない険しい表情で剣を突き付けている姿は相変わらず清廉で。
反して己に謀叛を教えた女の表情の何て禍々しいこと。
どういうことか。問いただしたい気持ちはあれど、目の前の緊迫した空気に流石の秀吉も口をはさむことができない。
八重と呼ばれた女。
秀吉にかぐやと名乗った女の、おそらくは本名だろう。
秀吉ですら息を呑んだ光秀の気迫を、嫣然とした笑顔で受け止める姿は異様だ。
何が起きているのか。
それを判断するにはあまりにも情報が少なすぎた。
「八重」
「はい、なんでございましょう」
艶やかに蠱惑的に、まるで男を誘うような微笑を浮かべる八重は、光秀の怒りに気付いているはずなのにそれでも笑顔を絶やさない。
出会えたことが嬉しくて仕方ないという笑顔は戦場においてこれ以上似つかわしくないものはない。
だが実際光秀が八重に会うのは数か月ぶりだ。
数十年ぶりの再会で八重に恐怖を感じた光秀は八重との接触を断つべく城から一歩も出なかった。
身籠ってからは信長に与えられた屋敷の奥深くに籠り、こちらも外出はしなかった。
幾度か不安になって屋敷の外に出ようと思ったことはあったが、それらも信長から厳命を受けていたであろう家人にきつく止められていたため、こうして八重とまみえるのは本当に久しぶりだ。
たかが数か月。だがここまで人は変わるのかというほどに禍々しくなった八重に光秀の中で警鐘が鳴る。
彼女の全身を渦巻く怨嗟の気配と血の匂いはどういうことか。
前回会った時にはなかったそれ。
まるで人間から化生の者に変化を遂げたかのようではないか。
問いただしたいことはいくつもある。
光秀はその中でも最優先である質問を言葉にした。
「過日の本能寺への急襲、貴女の仕業ですね」
「はい」
「明智軍を動かし、信長様を弑逆した」
「はい」
当然だと言わんばかりの返答に光秀の目がすぅっと眇められる。
「あの男はたかが人間の分際でありながらわたくしから姫様を奪った。そればかりか小癪な結界まで用いて姫様の存在を隠した。当然の処置ではありませぬか。隠された姫様を探し出すのは、本当に大変でしたのよ」
「そのために利三を利用したのですね」
「えぇ。あの男はあなた様に近い存在だったので」
「そして明智の軍で信長様を強襲したと」
「使えるものは使わないと」
言葉を交わすごとに冷ややかな空気を纏う光秀の様子に構わず、八重は笑顔で答える。
歴戦の武将すら竦むほどの怒気を一身に受けておきながら武器すら持たぬ女の態度は違和感しかない。
まるで光秀を敢えて怒らせようとしているとしか思えない。
だが、真実八重は光秀を激昂させようとしているのだと光秀にはわかった。
だからこそ何とか会話ができているのだ。
そうでなければ剣を一閃させて終わりにしている。
「何故、そこまで」
「何故、と?」
それまで笑顔で答えていた八重の表情がさざ波を打ったかのように穏やかになる。
そして浮かんだのは隠しようのない憎悪。
「わたくしの姫様に手を出しただけではとどまらず、やや子まで為すなど許せるわけがありませぬ。姫様は天つ一族の当主。そしてわたくしの最後の希望。汚らわしい人間如きが気安く手に入れるなど言語道断にございます」
「やや子…」
ポツリと呟いたのは秀吉だ。
信長が幾人かの女性を囲っていることは知っているが、最近身籠った女性がいたという話は聞いたことがない。
しかも相手が天つ一族の女性ならば絶世の美女でることは間違いない。
そんな女を囲ったのであれば情報通の秀吉の耳に入らないはずはなく、況してや懐妊したとなれば織田家中で話題に上らないはずがないのだ。
だが、そんな女の噂など聞いたことがない。
況してやここ数か月の間信長が気にかけていた人物と言えば、忍びに襲撃されたり体調不良で倒れたりしていた目の前の光秀しかいなくて――。
そう、ここ数か月信長が過剰とも言えるほどに己の手元に置いていたのは、濃姫でもなく見たことも聞いたこともない天女の一族でもなく。
明智光秀。目の前の武将だけだ。
まさかという思いで光秀を見る。
白皙の美貌は僅かに強張っているように見えるが、鋭い視線は女へと向けられこちらを向くことはない。
今この状況で問いかけるほど無粋な人間ではないが、だが一度芽生えた疑惑はどうしても秀吉の脳裏から消えない。
どの女よりも美しい光秀。
流れるような所作は武人というより舞手のようで。
常に控えめで穏やかな気質は良妻の特徴の一つでもあり。
長身の割に細い身体は、女にしか興味のない秀吉ですら時々見間違えるほど華奢でしなやか。
光秀が己の領土はおろか安土領内の明智邸に帰らなくなったのはいつからか。
そして時折見せたあの体調不良や食欲不振は…。
「あの男は人にしては過ぎたものを手に入れようとしたのです。滅んで当然」
問いかけたくても問いかけられないそんな空気の中で、八重は言葉を続ける。
ひたりと見据えられた視線に、蛇に睨まれた蛙のように一歩後ずさるのは、先ほどまで毅然とした表情で女を睨んでいた光秀だ。
右手で己の腹部を庇うように身じろいだ光秀に八重は哂う。
「ねえ、そう思いますでしょう」
わたくしの姫様。
- 11.12.12